悪夢
-4-



 霧に包まれた薄闇の中、街灯がぼんやりと照らした。
 雨は止んだが、まだ濡れて水溜りが点々と残る石畳の上を、一匹の馬が歩く。
 バファル帝国首都メルビル。グレイとミリアムが辿り着いた頃には、すっかり日が暮れて夜になっていた。一足先にジャミル達は着いているのだろう。
 グレイだけが馬から下りて、手綱を引いて誘導させた。ここへ来るまで、一言も言葉を交わしていない。
「馬を止めてくる」
「…………………」
 ミリアムは無言で頷き、馬から下りる。フードをまた被り、夜の闇もあって表情は見えない。
「そこの宿に行っていてくれ」
 こくりとミリアムは頷く。側に建つ宿の中へ入った。
 2人部屋を取って、部屋の扉を開けてマントを脱いだ。ブーツを脱いでベッドの上でくつろいでいると、しばらくしてグレイが入ってくる。


「…………………」
「…………………」
 目が合うと視線を逸らし、気まずい空気が流れた。しっとりと濡れた前髪を避け、グレイはおもむろに口を開く。
「あいつらとは、昔の仲間なんだな」
 改めてミリアムに問う。
 彼女は俯くように頷いた。
「外で手近な兵士に聞いた。2階の宿に泊まっているようだ。服がボロボロだったからな、目立ったらしい」
 グレイもマントを脱いで、適当な椅子にかけて、そこに座る。
「あの身なりで明日の船の時刻を調べていたそうだ。メルビルからしかいけない場所となると、恐らく行き先はリガウだろう。俺も明日、船に乗る」
「そうだね」
 ミリアムはごろんと転がり、身体を横にする。
「ミリアム、悪い事は言わない。決意がないなら残れ」
「何それ!」
 声を上げて飛び起きた。
「この次は容赦なく命を狙われるぞ。お前に奪う気持ちがなくても」
「1人じゃ無理だよ。今日だって」
「退く気はない」
 シーツを握り締め、ミリアムは込み上げるものをこらえた後、呟くように言う。
「………………どうしても、ジャミル達と戦うしかないの」
「そうだな。俺には、許す事は出来ない」
「仮に仇を討ったとして、何が残るの」
「さあな。だが、今あるこの……………」
 グレイは立ち上がり、胸元を握り締めて言葉を飲み込んだ。背を向け、壁に拳を置く。


「殺したら、グレイは恨まれて命を狙われる。その繰り返しだよ。誰かが、どこかで止めなきゃいけない。許さなきゃいけない」
「俺は、その誰かにはなれないさ」
「あたしだって、許せないよ。でも……失うのは嫌だよ。どうして…………」
 離した手に、握った跡がシーツに残る。
「ねえグレイ、聞いて欲しい事があるの。今のあたしには説得力がないのかもしれないけど」
「なんだ」
 グレイは振り返り、ミリアムを見た。
「上手く、出来すぎているとは思わない?」
「何がだ」
「あたし達はガラハドに会いにアルツールに行って、事件を知ったよね。それがもし、何日か遅れていたら追い付くなんて出来なかった。仇が討てるように、仕向けられているような気がするの」
 腕を組み、壁に寄りかかってミリアムの話に耳を傾ける。
「仕向けてどうするんだ。誰か得をする人間でもいるのか?」
 自ら口にした言葉に、グレイは眉を潜めた。
「…………人間、じゃない?」
 ミリアムも顔をしかめて頷いた。
「ジャミル達は、あたしがパーティに入っていた頃よりも格段に強くなっていた。あたし達だって弱い訳じゃない。騎士団領の名誉騎士って呼ばれたり、ディステニィストーンだって手に入れた」
「…………………」
「バーバラはアメジストを持っているの。もしかしたら他のディステニィストーンも手に入れているかもしれない」
「相討ちにさせようとしているのか?」
「憶測でしか、ないけどね」
「言い分はわかった。だが」
 腕を下ろし、背を壁から離す。
「手を取り合う事など出来んな」
 つかつかと歩いて、浴室の中へ入って行った。バタンと、やや強めに扉は閉じられる。








 ミリアムは瞼を開けた。暗く、窓から月明かりが淡く差し込んでいる。どうやらあのまま眠ってしまったようだ。明かりはグレイが消してくれたのだろう。横を向けば、グレイが寝息を立てて眠っている。
 何か、出来る事は無いのだろうか。手の甲を額にあて、息を吐く。
 話でも、出来れば良いのに。考えている暇は無い、次に戦えば誰かが命を落としてしまうだろう。
 身を起こし、護身用に杖を持って宿を出た。
 町に着いた時よりも闇は一層深くなっており、肌寒い。通行人は誰もおらず、静寂が包み込む。杖を置くと、想像以上に音が響いて慌てて上げた。
「ジャミルとバーバラは、2階ね」
 目の前に見える大階段を見上げる。昼間のメルビルにも訪れた事があり、荘厳で美しく見えたそれは不気味で重々しく感じた。階段に近付くにつれて、心臓の音が速まっていく。緊張をしていた。命の危険もあり、話すにしても何を話せば良いのかまだはっきりとしたものが見えていない。けれども、会わなければ何も始まりはしない。
 ごくりと生唾を飲み込み、一段目に足を置いた。


 2階へ上っても、暗さは変わらない。民家から離れたせいか、より物寂しく感じられ、不気味さが一層に増す。完全な真っ暗闇ではない。街灯はある。だがそれが余計に怖いと感じた。
「あたし、こんなに怖がりだったっけ」
 1人呟くが、当然誰も相手にしてはくれない。
「どっちだったっけ」
 右左を確認するが、宿のある方向は頭から抜け落ちていた。
「こっちで良いや」
 適当に曲がって進んで行く。


「え?」
 ミリアムは瞬きをして、目を擦った。今、景色が近付いたような気がしたのだ。
「あれ?」
 キョロキョロと見回す。扉か何かがあるはずなのに、壁が延々と続いていた。
「!」
 ハッとして後ろを振り返る。先ほど上ったはずの階段が無くなっていた。
 杖を握り締め、気配を伺う。別の空間に閉じ込められたようだ。
 僅かに灯る明かりが作るミリアムの影が、無音の中でゆっくりと伸びていく。引き伸ばされた影は黒から赤へと変色していく。そして別の人影を映して、盛り上がる。
 背筋に冷気を感じ、ミリアムは振り返る。そこにはアルツールで出会った、赤いローブの人物が立っていた。だが、既に彼女はわかっていた。あれは人間ではない、サルーインのしもべだと。
「もはや姿を偽る必要など、ありませんね」
 男の声を放ち、姿を歪ませて現れたのはミニオン・ワイルであった。
 ミリアムの杖が空を切ってミニオンに向けられる。
「おや、感謝されたいぐらいなのに。追い付く事が出来たではありませんか」
「誰が」
 予想が確信に変わり、煮えくり返る怒りでわなわなと震えた。
 水晶玉で覗いた悲劇。潜んでいた悪意を知れば、ガラハドが倒れる様を傍観して楽しんでいたのだとも取れる。
「そう、その目だ。さあ、かかって来なさい」
「調子に乗るんじゃないよ!」
 ミリアムの術力に応え、彼女の周りを炎が舞った。


 ミニオンへ向けて火術を叩き込むが、ことごとくかわされてしまう。
 闇に溶け込み、影となって、また闇の中から姿を現す。今度こそと狙いを定めた術も、はずして壁に当たった。普通なら焼け焦げるはずなのだが傷一つ付かず、煙が掻き消える。ここが異様な空間なのだと術を使用する度に思わされて、気持ちを焦らせる。
「………く」
 背後から飛んできた風の刃を同じ術で相殺させた。
「はっ………はっ………」
 こうも頻繁に術を使えば、疲労の色が見えてくる。息は乱れ、集中力が失われてくる。
 足元を見て、顔をしかめた。ブーツの片方だけ損傷が激しい。ジャミルに狙われたのと、同じ足であった。ミニオンがこの足だけを集中的に狙ってくるのだ。あの時に負った傷は術で治療し、攻撃も直撃は受けていないものの、掠りや余波を受けて傷付いていた。
「やぁっ」
 影に溶け込もうとしたミニオンを杖で払うが、間に合わずに空振りをしてよろけた。そのまま何かの力に杖が引き込まれて、身体を引き摺られる。杖の先を黒いものが包み込む。手形のような跡が付き、ミニオンの手が浮かび上がってくる。
 ずずっ………ずっ………
 杖がミニオンの身体の中へ呑み込まれていく。引き抜こうとしてもビクともしない。周りを包み込む禍々しい気が近付いてくる。肉眼でも確認出来るそれは、揺らいで冷気を放つ。触れそうになった時、ミリアムはとうとう手を離してしまった。杖は呑み込まれ、闇の虚空へ消えていく。
 後ろへ下がって距離を作り、手の甲で冷や汗を拭った。
 どうにかしなければ。血路を考え巡らせながら、手の中に魔力を集める。
 ボン!
 ミリアムは反射的に顔を背けた。術が暴発して、小さな爆発を起こしたのだ。両手からは煙が昇っていた。今まで使った魔力が何らかの形で充満をしているのかもしれない。拳を握り締め、決心したように彼女は頷く。
 踵を返し、全速力で走り出した。
「おや…」
 ミニオンは額に手を当て、遠くを見る振りをしてみせる。




 カンカンカンカン…
 どこまでも続く回廊を、ミリアムの足音だけが鳴り響いた。
「はぁっ、はぁ、はぁ」
 どこまでもどこまでも走り続けても、先が見えない。躓きそうになるが、こらえて走り続ける。後ろは振り返らなかった。ただ前だけを見て走り続けた。
 きっと、きっと、どこかに抜け出す道がある。そう信じて駆けていった。


 何か後ろから光が差す。ミリアムは咄嗟に、狙われていた足を庇おうとする。だが無防備になったもう片方の足に火術が炸裂した。
「ああっ」
 転んで床に倒れる。身体を支えようとした腕が擦れ、玉を紡いだアクセサリーの紐が切れて散乱した。コロコロと転がり、いくつかが跳ねて音を立てる。
 焼け爛れたブーツの足首を押さえ、上半身を起こして振り返った。底の見えない闇の中を、冷たい炎が揺らいでいる。孤独と絶望が、一気に心を支配していく。
「あ…………ああ……」
 逃げようと動かそうとしても、身体が動かない。ぺたぺたと床に手を付き、ずらそうとしても動かない。
 風術が顔の横を通り抜け、帽子が高く上がり、髪を結んだ片方のリボンが解け、さらりと流れた。ぷつりと頬に線が引かれ、そこから血が伝う。
 気力を絞り、何とか立ち上がるが、足はガクガクと震えていた。
「もう諦めなさい」
 声が傍から聞こえたと思えば、ミニオンが目の前に現れる。
「ひっ」
 足が上手いように立ってくれず、その場で尻餅を付いてしまう。ミリアムの顔は恐怖一色に染められていた。
「もういいでしょう」
 諭すような声に、温度は一切感じられない。ミリアムはふるふると首を横に振り、ミニオンの前に手をかざす。彼女とミニオンの周りを閃光が包み、巨大な火球が衝突して大爆発を起こした。最後の最後で隠し球が発動したのだ。爆風に吹き飛ばされながらも受け身を取って、ミリアムの顔に輝きが戻る。
「や、やった」
 だが笑顔のままで表情が硬直した。


 風術が連続して襲い掛かり、彼女の身体は高く舞い上げられて、人形のようにどさりと落下する。うつ伏せになり、小さく震えながら顔を起こせば、ミニオンが変わらぬ姿で立っていた。もはや抵抗をする力など残ってはいなかった。
 ぐったりと置かれた手の上で、光のダイヤモンドが希望とでも言うかのように、闇の中で煌きを灯していた。ミニオンのローブが僅かにめくれ、その隙間からさらなる闇が噴出し、踏み躙るようにミリアムの手を覆う。
「いっ………!」
 鋭い痛みが全身を走り抜けた。何かが砕けて割れる音がすると、闇がローブの中へ戻っていく。見ればダイヤモンドのリングが砕けて、宝石だけが転がっていた。拾おうとミニオンが手を伸ばす。
「…………め…」
 駄目。声が出なかった。
 取り返そうと指を動かしたいのに動かない。骨が折れてしまったようだ。身体中が痛んで、どこがどう痛いのかさえわからない。視界が霞み、ダイヤモンドの光だけがぼんやりと判別出来るだけだった。朦朧とする意識の中で、心の声だけが必死に訴えていた。


 ダイヤを持っていかないで。
 それは、グレイからの借り物なの。


 ダイヤモンドは再びグレイと旅をする事になった時、偶然荷物の中で見つけたものだった。
 ちょうだいと言っても当然くれず、じゃあ借りるだけと強引に指にはめたものであった。
 大きくて綺麗でお気に入りだった。ガラハドに会ったら、少しだけ自慢をしてやろうと考えていた。
 約束と未来が詰められている宝物。


 光が浮かび、遠くなって行く。


 グレイ、ごめん。
 グレイ、グレイ、グレイ……。


 光が消えゆくまで、グレイの名を呼び続けた。
 なぜか助けて欲しいとは思わなかった。宿でぐっすりと眠っているだろうから。この場に似つかわしくない事を考えていた。
 後は意識を失うまで痛みを与えられる自分を、他人事のように眺めていただけであった。








 グレイは瞼を上げた。薄暗い天井が見えた。何となくミリアムのベッドの方へ寝返りを打つ。
 ばっ。
 抜け殻だと知るなり、布団を剥いで飛び起きた。
 部屋の周りへ視線を彷徨わせ、しばし立ち尽くす。嫌な予感に、身体の表面が冷え、心臓がドクドクと鳴った。
 壁に立てかけた刀の鞘を掴み、扉を開けて外へ出る。
 どこにいるんだ。また辺りを見回した。瞳の色は不安に染められていた。


 カツン。
 何か硬い物が落ちる音が、どこからか聞こえてくる。
 カツン、カツン、コツッ……
 耳を済ませて聞き取れば、それは階段の方から聞こえてくるようであった。
 カッ、カッ、カツッ………
 音が重なり、順々に落ちてくるようであった。
 グレイは床をよく調べながら階段の元へと歩いていく。
 また何かが落ちてくる音が聞こえた。
 2階を見上げると、闇の中から硝子玉のようなものが落ちてくるのが見える。浮かび上がるようにぼんやりと光って、違和感と不気味さが混じって不思議な光景であった。
 ぱしっ。両手で挟み込むように1つを捉えて、開いてみる。
「…………?」
 人差し指と親指で掴み、まじまじと眺める。やはり硝子玉であった。よく見るとひびが入っていた。
 カツッ。
 グレイの横を玉が通り、跳ねながら落ちていく。
 何か、これをどこかで見た。
「…………は……?」
 気付いた時、血の気が一気に引いた。指先が震え、玉がすり抜けて零れ落ちる。
 震えは全身に伝わり、戦慄した。震える足をゆっくりと動かしながら、ゆっくりと階段を上っていく。


 2階へ上がると、硝子玉が数個散らばっていた。傍には見慣れた帽子が落ちている。
 ミリアムのトレードマークの帽子であった。硝子球は、彼女が腕に付けていたアクセサリー。暗くて良く見えない場所へ目を凝らせば、誰かの足が見えた。誰かだと思いたかった。
 月を覆っていた雲が流れ、淡い光が辺りを照らし、現実を突き付けられる。
 そこには傷だらけのミリアムが倒れていた。ぐったりと力を失い、ぴくりとも動く気配を見せない。
「………………………」
 口を開いたのに、声が出ない。
 何と呼べば良いのかわからない。何を言えば声が返ってくるのかがわからない。頭の中が真っ白になった。










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