この日、雷門が恋に落ちた。



みんな目金を好きになる
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 二月。雷門の若い学生が気になる話題はバレンタインデーであった。
 駅前や商店街にもバレンタイン用の華やかなチョコレートが飾られ、道行く人の目を惹き付けている。
 当然、学校新聞を作成している新聞部も話題に乗り出さない手はない。
 部室では部長が嬉々としてテーマのタイトルを練り、部員に聞かせる。
「今度の新聞のテーマは“バレンタインのチョコを一番手に入れるイイ男は誰?”かな」
「それが無難でしょうね」
「予想の候補は今絶好調のサッカー部から豪炎寺。それとも目金?みたいなのでどうだろう。女子ウケとして煽るのは大事だと思うんだ」
「部長」
 待ったをかける部員。
「それは去年“サッカー部のイイ男”でやったじゃないですか。栗松くんに意外性を持たせたけれど、言わずもがなになりましたよね」
「誰々のチョコを射止めるのは誰?みたいなのも良いと思うんです」
 他の部員も意見しだした。
「皆の言いたい気持ちはわかるさ。だけどな……今回、俺なりに勝算があるんだよ。まあ、聞いてくれ」
 部長は皆を椅子に座らせ、ホワイトボードの前に立つ。
「今度の新聞のバレンタインテーマ。俺はサッカー部二年・目金くんをダークホースに推したい」
 目金。なぜよりにもよって目金なのだと、部員はざわついた。
「目金くんはベンチが多く、公式試合に出ていた記録は限りなく少ない。ある意味、結果の読めない人物なんだ」
「部長。さっきも言いましたが、去年のテーマの二の舞になりませんか」
「ならない。去年は俺たちが意外性として名前を出して、それっきりだった。けどね、今度は違う」
 部長の瞳が決意したように鋭さを増し、ポケットに手を入れる。
 そして取り出したものを部員に見せた。


「見てくれ」
 小さな瓶をかざして揺らす。
「ずばり。これは“惚れ薬”だ」
「は……?」
 状況が飲み込めない部員。無理も無い。惚れ薬などファンタジー世界の代物だ。
「サッカーが次元を越し、洗脳装置まである昨今。惚れ薬作成など、どうという事は無いのさ」
「ですが、そんなものが……」
「理科室の小此木先生にお願い頂いた。目金くんの髪の毛を極秘裏に収集して調合し、飲めばたちまち目金くんが好きになる魔法の薬なのだ」
 この人、狂ってる。部員は部長の狂気の片鱗に感付き始めた。
「部長。これは情報操作じゃないですか。いくら意外性を持たせるからといって、僕らはあくまで真実をですね……」
 一人が席を立ち、意見する。だが部長は動じず、放つ。
「それがどうした。去年俺たちが味わった屈辱、忘れてはいないよな」
 屈辱――――。あれだけ活躍したサッカー部の活躍を満足いくような記事に出来なかった事。
 部長だけではない、他の新聞部員も苦汁を味あわされていた。
「皆が驚き、感動する記事を作ってみたいとは思わないか」
「僕だって思います。だけど、悪魔に魂を売っちゃいけない」
「悪魔、か。俺は悪魔にだってすがりたいさ。もうあんな思い、したくない」
 瓶を胸元に持っていき、自嘲気味に口の端を上げる部長。近い席にいた部員がある事に気付いた。
「部長……。それ……空、じゃないですか……?」
 問いかける声が震えた。まさかの可能性が怖い。
 部員たちは息を呑み、瓶に注目する。部長の持つ手は何も入っていないのを示すように、軽そうなのだ。
「ご名答。もうバラまいて来ちゃった」
「な、なんだって!!」
 あっさり答える部長に驚愕する部員たち。
「雷門中の水に溶け込んで、今頃皆の口の中に入っているさ」
 今度は青ざめた。この時期、バレンタインに関した菓子作りで家庭科の調理実習を行うクラスが多く、もう既に水を使ってしまった者もいる。
「部長。あんたって人は」
「見損ないました。貴方の新聞に対する情熱を尊敬していたのに」
 非難する部員たち。しかし、ある者がぽつりと呟く。
「でも、目金くんってカッコ良いですよね」
 ざざっ。発言をした部員の周りにいた者が一斉に離れた。
「うん。特にあの眼鏡良いよな……いかにも眼鏡!って感じで」
 もう一人現れる。部員の中に症状を表した者が出始めた。これではいつかの雷門区域に起こった洗脳事件の再来だ。
 恐怖をする一方で、部長の非道な野望をそう悪いとも思えなくなってきていた。寧ろ、ナイスアイディアと褒めたくなる。そんな部員の変化を眺めながら部長はほくそ笑む。
「徐々に効いてきているようだな。かくいう俺も、初めどうかと思ったが今は清々しい。だって、目金は最っ高にイイ男だろ?」
 部長その人も水を飲んでいた。
「ぶ、部長っ!」
 一人が慌てたように挙手する。
「どうした」
「俺、眼鏡買いに行って良いっすか?目金と同じデザインの眼鏡が欲しいんです」
「良いだろう。丁度、俺も欲しくなった所だ。あと目金“くん”だ。カリスマは称えねばならない」
「はっ。肝に銘じておきます」
 部長は頷き、その部員と共に部室を出て行った。彼らの後をついていく部員までいる。
 元から眼鏡をかけていた女生徒もフレーム変更を考え出していた。






 かくして新聞部部長によって仕組まれた“目金モテモテによるバレンタインチョコ操作”の作戦。それを偶然耳にし、震える者がいた――――
「あ、あ、あわわ…………」
 サッカー部・マネージャーの音無が、新聞部入り口前の廊下端でしゃがみこんだ。
 彼女は元新聞部で、サッカー部に転部してからも新聞部に慕われていた。今日は久しぶりに顔を出そうとした時にこれだ。とんでもない事実に音無は震えがなかなか治まらない。声を殺し、隅に隠れるのが精一杯であった。幸い、雷門の水を飲んだ覚えが無いのが彼女の心の支えだ。
「目金さんを好きになるなんて……何が何でも絶対にどうしても嫌とは言いませんが、私たちにだって選ぶ権利はあるんですよ……」
 酷い。
「一大事です。サッカー部に報告しなければ」
 身を起こし、背を屈めて素早く文化棟を後にする。


 一方、何も知らないサッカー部の部室では小さな勉強会が行われていた。バレンタインもあるにはあるが定期テストもあり、赤点を取れば試合には出られない。近々、練習試合を控えているので、体力強化とは別の準備であった。
 机に座る部員たちに、ホワイトボード前で教えるのは土門。彼は英語を担当していた。
「うーん……」
 頭を抱える円堂。大好きなサッカーはいくらでも頑張れるのに、勉強はなかなかそうもいかない。
「キャプテン。頑張れよ」
 壁に寄りかかり、冷やかし混じりのエールを送るのは風丸。彼は参加していない。
「皆、頑張ってね」
 その横で笑う木野。そっと部室を出て、彼女は家庭科室へ向かう。冷蔵庫を開ければ“木野”と書かれたトレイにたくさんのゼリーが載っていた。頑張る部員へのご褒美に木野が内緒で作ったお菓子である。
「よーし。冷えているわね」
 出来を確認し、上手に持ち上げて持っていく。
 これは家庭科室で作ったものであり、当然ここの水を使っている。
 部室の前でノックをして風丸に開けてもらう。
「皆、一休みしましょ」
 手に持ったゼリーを見て、部員たちは歓喜した。
「美味そう!」
「俺の分もあるよな、アキ」
「丁度、甘いの欲しいなって思っていた所だったんだ」
 トレイに次々と手が伸び、ゼリーが減っていく。喜んでもらえて、木野としては嬉しかった。
 甘いものを口にして和やかな雰囲気の中に、音無が勢い良くドアを開ける。
「みみ、皆さん!聞いてください!!」
 あまりにも急いで来たので、額に上げた眼鏡が立ち止まると同時に落ちてはめられた。
「どうしたんだ音無」
「急いでどうしたの。汗は早く拭いた方が良いよ」
 のんびりと答える仲間たち。
「そそ、そんな事より!」
 目撃した事件を訴えようとした音無の目に、ゼリーの器が入った。
「あの……それは……」
「ゼリーよ。私が家庭科室で作ったの。音無さんの分もあるわよ」
「かていか……しつ……」
 滲んだ汗が急速に冷えていくのを感じる。
「春奈。どうした」
 名前を呼ばれて振り向けば、横に鬼道が立っていた。目は彼女を見詰め、手は器を持ってスプーンを動かし、口はゼリーを頬張っているではないか。
「ひいいいいいいい!!!」
 悲鳴を上げ、素早く離れて壁に貼りついた。
「どうしたんだ。ゼリーでも食べて落ち着け」
 歩み寄る鬼道。ゴーグルに隠された瞳が純粋に妹を気遣う。
 けれども当の春奈には、惚れ薬を飲んで堕ちた兄にしか映らない。


 お兄ちゃん。目金さんを好きになっちゃうんだ。
 あはは……ホーモ、ホーモ……


「は……はは……」
 口からは引き攣った笑いしか出てこない。
 真の恐怖に直面した時、人は笑うしかないという。
「どうしたの、音無さん」
 木野も心配して寄ってくる。
「……あの、木野先輩もゼリー食べちゃったんですか」
「え?私?まだだけど」
「ほ、ホントですかっ?」
 じわっ。涙目になる春奈。
「音無さんっ?」
「春奈?」
 動揺する木野と鬼道の後ろから、円堂が能天気に言う。
「音無、ゼリーは一人一個だぞー」
「違いますっ。木野先輩、来てください」
 音無は木野の手を引き、部室を出る。鬼道も追おうとしたが、目の前で閉められた。少しだけ鼻の頭をぶつけて目が潤む。鼻は急所だ。
「きっと、反抗期ですよ……」
 土門が呟くように慰めた。


 部室の前で、木野は音無に問う。彼女は背をドアに押し付けるようにして息を整えていた。
「一体どうしたのよ。音無さん」
「先輩……」
 語りだそうとするが、またもや彼女の目に惹き付けるものが映る。
「あら、部屋に入らないでどうしたの」
 夏未だ。彼女は目を瞬かせながら、二人の元へやって来た。
「夏未さん……そうだ……夏未さんにも是非聞いて欲しいんです」
「私?それより入りましょう。寒いわ」
「駄目です。いけませんっ」
 手を広げ、首を振って拒否する音無。木野が夏未に視線を合わせ“この調子だ”と送った。
「そう。なら私の部屋に行きましょう。音無さん、貴方随分疲れているようね。これでも飲みなさい」
 丁度持っていたペットボトルケースを手渡す。
「有難うございます」
「この時期、乾燥しているから喉が渇きやすいわ。ただのお水だけど……」
「!!」
 音無は顔を背け、口に含んだ水を咳き込むようにして吐き出した。
「音無さん、貴方……」
「理由は夏未さんのお部屋に行ったらお話します。一大事なんです」
 二人の背を押す。急かされるまま夏未の部屋に着き、音無は事情をやっと語る事が出来た。
 音無の話を聞く内に、夏未の表情は深刻なものに変化していく。木野は未だ信じきれず、困惑していた。
「音無さん……疑う訳じゃないけれど、本当なの?惚れ薬なんてものが……」
「思い当たる節があるわ。私の隣のクラス、調理実習帰りから様子がおかしいのよ……眼鏡の話ばかりするの。木野さん、貴方も世宇子の件で身をもって知っているはずよ。ありえない話じゃないわ」
「どうか信じてください。元新聞部として、私は部長を止めたいんです」
 胸元に手を合わせ、音無は二人の瞳を見据える。彼女は傷付いているだろう。本当は信じたくは無いのだろう。だがそれでも逃げずに立ち向かおうとしているのだ。
「でも……私たちに何が出来るかしら……。円堂くんたちにも協力を」
「駄目よ。ここの水を使ったゼリーを食べたんでしょう?もう彼らは堕ちたも同然だわ」
 木野の言葉を夏未がばっさりと断ち切る。
「ゼリーなんて作らなければ良かった……」
「貴方は知らなかったんだもの。過ぎた事を責めないで。目金くん本人はどうしているの」
「目金くんは風邪で休んでいるそうよ。明日には来れるって連絡が入ったわ」
「不幸中の幸い……かもしれないわね。今日は私が水の使用を止めさせる。明日、目金くんが来たら様子を探りましょう。惚れ薬と一言で言っても、効果がどう反映されるかわからないと動けないから」
 夏未は冷静に自分の意見を伝えた。木野と音無は心強さに気持ちが落ち着いていく。
「夏未さん。どうしてそんなに落ち着いていられるんですか」
「違うわね。バレンタインは雷門中の生徒が楽しみにしているイベントよ。理事長の娘として、私は守らなければならない責任がある。これは理事長の言葉と取ってもらっても構わないわ」
 それに……。軽く咳払いをして、柔らかく微笑む。
「貴方たちがいるもの」
 木野と音無はハッと口を開け、嬉しそうに頷いた。


 三人のマネージャーの気持ちが一つになる頃。サッカー部の部室では勉強会が再開されていた。
 机に頭を載せる円堂がぽつりと呟く。
「なあ、目金どうした?」
「欠席だって言っていたぞ」
 松野が答えると、ふーっと息を吐いた。
「そうだったな。なんか、ムショーに目金に会いてぇな」
「奇遇。俺もだ」
「俺もだよ。アイツの眼鏡がどんなだったか目に焼き付けたい」
 円堂の言葉に次々と賛同する仲間たち。
「目金の眼鏡ってなんであんなカッコ良いんだろう」
「なんでだろうな……」
 目金の眼鏡を思い浮かべ、うっとりとする。もはや勉強など身に入らない。
 惚れ薬は着々と心に侵食していった。










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