気の迷い。
 一人冷静になると浮かぶ言葉が、もう後戻り出来ない所まで来ていると感じていた。



香りのある部屋
-河村×財前・前編-



 食事をしに河村が広間へ入り、辺りを見回す。
 ざっと見では青学の選手は見つからなかった。
「皆、どこにいるんだろう」
 呟いて、河村は適当に皿を持ってバイキング形式の夕食を楽しんだ。
 空腹が満たされる頃、不二の後姿を見つける。目を凝らせば、乾や菊丸、大石もいる。
「おっ」
 皆の所へ向かおうと、行き交う人を避ける中、河村の目にある人物がとまった。
 相手も河村と目が合い、見詰め返す。すると向こう側からやって来た。
「よお」
 相手――――四天宝寺の財前光は表情を変えずに挨拶をする。河村も笑みで返した。
 四天宝寺とは全国大会終了後、大阪へ帰る駅で青春学園は見送ったきりの出会いであった。
「全国ぶり……って事にしましょか」
 料理に視線を落とす財前。
「それで良いなら、それで」
「……………………………ふん」
 二人が口を閉ざすと、周りのざわめきが大きくなったような気がした。


 全国大会終了後以来。これはあくまで青春学園と四天宝寺であり、河村と財前は違う。
 先日、会ったばかりであった。なぜ会ったのかというと、二人は互いに惹かれ合っていたからである。
 初めての関わりは財前の河村への失言。しかし、河村の勇姿を財前は認め“青学のお荷物”という評価は変わっていった。河村も財前がただの捻くれ者ではないのもわかっている。焼き肉店や決勝戦、二人が接触し易い機会の中で感情はさらに変わっていく。好意が生まれていた。
 だが時と言うものは残酷なもの。
 せっかくの想いもたったの数日の事。すぐに別れが訪れてしまう。
 焦り故の先走りが気持ちを高ぶらせてしまった。
 気の迷い。そう何度己に言い聞かせても、止められはしなかった。


 財前は手を伸ばし、グラスを持つ。
「…………こないな機会があるなら、急がなくても良かったですわ」
 口に付けて喉を潤し、呟く。
「俺一人、赤っ恥やないですか」
「そんな事」
 河村は財前を見るが、彼の鋭い視線に口をつぐむ。
「愚痴や。気にせんといて。全国ぶり、言うたやろ」
 もう一口飲み物を含み、グラスを離して下唇を舐めた。


 会いたい気持ちを財前は抑え切れなかった。理由を必死で並べ立て、狡猾な行動に出た。
 東京に好きなバンドのライブがあると、その時に会わないかと河村に連絡してしまった。確かにライブのチケットは取ってある。けれど来月の話であった。あらかじめ貯めていた金を崩して、東京へ行ってしまったのだ。
 愚かな行為だと自覚はしている。嘘も吐いてしまった。だが止められなかったのだ。焦って、焦って、何が何でも夏が終わる前に会いたかったのだ。
 それが先日である。その後にこの慰安旅行の話が入った。
 会うだけだったら、財前は“恥”とは言い切らなかったのかもしれない。想いは会うだけでは治まらなかった。
 嘘だけだったら当日にばらした。河村は、驚きはしたが理解はしてくれた。
 短い時の間で何が出来るか。何を伝えられるか。手っ取り早い方法を財前は起こしてしまった。
 人気の無い場所へ呼び寄せ、彼に迫った。迫るにしても、体格も力も河村の方が上でびくともしない。だから財前が自ら羞恥を曝け出した。
 何より焦って、夢中で、河村もそう抵抗はしなかった。本気でやれば財前が怪我をする事を恐れたのだろう。所謂“B”までやってしまった。もうこれでは友愛だけでは済まない。性欲を抱いているのを示してしまった。言い訳も出来はしない。
 どれもこれも、すぐには会えないから起こした行動。本当は河村の視界に入りたくはないくらいだ。
 しかしそうはしていられない。本当に伝えたい、聞き出したい言葉を財前は言い出せなかった。羞恥や男としての尊厳よりも、今の彼には重い。こうして隣に河村がいるのにも関わらず、唇が固まる。
 グラスの中で揺らいだ液体に自分の顔と目が合い、財前は視線を逸らした。


「堪忍な河村」
「俺は気にしていないよ。財前の方が」
 された事よりも、河村にとっては財前が気がかりであった。出会う度に彼の一面に驚かされる。本当の彼とは、普段の彼とはどんな人物なのか。それさえも霞むくらい、二人が紡ぐ時は浅い。急激に湧き上がる想いだけが暴走してしまう。
 もしここが二人だけの場所だったら、財前を抱き締めて“気にしていない”と彼がわかってくれるまで伝え続けたかった。
「さて、俺は戻りますわ。すっかり嫌われているようやし」
 河村と財前の姿を、遠目から桃城と海堂が睨んでいる。突き刺さる視線は財前へ突き刺さっていた。彼らは財前の失言にすぐさま反発した。財前を快く思っていないのは本人が一番自覚している。早く去るのは得策だろう。
「財前」
 背を向ける財前に河村は声をかける。
「俺、部屋は一人なんだ。よかったら」
 途中で言いかけて、河村は一人頬を染めた。ゆっくり過ごすのには適しているが、スイートルームへ誘い込もうとしていたのに気付く。まるで先日の続きでもしようと言っているようなものだ。
「いや、今度は俺から遊びに行くよ。良いかな」
「ええよ。遠山もおる。やかましいが静かよりはマシや。今度は喰ってまうかもしれへんし」
 からかうつもりが、財前の頬が上気する。背を向けているので互いの赤面には気付かずに別れた。






 食事を終え、財前は一人廊下を歩いて部屋へ帰ろうとしていた。
 早かったらしく、通路には誰もいない。静寂の中で彼は考えを巡らせていた。
 河村にはどうしても聞きたい事がある。それは恐らく、青学の連中はとっくに知っている事だろう。河村本人の口から言って欲しかった。
 思い返すのは全国大会終了後。財前の中で何度も繰り返されている、四天宝寺テニス部の部室で銀が偶然言い放った言葉。
 河村は中学でテニスをやめる。
 その場で聞いていた仲間たちは“そうか”とか“惜しい”などと言っていた気がする。財前は手の先から頭へ冷たい何かが走り抜ける感覚に襲われていた。信じられないくらいの衝撃であった。
 冷静になれば、試合中に青学がそんなような事を言っていたかもしれない。恐らく、その時はどうでも良くて気にも留めていなかったのだろう。しかし、今は――――
「……っ」
 無意識に喉から音が出そうになり、咳き込んで誤魔化す。
 財前が河村に出会えたのはテニスがあったからだ。テニスを通じなければ、一生出会う事も無かったかもしれない。根本を支えるものが、崩れようとしている。思い出が、壊されようとしている。その恐怖が、あの日の焦りを加速させたのだろう。全てが無くなってしまうかもしれないその前に、何かを刻み付けねばならなかったのだ。
 聞き出すべきは一つの質問。その答えの一つに、河村がテニスをどう思っているのか。テニスを通じた自分の出会いの全てが詰まっているのだ。強引にコトに及ぶ事は出来ても、数文字が発せられない。


「はあ」
 部屋のドアの前に着く。息を吐き、鍵を取り出そうとポケットに手を入れる。
「ざいぜーん!」
「ぶふっ!」
 後ろから声がしたと同時に財前はドアへへばりついた。遠山が背後から飛びついて来たのだ。
「はよ鍵開けぇや」
「んのクソガキ……」
 ドアとのディープキスから隙間を作って悪態を吐く。
 鍵を開けてやるが、遠山はすぐには入らず財前から降りて裾を掴む。
「なんやねん」
「ほれ、見たってーや」
 ニッコリと笑って差し出すのはカップ型のアロマキャンドルであった。
「どないしたん、それ」
「おお、氷帝のデカい奴がくれたんや。皆に配っとるらしいの。カップなのに飲めへんのや。おもろいやろ」
「あーこれはな」
 財前は中腰になり、遠山と視線を並べる。
「ここに紐ついてるやろ?そこに火をつけると香りがしてな、それを楽しむんや」
「火?火か」
 遠山は財前の横を抜けて部屋に入った。財前も入り、だるそうにドアを閉める。
「ふんぎーい!ワイ持ってへん!財前、持ってるか!」
 自分の鞄を漁った後、遠山は財前の鞄に手を伸ばそうとした。
「阿呆!!ちょい待ちっ!!」
 謙也もびっくりの速度で駆けつけ、遠山の手を払う。
「俺も持ってないっ」
 鞄を抱き抱え、厳しい表情で遠山に言い放つ。遠山はというと、突然の行動にぽかんと口を開けていた。
「あ……ほれ……せや、オサムちゃんならタバコ吸うしあるやろ」
 表情を戻しながら、穏やかに諭そうとする。
「せやな。行って来る」
 怒られた事を気にもせず、遠山は部屋を飛び出していった。
「阿呆……ドア閉めいっちゅーんや」
 やおら起き上がり、ドアを閉めてから鞄の元へ座り込む。


「間一髪や」
 耳を澄ませ、遠山がすぐに戻って来ないのを確認して鞄を開ける。
 横に付いたチャックを開くと、隠されたものが姿を現す。
 ローションや避妊具。インターネットの情報を印刷した紙が入っていた。男同士の性交の仕方が載っている。内緒で調べて、内緒で道具を調達した。
「阿呆はどいつや。気でも違えとんのちゃう」
 チャックを閉めて鞄を閉じ、深い息を吐いた。俯く表情は苦々しい顔を浮かべている。
 会える機会はすぐさまやって来た。暴走する想いと焦りは停止を知らない。さらなる深みへ足を踏み入れようとしていた。
 秘められた箇所を触れるだけでは済まなかった。もっと率直に欲情に浸りたかった。
 たった一つの質問から逃げ、随分と遠回りをしようとしている。
 弱く、臆病で、情けない。自分で自分が嫌になる。けれども立ち向かうのに、あと少しの勇気が足りない。
 座り込んだまま、財前は上着を捲し上げた。それなりの筋肉がついた腹が見える。
 河村には抱かれるつもりだ。そっちに回ろうとするのは、彼になら抱かれても良いと思えるのもあるが、自分自身への戒めもある。
「キモいわ、俺」
 胸元の布を掴み、己を抱き締めるように蹲った。






 しばらく経つと、遠山が戻ってくる。
「おかえり」
 待っていた財前の衣服は正され、微かに笑っていた。
「オサムちゃんに火、点けてもろたわ」
「キャンドルでも火点いたままの移動は褒められんな」
「なんや、白石みたいな事言うのー」
 遠山はテーブルの上にキャンドルを置く。
「甘い匂いするんやで。お菓子ともちゃうし、腹が空くとはちゃう。変な感じや」
 息を吸えば、甘い香りが鼻腔をくすぐった。
「ああ、甘いな。ええ香りや」
 目を瞑って見せた後、財前は立ち上がる。
「俺、出かけてくるわ。鍵閉めとくんやで」
「なんでジャージ着てるん?中は暖かいやん」
 財前が着ていなかったジャージを羽織っているのを指摘した。
「夜は冷えるやろ。寝る時はキャンドル消し」
「お、おう」
 遠山が頷くのを見てから財前は部屋を出て行く。
「財前、悪いもん拾って食ったんちゃうか」
 わざと声を大きくして言うが、財前は言い返しに戻って来なかった。










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