バケーション
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翌日の朝、ベッドの中で体温計を確かめた霧隠の口の端が上がる。
高熱はすっかり下がっていた。
さっそく制服に袖を通して支度を整え、玄関で靴を履く彼に、同居人の御影からの選手が声をかける。
「霧隠、もう風邪は良いのかい」
「ああ大丈夫だ」
「良かった。風丸に来てもらった効果があったのかな」
振り返る霧隠。御影選手は決まりが悪そうに語った。
「いつも元気だけが取柄のお前があれだろ。お前の好きな風丸を呼べば、治るんじゃないかって。悪いとは思ったけど、内緒で風丸に連絡入れてみたんだ」
「お前だったのか」
昨日の風丸の行動を理解する。霧隠は眉を潜めて続けた。
「オレが風丸を好きだってなんだよ」
「え?好きだろ?」
あっさりと放たれる。
「オレがどうだったって」
言いかけた言葉を霧隠は自ら閉ざした。
そう、自分の気持ちがどうだろうと、意味は無いのだ。風丸の心が揺れるのは円堂絡みしかないのだから――――。
「霧隠?」
「オレ、行くわ」
爪先を突いて、家を出た。
通学路を歩く霧隠の心はぐるぐると周り、複雑に絡む。
今日、風丸に会ったら何を言えば良いのか。有難うだなんて厭味にならないか。
円堂はどう思っているのだろうか。円堂は風丸の事をどう思っているのだろうか。
「馬鹿みてぇ」
一人呟く。どれだけ考えても相手の本心などわかるはずがない。
つくづくらしくないと霧隠は思う。
自分で自分を結構明るい人間だと思っていたつもりだったからか、自分で自分に失望している。
俯き加減だった顔を上げれば信号が青から赤へと変わろうとしていた。東京はあれのおかげで行きたい道もすぐに行けない不便さがある。
「そうだ」
ある思惑が浮かび、舌で唇を濡らす。風邪回復のリハビリを名目に、忍術で姿を消して赤信号を渡ってみたくなった。歩調を速めて走りに変え、口元に指をそえて囁く。
「伊賀島流忍法……!」
姿が消える。その瞬間であった。
「危ない!」
誰かの手が腕を捉え、強い力で引き込まれる。
「おい、何をやってる」
振り向けば豪炎寺であった。
霧隠は知らないが彼は妹が交通事故に遭った身。即座に身体が反応して引き止めたのだ。
「今、忍術で消える所だったんだよ。邪魔すんな」
掴まれた腕を振り払い、文句を言う。
「忍者だかなんだか知らないが、交通ルールは守れ。お前の都合も知らない」
「ちぇっ、堅苦しい」
霧隠は大きく跳び、横断歩道の向こう側へ着地した。そうして挑発するように両手で手を振り行ってしまう。豪炎寺は動じず、信号が青になるのを黙って待っていた。
学校に着き、部室に入れば円堂が着替えの手を止めて振り向く。中には彼一人だけであった。
「…………………………………」
「…………………………………」
視線が交差し、二人の時が止まる。
霧隠は円堂にかける言葉がまだ見つかっていない。
円堂は霧隠が熱を出したと聞いていたので、まさか翌日の朝に出会うなど想像にもしていなかった。
「お、…………はよう」
ニッと白い歯を見せて円堂が挨拶をする。
円堂は思う。こんな作ったような笑顔の挨拶は、以前の廃部寸前だった頃のようだ。そんな大昔の事でもない、ちょっと前の思い出のはずなのに過ぎ去った感覚が明確ですっきりとしていた。忘れていたんじゃない。ただ今が輝いていてずっと目で追いたかっただけなのだ。昨日の風丸との約束を繋げれば、一つの言葉が脳裏に浮かぶ。
――――思い出の復讐。
「おはよう」
霧隠が挨拶を返し、円堂は我に返る。
「霧隠。風丸から聞いたんだけど、昨日熱を出したんだって?」
「あ、うん」
頷く霧隠。
円堂は風丸から風邪の話を聞いていた。
なぜだか、がっくりする。意味も無く、悪意も無いのに。
「無理するなよ」
「もう熱は下がったから、大丈夫」
「でも、運動したら身体が熱くなるだろう。今日はほどほどに」
「大丈夫だって」
円堂の言葉を遮り、押し通す霧隠。
おかしな雰囲気だ。二人は同時に同じように思う。
自分の心中を相手が悟る訳でもないのに、受け答えが噛み合わずぎくしゃくする。
会話を止め、二人は黙々と着替えだした。しばらくすると豪炎寺がやって来て、次に半田が来て、部室は賑やかになっていく。そうして気持ちが和らいできそうだった時に風丸が入ってきた。
「おはよう」
まず目に付いたのは霧隠だ。風丸の方も今日霧隠が来るなど思ってもみなかった。
「霧隠、お前大丈夫なのか」
「ああ。すっかり治った」
「無理するなよ」
「ああ、うん」
こくん、と霧隠は頷く。
円堂と同じ言い方のはずなのに、風丸の言葉が自然と胸の内に入り込んで素直になれた。
次に風丸は円堂を見る。申し訳無さそうな顔をして詫びた。
「円堂、昨日はすまなかったな」
「しょうがないさ。気にしてないよ」
笑顔で手をパタパタと振る円堂。
気にしているのに気にしていないと言ってしまった。また笑顔を作ってしまった。
ちょっと前なら、わざと膨れっ面をしてみせたりもしていたはずなのに出来なかった。
周りに仲間がいるからだろうか。たぶんきっとそうだ。自身に暗示をかけるように思った。
「試合はどうだった?」
「凄かったぜ。あとで話すよ」
後で話す――――。
会話の約束が出来たからか風丸の表情が笑みに変わり、円堂の気持ちも氷が溶けるかのように穏やかになる。
「…………………………………」
そんな円堂と風丸を霧隠は横目で眺めていた。誰にも悟られないように、瞳を微かに彼らへ向けて。
もしも霧隠が普通の人間だったなら、瞳の動きも気持ちも揺らぎも鋭い誰かには気付かれたかもしれない。しかし彼は忍者であり、普通の人ではなかった。誰一人、霧隠の信号には気付きもしない。
風丸の言葉が素直に届いたように、円堂と風丸が笑うの息遣いも霧隠の胸に直接入り込み、息苦しくさせた。
胸のもやもやは苦しさに変わる。苦しさは恐らく、痛みへと変わっていくのだろう。
なんでこんな思いしなきゃならないんだろう。
霧隠の気持ちは沈んでいく。
せっかく田舎の戦国伊賀島から華やかな関東へ行き、大好きなサッカーを気に入っている風丸と一緒に走りながら出来るのに。風丸は優しいし、円堂は頼れるキャプテンだし、仲間の皆も良い奴ばかり。
何がいけないのだろう。窮屈で心細い。
一人頭を振い、外へ出てグラウンドへ向かった。
朝日が照らす雷門中のグラウンドで練習が始まる。
「よーし、締まっていくぞー!」
キャプテン・円堂の威勢に仲間が声を揃えて応えた。
「おー!」
マネージャーの作成したあみだでチームを分けて練習試合を行う。
試合開始直後から霧隠がボールを掠め取り、ゴールへ向けて必殺技を撃ち込もうとした。
「伊賀島流忍法……!」
術の唱え中に唇が震えて固まる。
――――これは……?
違和感が生まれ、身体全身を悪寒が走り、冷や汗が噴き出た。
当然、ボールは取られてしまったが、霧隠は動く事無く立ち尽くす。
「霧隠、どうした?」
風丸が駆けつけ、霧隠の前に立って問う。
彼の瞳は反応する事無く地を見下ろしていた。
「…………………………………」
「霧隠?」
「………………が」
「え?」
「術が、使えない……」
瞳だけが動き、風丸を見上げる。
恐怖に染まった色に風丸は目を丸く見開き、真剣な表情で霧隠の肩を掴み、優しく囁く。
「霧隠。落ち着け。深呼吸をして、ゆっくりもう一度やってみるんだ」
「う、うん」
胸の前で印を組み、術の前準備を整える。手が震え、指の関節に変な感じがした。
「駄目だ……」
「諦めるな。簡単なものをやってみて、調子を見てみろ」
霧隠の異変に、他の仲間もやって来て彼を見守る。
「出来ない……なんだこれ……」
両手を広げて見詰めた。
「落ち着け。霧隠。落ち着くんだ」
風丸は横に回り、霧隠の背中を擦ってやる。
「熱のせいとか、あるか?」
首を横に振る霧隠。
「ない。こんなの、生まれて初めてだ……」
声が震えていた。
普段の明るい霧隠からは聞かないような音に、仲間は深刻な事態なのだと察する。
「そうか。まず休んで、ゆっくり考えよう」
「あ、ああ」
霧隠の返事を聞くと、風丸が集ってきた仲間の内の一人――――円堂へ目を合わせた。
「円堂。そんな訳だから、俺は霧隠と部室に行っている」
「わかった」
円堂が了承し、風丸と霧隠は部室へ歩いていく。
霧隠の背を何度も振り返りながら練習へ戻る仲間たちを尻目に、円堂はじっと二人の背中を見据えていた。霧隠が心配だった。だがしかし、心の内は非常に残酷な言葉が渦巻いているのだ。
別に風丸が連れて行かなくても良いじゃないか。
なぜこんな事を思わなくてはならないのだろう。親切な風丸のあんな光景はそう初めてでもないのに。皆、大事な仲間のはずなのに。
――――仲間?
ふと、思い込んでいた単語に円堂は違和感を覚える。
確かに皆、仲間ではあるが風丸は少し違う。彼は古い付き合いで陸上部だった。サッカー部に入ったのは円堂が廃部をかけた勝負の部員集めに困っていたからだ。
風丸はいつどんな時も傍にいてくれた。定員を満たさないサッカー部についての相談にも乗ってくれた。一人で悩む自分を助けてくれた。
ああ。
唇が薄く開き、息を吐くように円堂は理解する。
似ているのだ。霧隠が、風丸にしか拠り所の無い一人で思い詰めようとする自分と。
重なるのだ。苦しい頃の思い出と。
遠くなる二人の背は、過ぎた過去が風丸を連れ去ってしまうように見えて苦しいのだ。
そんな昔のような情けない俺と行くなよ。
今の俺の方がずっと良いだろ?
声にならない思いが悲鳴のように軋んで頭と胸に響く。
唇の隙間から覗く白い歯が、奥歯をきつく噛み締めた。
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