悪夢
-5-



「ミリ、アム………」
 呟きのような、か細い声で語りかける。
 ミリアムの傷は刃物によるものではない、術によるものだと一目でわかった。火傷と凍傷を負っている。切り傷のようなものもあり、風術だろうとは予想がつく。
 一体誰の仕業か。ジャミル達では無いだろう。これだけ術を受けているのに、誰一人外へ出て様子を見ようとしない。ミリアムの言っていた、ディステニィストーンの所持者を戦わせようと仕向けている何かの存在が過ぎった。
「ミリアム」
 ミリアムを抱き起こし、身体を抱えるようにして支える。身体が震えて、温もりを感じるまでに至らない。胸の中が込み上げる何かでいっぱいになり、4つの文字を口にするだけでも声が震えて上手く言う事が出来ない。彼女の身体が鉛のように重く、人形のように動かない。瞳はただミリアムの瞼を見据えていた。彼女の目覚めをただ願っていた。白い肌に付着した血糊がグレイにはペイントのようにも見えた。これが体液だとは信じたくは無かったのだ。現実的過ぎて、逆に非現実的に見える。
「ミリアム」
 悲しみしかなかった。怒りよりも、憎しみよりも、悲しみが上回った。悲しくて、悲しくて、悲しさしか心が映さないのだ。
「ミリアム、ミリアム、ミリアム………」
 呼び続けるしか出来なかった。どうすれば救えるかなど思いつきもしない。彼女が生きているとわからなければ、何も動き出せそうに無かった。


 ひくりと、ミリアムの身体が動いたような気がした。グレイの目が丸く見開かれる。
「………………………」
 薄っすらと瞼が開く。
 霞んでぼやけたミリアムの視界には、信じられない物を見るようなグレイの顔があった。輪郭しかわからないのだが、なぜだかそんな感じがしたのだ。
 唇が僅かに開かれるが、何も言葉を発しない。
「ミリアム?」
 唇は紡がれ、その形は微笑んでいるようにも見えた。
「聞こえない。一体何だ?」
 グレイはミリアムの口元へ耳を寄せた。静寂の中に布擦れの音が、寂しげに通る。
 耳の中には、微かな息遣いしか届かない。ミリアムの顎が僅かに上がり、グレイの頬に寄せるように触れて、目を瞑る。
「ミリアム………」
 彼女に痛みを与えないように、包むように抱いた。


「死ぬな。我慢、出来るな」
 グレイの膝が立つ。もう震えは止まっていた。
 ミリアムの身体をゆっくり動かし、負ぶって立ち上がる。彼の手と腹の辺りは彼女の血が染みていた。気付いても動揺せずに前を向く。背中からミリアムの心音を感じた。彼女はまだ生きている。拾った帽子を被せてやり、彼女だけに聞こえる声で囁いた。
「辛抱してくれ」
 階段を下り、彼は馬を休ませてある場所へ駆けていく。そうして馬に跨りミリアムを乗せ、メルビルの門を潜った。








 覆い茂る木々。柔らかな風が吹いて、さわさわと鳴った。人を寄せ付けない神秘を秘めた楽園、迷いの森。かつての魔女はもういないが、また新たな魔女が生まれていた。
 突如、眠っていた鳥が一斉に鳴き出し、忙しなく羽根を動かして騒ぎ出す。獣たちも顔を上げて吠え出した。何かが森の中へ侵入してきたからだ。それは血の臭いを漂わせ、獣の本能を呼び覚ませていた。
 その侵入者はグレイ。馬から下り、労わるようにミリアムを見た後、また負ぶった。身体をなるべくゆらさないように走り出す。草を掻き分け、木々の間を強引に入って進む。枝に服が引っ掛かり、避けてしまっても気にせずに奥の方へ入って行く。途中立ち止まってはミリアムに不慣れな回復術を施していた。
 森の奥にある、大木を刳り貫いて作られた庵。見つけるとグレイは駆け出した。けれど突き出した木の根に足を引っ掛けて転んでしまう。膝と手を突き、起き上がろうとすれば落ち葉に滑って、地べたに這い蹲った。格好悪かった。けれども気にしてなどいられない。手を開いて見てみれば、血と土で汚れきっていた。
 立ち上がり、ミリアムを支え直して庵を目指す。衣服の汚れは払わなかった。
「はぁっ、は……………」
 乱れた息を整えながら、薄い木で出来た扉を割れんばかりに叩き付ける。
 ドン!ドン!ドンッ!
「っローディア!……クローディアはいるか!」
 喉の奥が絡み、唾液を飲み込んでもう一度呼んだ。
 ドン!
 叩き付けた拳が引き摺るように下がる。


 ギィ………。
 鈍い音を立てて扉が少し開く。隙間から女性が顔を覗いた。
「…………誰?」
 女性―――クローディアは訪問者がグレイだとわかると、扉を完全に開いた。
「グレイ…?」
 普段冷静な彼女も驚きを隠せない。まじまじとグレイの姿を見た。服は汚れて、腕の方が解れている。汚れは目を凝らすと血によるものだと気付く。だが様子からして彼のものではないだろう。酷く狼狽しているのに、張り裂けそうな感情を押し込めたような顔。こんな彼を見るのは初めてであった。
「どうし………」
 クローディアの言葉を終わりまで聞かずに、グレイは彼女の肩を掴んだ。力が入って、身体が強張る。
「助けてくれ」
「え?」
「助けてくれ、クローディア。助けて欲しいんだ」
 グレイは負ぶったミリアムの姿を覗かせた。
「助けてくれ…………」
 くしゃりと顔が歪んだ。すがりつき、まごつくような、孤独に震える瞳。
 庵の中にいたシルベンがクローディアの元へやって来て擦り寄った。
「わかったわ。入って」
 クローディアはグレイとミリアムを招き入れた。


 まずミリアムをベッドに寝かせ、傷に薬草を塗り込み、包帯を巻いて休ませる。黙々と治療を施したが、酷い傷に内心驚き、恐怖した。
 椅子に座ったグレイは落ち着きがなく、テーブルに指をカツカツと鳴らしている。暖かい茶を出したが、口に付けようとしない。チラチラと横目でミリアムの具合を案じている。
 クローディアは棚を漁り、他に何か良い薬は無いかと探していた。この中にはオウルの残してくれた物が仕舞われているのだ。彼女はかつてグレイと旅をしていた。その頃よりも落ち着いた衣装を纏っている。ゆったりとしたローブ。これでは森の中を巡る番人の仕事は出来ないだろう。
 そう、クローディアは番人では無くなっていた。オウルの跡を継ぎ、魔女として森を守っている。皇帝の奇病を治して無事な姿を見た後、ディステニィストーンを預けて森へ戻り、旅を終えた。
「安静にしていれば、大丈夫よ」
 席について、一言言う。その声色には彼女なりの労りが籠められていた。
「そうか」
 グレイの肩が安堵したように下がる。そうしてカップに手を伸ばし、温くなった茶を一気に飲み干す。
「あいつの傷が治るまで、かくまってくれないか?」
「かくまう?」
 怪訝そうに眉を潜める。
「町にいるのは危険なんだ。ここぐらいしか、お前に頼むしかなかった」
「危険って何?何が起きているの?」
 問いかけるがグレイは席を立ち、背を向ける。


「行くの?」
 クローディアも席を立つ。
「ああ」
「どこへ?」
 グレイは首を横に振る。
「彼女の名前は?」
「ミリアムだ」
「そう」
 はあ。息を吐いた。
「わかったわ。約束する」
「すまない」
「謝らないで。これでおあいこよ」
「そうだったな」
「忘れたの?」
「いや、随分昔の事のように思ったからさ」
 どこか寂しそうにグレイは言う。
 ミリアムの元へ近付き、膝を突いて彼女の手を包むように握った。意識を失っているのを知りながら語りかける。
「ミリアム。俺は行く。帰りはわからないが、必ず戻ってくる。待てるな」
 目を瞑り、開く。
「大丈夫。任せろ。信じてくれるな」
 手を離し、立ち上がった。


 扉の方へ歩み、ノブに手をかけると。
 バン!
「く、くく、クローディアさぁん、お呼びですか?」
 ジャンが大慌てで入ってくる。森がざわつき出した時に、ジャンへ伝写鳩を送っていたのだ。
 グレイと鉢合わせになり、さらに彼は驚く。
「グレイ!どうしたんだお前!」
「ふ」
 グレイの口の端が僅かに上がる。
 軽く叩くようにジャンの肩に手を乗せた。
「相変わらずだな。安心したよ」
「グレイ?」
 目をパチクリとさせ、クローディアに何があったのかと視線を送る。彼女は何も言わず、肩を上げて見せた。どこか笑っているようにも見える。
「まだやれそうだ」
 自分に言い聞かせるように呟き、乗せた手を離す。
「グレイ!おいっ、どこへ行くんだ」
 追いかけようとしたジャンをクローディアが引き止める。
「また、戻ってくるって。その時に聞きましょう」
 クローディアはジャンの腕に触れ、身を寄せた。
「は、はぁ」
 グレイの背を見つめたまま、ジャンの手がクローディアの肩に回る。グレイの姿は森の奥へと消えていく。その先には朝焼けが滲み、緑を染めていた。








 グレイがメルビルへ戻る頃には、既に太陽が昇っていた。宿で旅支度を整え、服の汚れはマントで隠して港へ向かう。昨夜の悲劇を何も知らない住人たちが行き交っている。知らなくて当然で、責める事も出来ない。これさえも自分の胸に仕舞い込むしかなかった。
 この港が全ての始まりのように感じた。リガウで財宝を見つけ出し、共に探したガラハドとミリアムと一度解散をした場所。また会えると信じていた。変わらないと信じていた。
 今、1人で別れを交わした場所を通過する。流れてくる潮風が髪とマントをなびかせる。ガラハドもミリアムもいない。この先には孤独な戦いが待ち構えていた。振り向きはしない。後戻りも出来ない。前に進むしかない。その意思に、迷いは無かった。
 行ってくる。
 唇だけを動かし、別れを告げた。再び戻ってくる為に。










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