空が青い。海が青い。
 この当たり前の風景が続いているのは、彼のおかげだと感じていた。
 温かい日の光が、教えてくれたような気がしたのだ。


 潮風が地平線を眺めるファラの髪を撫でる。
 南エスタミルの桟橋から海を眺めるのが好きだった。
 世界を覆う暗雲が晴れて、どれくらい経っただろうか。
 ジャミルはまだ戻って来ない。
 絶対に帰ってくる。信じていた。
 けれども、彼がどういう意味を持って顔を見せてくれるのかを思うと、胸が締め付けられる。


 もう二度と絶対に、昔には戻れないのだから。


 ジャミルはそう、この風景のような人であった。
 どこまでも自由で、真っ直ぐで、強い人。
 しかし、それだけではない。そう見せてくれていただけ。
 いつまでも変わらない風景が、彼の強がりのように見えて切なかった。


 ジャミル。あなたを一人で悲しませはしない。


 海の先にいるだろう彼の元へ思いが届けば――――願いを込めて目を閉じた。



満たされる世界
-3-



 日差しの強いある日。ファラは時間が出来ると海のある方へ足を運ぶ。
 海鳥が妙にざわついているような気がする。急に胸が高鳴りだした。
 歩調が速められ、小走りへと変わる。
 角を曲がって、いつも眺める桟橋が見えた所でファラは声を上げた。
「…………あ」
 どこから出たのかわからない音が出る。足が止まり、雷を受けたような衝撃が頭から爪先へ走る。
「…………ああ………」
 手が無意識に胸元へ上がるが、指が震えて何をしたいのかがわからない。
 目の奥が染みて、鼻の奥もつんとする。


 いつも眺める桟橋の近くで、水鳥に餌をやっている男がいた。
 背を向けて、屈んでいる様。いや、猫背なのだ、きっと。
 風が衣服の裾をはためかせる。見入りすぎて音まで聞こえそうだが、水鳥の鳴き声で塞がれる。
 南エスタミルには似合わない派手な色合いを纏っているが、どこか自然と合って溶け込んでいた。
 男はファラの視線に気付いたのか、彼女の方を向く。
 ファラだとわかると口元を綻ばせて、声をかけた。
「よう、ファラ」


 涙が滴となって溢れ出す。拭うのも忘れて男の元へ飛び込んだ。
 男――――ジャミルは両手を広げてファラを受け止める。水鳥が一斉に飛び立っていった。
「………うっ………うう…………うああああああああ!!!」
 ジャミルの胸元を掴み、顔を埋めて泣きじゃくる。何か言うべきなのに、人が聞き取れるような言葉が出て来ない。
「…………ファラ……」
 ファラの髪を撫で、身体を隠すように抱き締める。ゆっくり、ゆっくりと優しく力をこめた。
 様々な思いが込み上げた。帰ってくるとは信じていたが、待つ時間は寂しい。好きでもない人と結婚されそうになった。不安で悪い想像が何度も苦しめた。
 しかし、それももう終わり。
 今、視界いっぱいにジャミルがいる。息を吸えばジャミルの匂いがする。身体はジャミルの体温を感じている。
「……ジャミル…………ジャミル……もう……」
 もう、終わりで良いんだよね?
 顔を上げるファラは、思いを瞳で訴えた。
「ファラ」
 ジャミルは笑っていた。ファラを見据え、微笑んでいる。
 彼の表情は変わらない。笑っているだけで、何も言ってはくれない。
 ジャミルの手が背中から腕に触れて、身体を離される。小波のように静かに、距離を離された。


「ファラ、会えて良かった」
 ファラの鼓動が痛い程に大きく鳴る。
「この世界を守れて、ここに帰って来れて良かった」
「……いてくれるよね…………ここに……」
 本心のつもりなのに、冗談を言っている気分になる。
「ファラ」
「もう、良いじゃない」
 衣服を掴んだままの手を引いた。
「もう、ジャミルはいっぱい苦しんだよ」
「俺がく」
「わかるよ、それくらい」
 ジャミルの言葉を制して手を離し、両腕を下ろす。掴まれた箇所はしわになっていた。
「ジャミルは……ジャミルはさ……」
 涙声を誤魔化すように俯くファラ。
「………のいない現実から、ずっと逃げ続けているんだよ。逃げて、逃げて、逃げ続けて、もうどこにも行く場所がなくて、ここへ戻って来ただけ」
 ファラの手が拳を作り、小さく震えた。
「これ以上、どこへ行こうとするの。この世にジャミルの知らない場所はもう無いはずよ」
 ジャミルの腕が上がろうとして戻る。
「…………ジャミル……」
 歯を食いしばり、込み上げる涙を耐える。それでも零れた涙を流し、彼女は言う。
「あたいは、あなたを、失いたくない」
 両手で顔を覆った。


「ファラ。わかっているさ、戻れないって」
 ジャミルはファラの顔を上げさせ、袖で彼女の涙を拭ってやる。
「半分正解で、半分間違いだ。俺は確かに逃げていたのかもしれない。けどな、ここへは逃げで来たんじゃない。逃げない為に戻って来たんだ」
 次に、涙と共に滲んだ汗で張り付いた前髪を直した。
「もちろん、ファラに会う為に決まっているだろ。ごめんな」
 もう一度抱き寄せ、離す。
「だから、後生だ。行かせてくれ」
 そう頼まれては、断れるはずがない。あまりにも卑怯すぎる。つぐむファラの口元が歪んだ。
 彼女の肩を軽く叩いてジャミルは背を向けて町の外へ足を踏み出す。
 納得が出来ず、じっとジャミルの背を鋭く見据えるファラ。
「ああ、そうだ」
 数歩歩いた先で、ジャミルは不意に足を止めて振り返る。
「なによ」
 思わずファラは言い返す。


「生きて帰ってきたら、結婚でもしようや」
「馬鹿!」
「へへっ」
 ジャミルは舌を出し、手を振りながら歩いていく。
「あばよ。幸せになってくれ、ファラ」
 この言葉は、彼女には届いただろうか。また振り向いて、確認は出来なかった。






 南エスタミルを抜けると街道に出る。
 目指すは西。タルミッタを抜けた西へ向かう。
 この胸に宿る決意とは裏腹に、世界は呑気なほどまでに暖かく心地が良い。溢れんばかりの生命の息吹を身体全体で感じる。
 ジャミルは手を握り締め、開いて見せた。自分が生きている証を確かめようとする。


 邪神サルーインに勝利したものの、ジャミルたちの命はミルザと同じく力尽きてしまった。
 ミルザはエロールによって天界へ引き上げられた。だが、ジャミルたちは人の身体に再び生を受けた。
 エロールは、この満たされた世界で生きる資格を与えられてくれたのだ。


 元の命は顔も名前も知らない両親から貰ったもの。
 今あるこの命は、神が自分だけの為に与えてくれたものだと思っても良いのではないか。
 ジャミルは胸に手を置き、衣服を握った。
 俺の――――俺だけの為に。


 ジャミルの見据える先には、アサシンギルドの本拠地である洞穴があった。
 洞穴の口から強い風が吹き上げる。かつての約束を思い起こさせた。
 怖気がする程静かで、底の見えない闇の中へジャミルは歩調を変えずに潜っていく。
 規則正しい靴音だけが響いていた。










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