悪夢
-7-
胸から血液が止め処なく流れ、ジャミルの周りを赤黒い水溜りが出来る。火山の中にいるというのに、身体の端から体温が低くなっていくのをぼんやりと感じていた。眩暈がして、視界が霞む。ジャミルはその中で幻を見ていた。これは幻なのだと思った。
なぜなら、バーバラが必死に自分の名を呼んでいたからだ。
ジャミル。ジャミルと。苦しそうに呼んでいるのだ。
あんなバーバラの姿など見た事は無い。彼女はいつも余裕があった。見透かしたような目をして、いつも傍にいてくれた。俺たちは何なんだろうか。俺の事、どう思っているんだろうか。何を考えているのかわからない、仲間。
息を吸おうとした時、血が喉に詰まってむせる。
「ごほっ………………ふっ………」
唾液と混じったものが口の端を伝う。
震える指が胸に手を伸ばす。何か棒状のものが身体を貫通して突き刺さっている。
まさか、そんなはずはないと考えても、見覚えがあった。ミリアムの愛用していた杖だ。
「……………けふっ………はっ………は………」
なぜミニオンが持っているのかはわからない。だが決して避けられはしない因果を感じた。これは裁きなのかもしれない。そうか、俺は死ぬのか。ジャミルは死期を悟った。彼は思う。確かに痛い。ダウドの言う通りであったと。だが死にたくないとは思えない。死んで当然だと自嘲した。
「ジャミル!」
バーバラは腕に力を入れて、身体を引き摺ってでもジャミルの元へ近付こうとする。
「ジャミル!」
上半身を起こすが、腕が震えてすぐに潰れた。身体全体にガタが来て、無理に動けば壊れてしまいそうだった。
「………ミル……!」
手を伸ばし、指先がジャミルの服の裾を掴む。そこを引っ張るようにして身体を寄せた。もう一度身を起こして、彼の身体を抱き起こす。ジャミルの瞳は全てを諦めたかのように色を失い、死を待っていた。
「何やってんだい!しっかりしな!」
頬を叩いて目覚めさせる。手痛い発破でジャミルは我に返った。目に映るバーバラの顔は、今までに見た事のない悲しみに満ちていた。これが幻ではない、現実だと思い知らされる。
「………ら……?」
我に返っても、ジャミルが瀕死なのは変わり無い。呼吸はもはや虫の息であった。
バーバラはジャミルの胸に刺さった杖を握り、真っ直ぐに彼の瞳を見据える。
「今コイツを引っこ抜くからね。我慢するんだよ」
杖を持つ手にジャミルの手が重なり、彼は首を横に振って囁いた。
「ろ」
「え?」
聞き取る事が出来ない。
「逃げろ」
「はっ?」
「俺を置いて、逃げるんだ」
こんな時に冗談など言うはずもない。彼は本気なのだろう。
「くっ…」
バーバラは顔を歪ませて俯いた。唇が震えている。悲しみだけではない、怒りさえも含んでいた。
「嘘吐き」
「………………………」
「本当は嫌なくせに。どこまで欺いたら気が済むんだい」
震えた声は泣き出しそうなくらい、か細く頼りない。けれどもあらゆる感情が押し込められていた。睨み付けるような鋭い瞳は、ジャミルの心を裂くように射抜く。
「1人は嫌なんだろ?」
「………あ……」
ジャミルの唇から掠れた声が漏れた。
言葉では言い表せない何かを探していた。
昨日までにあった、確かな物を。
自分を包み込んでくれる何かを。
普段思い返しはしないけれど、確かにあったと感じる何かを。
ダウドと、ファラといた日々にはあった物。
本当は、今もあるのかもしれないと彼は気付く。
一度は失ったが、もう一度手に入れていたかもしれない。
既に手に入れていたのかもしれない。
バーバラの手の上に重ねられた手が、そっと包んだ。
「あんたにはあたしがいるだろう?故郷があるだろう?1人だって思い込むのはもう良いだろう?2人ならやれるさ。ずっとそうして来たじゃないか。まさか忘れたのかい」
ダウドと過ごした日々があったように、バーバラと過ごした日々もあった。思えば長い年月となっていた。何も生まれなかった訳ではない。旅をして失ったものはあるが、手に入れたものもあったのだ。
「言ってくれれば良かったのに」
息が苦しいはずなのに、笑みがこぼれた。バーバラも微笑んでいた。こうして顔を合わせて笑ったのは、随分久しぶりのように感じられる。
「聞く耳持たなかったくせに」
「ごめん」
「もう良いよ。生きよう」
「ああ」
バーバラとジャミルの手が杖を引き抜いた。もう駄目かと諦めそうになった痛みは、自然と耐えられた。止めるものを失い、体液が溢れ出すが術で止血する。互いに肩を貸して立ち上がり、ミニオンに向き合った。
「おや、もう良いのですか」
わざとらしく背伸びをしてみせて言う。
ミニオンは目を細め、2人の瞳を覗き込んだ。
「倒しがいがありそうだ」
「そりゃこっちのセリフだぜ」
ジャミルはニヤリと口の端を上げる。その瞳には力強い生命の光が宿っていた。
ゴオォ………
風の音が鳴る。それはまるで獣の鳴き声のように、高く天へと昇っていく。
リガウ島のトマエ火山へ続く草原。綿毛を付けた種子が風に乗って舞う。
1人の男が足を踏み入れ、進んでいる。男の足取りはただ踏みしめているだけなのに、不思議な力強さを秘めていた。
瞳と髪は灰色。リガウの空と良く合っていた。風が正面に吹いても怯まずに進み続ける。
一歩、一歩を踏み入れる度に、男の脳裏に記憶を蘇らせる。
笑った事があった。
怒った事があった。
泣きたくなる事があった。
辛い事があった。
楽しい事があった。
様々な感情は生きていた証。このマルディアスで生まれ、育ったという証。
思い出が何度も問いかけてくる。
許すのかと。
許せるのかと。
男は1人。誰も教えてはくれない。決めるのは、己の心のみ。
許しても良いのか。
許しても後悔はしないか。
許さなくても良いのか。
許さなくても後悔はしないのか。
二者択一。決めるのは、たった1つの答えのみ。
どちらを選んでも、全く後悔をしないというのは無いだろう。
男は選択を迫られていた。戻る事は出来ない、たった1つの選択を。
風が強くなり、腕を構えて耐えようとする。
目的地の火山が見えてきた。
中に入れば熱気が篭もって汗が浮かぶ。流れる汗は拭おうとはしなかった。
男は決めていた。手が掴むのは、刀の柄だけだと。
中心部へと続く道を、ただひたすらに進み続ける。熱風が髪を舞い上がらせ、マントがはためき音を立てる。
耳の中に遠い金属音が聞こえた。風の音や水の音、術のようであった。
男は歩調を緩めない。心に決めたものを信じ、それを全うするだけであった。足を動かすたびに剣の鞘が揺れる。心の一部の迷いを見透かすように。早く選択をしろと迫るかのように聞こえるのだ。
男は、グレイは向かう。決着の場へと。
決意をするかのように柄を力強く握り、勢い良く引き抜いた。鈍い光が線を描き、空を切る。
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