夜。ベッドに転がり、布団を頭から被って菊丸は思う。
これは一時の夢。それ以上、以下でもない。
溺れてはいけない。夢に甘えたら今が辛くなるだろうから。
香りのある部屋
-菊丸×樹・前編-
翌日は良い天気であった。外に出たら、きっと心地が良いだろう。
「はぁ、はぁ…………は――っ……」
なのに、俺という奴は。菊丸の口元は自嘲気味に上がる。
その横を、一筋の汗が流れた。拭うと、また流れてくる。額の汗は滴になって浮かんでいた。
ここは、とても暑い。
暗いし、おまけにうるさい。
菊丸は船のボイラー室にいた。
一人だけではない、六角の樹もいる。
どうしてこんな場所にいるかというと、二人きりになる為。
二人きりでなにをするかというと、ナニをする為だった。
部屋の端、人が入って来てもすぐには見つからない場所で情事を交わしていた。
樹を押し倒し、足と一緒にズボンと下着を上げて即性交に及んだ。
そもそも菊丸と樹の二人が、どうしてこのような関係を持つようになったのか。
当の菊丸が聞きたいぐらいだった。
初対面から樹は苦手だったし、触れて欲しくない事をいちいち聞いてくるし、出来る限りお近付きになりたくはない存在だった。いつからかだったろう。苦手が、好意へ意識を変えていったのは。
穏やかなものではない、急速に燃え上がる炎のように肉体をも結ばせていた。
「は、あ」
菊丸が打ち付けると、二人の肌がぶつかって音を立てる。
結合部は体液と潤滑油のローションでぐしゃぐしゃに濡れていた。
「ん、あっ、あ」
上着を捲し上げた樹の腹筋が震えている。汗で髪を張り付かせ、薄く開かれた唇から呼吸をしている。菊丸自身を銜え込み、目を細めて良さそうに菊丸を見詰めていた。
樹自身は血液を集め、勃ち上がっている。それを見れば、いかに高まっているかわかる。二人の性器には避妊具がはめられており、欲望を吐き出しても汚れはしない。
「菊、丸、んんっ」
名を呼ぶ樹の口に指を銜えさせて塞いだ。
「しー」
話せないようにさせて、何度も打ち付けた。
「んっ、んん、んぅっ」
指を引き抜き、今度は唇を合わせた。瞼は閉じずに視線を交差させる。
「ふ、う」
「んあ」
快感に喉が鳴り、脳がとろけそうになる。
「あ」
息苦しさに樹が口を離そうとすると、菊丸の手が頭を掴んで逃さない。
「はぁ……」
樹の腕が菊丸の首に巻きつく。
「ああ……」
唇を離し、互いの肩に顔を埋める。樹は菊丸の服を噛んで声を抑え、欲望を吐き出した。
「ん」
菊丸も樹をきつく抱き締め、欲望を吐き出す。
菊丸は自身を引き抜き、使い終わった避妊具も外した。
樹の方は壁に寄りかかり、抱いた形で足を開き、放心としている。
体液をティッシュで拭い、衣服を正しながら樹に顔を寄せる菊丸。
「は…………ぁ……」
「大丈夫?」
問いかけても、ぐったりして樹はなかなか答えず、遅れて頷くだけであった。
菊丸は下へ手を伸ばし、腰を支えてくれるのかと思えば、窄みに指を挿し込む。
濡れそぼったそこは水音を立て、さらに指を入れても難なく受け入れた。
「は」
樹の身体がひくりと震えるが、瞳が菊丸を見やるだけだった。
優しく指を抜き差しさせて、舌を出して樹の舌と絡めだす。
「うう」
腰は力が抜けて、足だけがもどかしそうにカクカクと動く。
指が乱暴に掻き乱そうとすれば、僅かに腰が浮いた。快楽の波が再び樹自身に血液を集め、反応を示しだしている。
舌と指を引っ込めて、菊丸は耳元で囁いた。
「指だけじゃ足らないか」
「ん」
樹は素直に頷く。欲望が抑えきれる程の理性は残っていない。
「背、浮かせて」
「ん」
誘導通りに樹は背を壁から離し、その隙間へ後ろに回り込む菊丸。
「あっ」
両の手が樹の足を大きく開かせた。
誰が見ているはずもなく、菊丸には淫らな姿を散々見られているのに、樹に羞恥が襲う。
けれどもすぐに、背で感じる菊丸の自身が気になってしまう。
「だーめ」
見透かしたように、菊丸は断った。
足を解放させ、手が窄みと自身へ回る。指が入り込み、自身を上下に刺激された。
「あっ!……う……」
急速に高められ、樹はすぐさま欲望を吐き出してしまう。
「はーっ、暑かったあ」
ボイラー室から出る菊丸は、盛大に深呼吸し、服を肌から離して空気を送り出す。
「涼しいのね」
乱れを正した樹も次に出てくる。気だるいのか大人しい。
「汗だくですね」
樹の手が菊丸の肩を掴み、向き直らせ、襟を正してやる。みるみる菊丸の顔が赤く染まっていった。
「あわわ、お前なにしやがんだよ」
手を払い、大げさに距離を取る。
人に見つかりそうな場所で仲良くするのを菊丸は極端に嫌っていた。皆には“樹が苦手”を演じたいのだろう。しかし青学と六角は合同合宿から互いを応援しあう仲にまで発展し、浮いてしまう行動だというのに続けている。肉体関係はまだしも、樹を本気で嫌っていない事はバレバレだ。
「シャワー浴びた方がいいのね」
「だな」
「俺の部屋に来ませんか」
「は?」
樹の案に菊丸の目は点になり、いやいやと首を横に振る。
「同室の奴いんだろ」
「同室?」
「二人一組だろ?俺は大石と一緒」
「そうなんですか。俺は一人部屋なのね、というか六角は全員一人部屋です」
「なんだそりゃ、ずりぃ」
「愚痴は後にして欲しいのね。試合もしてないのに、こんな汗かくのはおかしいですから、行きましょう」
「ああ」
歩き出す樹の後ろを、一定の距離を保って菊丸はついていった。
部屋の前に着くと、樹は扉を開けて菊丸を招き入れる。
「どうぞ」
「邪魔するよん」
樹の部屋は一人部屋でも河村のものと違い、菊丸たちと同じ構造であった。
「一緒に入りましょう」
「え、ああ」
樹の手が菊丸の手首を捉え、引かれるままに浴室へと向かう。
服を脱いで風呂場へ入り、蛇口を回してシャワーを出す。水が温水に変わると、湯気が舞い上がった。
「あ」
菊丸はふと樹の横顔を見て息を呑む。
風呂場特有の淡い光に照らされる樹は、普段のものと違ったように見えた。
ここは非日常の空間。こんな時間を普通は過ごせるはずがない。
表情を隠すように俯き、菊丸は顔をしかめた。
そんな彼の背に、湯がかけられる。樹がきょとんとした顔でシャワーをあててくれていた。
「…………………………………」
菊丸は唇を薄く開くが、何も言わずに閉じて樹からシャワーを受け取り、湯で身体の汗を流してやる。
もう一方の手が樹の腰に回って引き寄せ、撫でられる。いやらしさは感じられない。
どうしたんだと問えずに、樹はそっと菊丸の耳に口付けた。
特に会話は交わさず、汗を流すだけで浴室を出る。無言のままで、樹は甲斐甲斐しく菊丸の身体をタオルで拭いてやった。今度の彼は特に嫌がらず、好意を受け取っているようだ。
樹の着替えは替えのテニスウェアがあるが、菊丸は汗に濡れたウェアを再び着るはめになる。
上着を着ようとした菊丸に、樹は待ったをかけた。
「菊丸。テニスウェア貸すのね」
「そりゃまずいよ」
「じゃあTシャツがあるので、それ着てください」
「わかった」
菊丸は樹のTシャツを借り、濡れた自分のウェアを抱えて脱衣所を出る。
「菊丸。こっちなのね」
樹がベッドに腰掛け、ドライヤー片手に手招きをしていた。菊丸は従い、隣に座り込んだ。
「自分でやるよ」
「お前の髪、触らせて欲しいのね」
「ますます嫌だな」
口ではそう言うものの、菊丸は樹に乾かしてもらう。優しく撫でるように樹は乾かしてくれる。
「セットしていない時は、こんな感じなんですね」
樹はじっと菊丸の横顔を見詰めていた。
菊丸はというと、そっぽを向き、ときどきくすぐったそうにしている。それがますます樹の熱視線を集める事になる。菊丸を見詰めれば見詰めるほど、樹の胸には愛おしさが溢れて止まらなくなっていた。
「はい、おしまい」
ドライヤーを切ると、菊丸が樹の方を向いてくる。
「あ」
肩を掴まれて身体を押され、倒された。望んでいた行動だったろうから容易い。
組み敷き、見下ろす樹の表情は恍惚としている。
乾かしていない樹の濡れた髪は布団に水分を吸い込まれていく。
「樹お前、さっき散々出しただろうが」
「いけませんか」
しゃあしゃあと言い放つ。
菊丸は語るべき言葉を探していた。
部屋の暖かな光、柔らかなベッド、淫らな樹。
ただでさえ早くなる心音が、さらにドクドクと高まりだす。
捉えた樹の腕はシャワーを浴びたせいか、しっとりと張り付く。
まさしく、最上の場面。
ずっと薄暗くて硬い場所でしか愛を交わせなかったのに。ここには心地の良いものが全て揃っている。
ああ、だからなのか。だからこそなのか。
身体を沈めてしまう事に、恐ろしさを感じた。
「やめた」
菊丸は横に転がる。
「菊丸?」
樹は身を起こし、彼を見るが背を向けていて表情は見えない。
「せっかくの時間だ。樹も負担かかって動けなくても嫌だろ」
立ち上がり、ウェアも持って扉の方へ行こうとする。樹は慌てて見送ろうと追った。
「どうしたのね。部屋に来てからおかしい」
「そっか?これ返しにまた来るよ」
Tシャツを軽く引っ張り、笑って見せる。
「ああ、菊丸」
菊丸は部屋を出て行き、すぐに扉を閉めてしまった。
「一体、どうしたのね」
扉に手を置き、呟く。ベッドの方へ戻ると、あるものに手を伸ばして膝の上に載せる。
「せっかく、これを見せようと思ったのに」
そこには手に包まれるようにカップ型のアロマキャンドルがあった
「はああ」
廊下に出た菊丸は溜め息を吐く。
もっと上手い断り方は無かったのかと後悔をしていた。苦手だった頃から、勝手に切りやめる癖はちっとも直らない。彼をいつも傷付けてしまっているような気がする。
「あれー英二先輩じゃないですか」
「おお、桃」
ばったりと反対方向から歩いてきた桃城と出会った。隣には六角の黒羽もいる。
「どうしたんスか」
「え」
桃城は頭を指差す。髪は乾かしたがセットはしていなかった。鏡で見るのが嫌になるくらい乱れているだろう。
「え?あー……どうしたんだろうなー」
ははは。苦しい言い逃れをする。
「あれ?」
今度は黒羽が何かに気付く。
「それ樹ちゃんも同じの持ってたと思う」
「マジすか」
マジだろ。菊丸は頭の中で突っ込みを入れる。
「つかサイズ合ってない」
「サイズ間違えて買っちゃったんスか」
「そ、そうみたい」
あははははは。三人で大笑いをする。菊丸としては早くこの場を抜け出したい。
「ではまた」
「ああ」
なんとか長引かずに別れる事ができた。
しかし一難去って、また一難。
「菊丸先輩、ちいーっす」
「こんにちはー」
今度は越前、葵コンビに出会ってしまった。
ほぼ同じような会話が繰り返される事となる。
「はあああああ」
自室に戻る頃には精神的に疲れきっていた。
「どうしたんだ英二?」
同室の大石が様子を伺う。
「いんや、なんでもない」
桃城と越前に気付かれたのだから、大石なら当然見抜かれてしまう異変。けれども彼は何も言わなかった。言わないでくれたのかもしれない。
「あのさあ」
ベッドに座り込み、Tシャツとウェアを着替えながら菊丸は声を上げる。
心が弱っているせいだろうか。何かしら親友に本音をぶちまけたい気分だった。なのに背を向けて、大石の顔を見えないようにする矛盾。
「あの……」
背を丸め、俯く。
頭の中では言葉がぐるぐると回るのに言い出せない。
「なんかさ、幸せって怖くね?」
無難に無難を選りすぐった本音を放つ。
「英二は今、幸せなのか」
「そりゃ、青学は優勝できたし、俺たちのダブルスは一番だったろ?」
「そうだな…………うん」
菊丸は心なしか、大石も自分と同じような顔をしているような気がした。
「シンクロじゃあ、心は見えないし」
「見えなくて良いよ。俺たちは別の人間だし。その方がほら」
ウェアを着て、大石の方を振り返る。
「気楽じゃん」
菊丸は笑って見せるが、大石には全然そうは見えなかった。
誰もが別の人間。たとえそれが良くても、苦しみが付き纏う。
幸せは怖いね。俺もそう思う。
同意見を持っている事を、大石はつぐんだ。
同じだと知ったら、きっと辛さが増してしまうような気がしたからだ。
人は違うようで同じ。同じようで違う。永遠に揺れ続ける難題である。
夕方頃、菊丸は部屋を出て行った。
Tシャツをウェアの中に仕舞いこんでいたのも、大石は黙っていた。
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