人の気配で活気付いた帝都ザーフィアスの下町。
細く折れ曲がった路地を子供が走り回り、おかみさんたちの叱り声が家々の窓を叩く。
茶化すようなけしかけるような響きは露店のオヤジたちで、その小さな店先で値切り交渉が最高潮を迎えている。
いつもと変わらない下町は、たとえ魔導器がなくとも生命力に満ち溢れていた。
魔導器がなくなって最も変わったことといえば、井戸付近に前より人が集まるようになったくらいだろうか。水道魔導器であったその頃より人の出入りが盛んになった様子で、良い情報交換の場が増えたようなものである。
今日一番の噂――久々に下町に戻ってきた「悪ガキ」について、ハンクスじいさんのぼやきがヒートするのもお馴染みの光景だった。
その傍を、紙袋を抱えた少年が走りぬけ階段を駆け下りていく。
降りきった先の扉を開け、頼まれ物を母親に届けると今度は元気良く二階へ駆け上がる。
階段を慣れた様子で駆け上がり、目の前の扉を思い切りよく開いたのは宿屋の一人息子テッドであった。
部屋に飛び込むなり、簡素なベッドに横たわる影へと大きな声を上げる。
それは、客に対するものでは決してなかった。
「ユーリ、ユーリ起きてよ。
もうすぐお昼だよ!」
「…ま…、眠…」
「ユーリ!!」
「う………」
ゆさゆさを通り越しガクガク揺さぶられるにいたって、白いかたまり…いや、横になっていた誰かが頭まで引っかぶった布団ごと寝返りを打つ。
布団を引き剥がそうとするのに抵抗するも、抗いきれずにずるずると引きむしられる。
窓から差し込む日の光を避けるように両腕を交差するのは、くせのないつややかな黒髪を素のままで背に流した青年だった。
声にならない呻きとともに顔を覆う姿を眺め、次いで呆れたような溜息がひとつ。
「あ〜〜〜っ。ユーリ、着替えもせずに寝たの?
服がしわになっちゃうよ。母さんいっつも気をつけろって言うのに…!」
「テッド…ここに戻ったのが、完璧夜明けてからなんだ…。
ちったあ休ませてくれよ…」
「もー。しょうがないな、ユーリは」
こまっしゃくれたテッドの口調が、つい今朝別れたばかりの小さい首領のそれとだぶって…苦笑交じりでユーリは重い体を引き起こすようにしてベッドに座りなおした。
その鼻先に、なにやら白い四角いものが突き出される。
「はいこれ!」
「なんだ…手紙ぃ?」
「ユーリがなかなか戻らないから、もう何日も預かりっぱなしだったんだからね」
眠気でかすむ目をこすり封筒に視線を落とせば、見慣れた文体で自分の名前のみが記してあった。
返した裏に差出人の名前はないが、見間違えようもない。
「フレンからじゃねぇか」
あくびをかみ殺しながら、眉を寄せて受け取った封筒をためつすがめつするユーリに、少年は今一度確認の声をかける。
「ユーリ、確かに渡したからね」
「ああ…。
お、どこ行くんだテッド」
「フレンからの伝言で、ユーリにそれ手渡したら、巡回中のフレン隊の誰かに伝えるようにって言われてたんだ。行ってくるよ」
駆け出す背中を見送って、ユーリはあごに手を当てた。
「ふーん…、確実につなぎを付けたいってか。
なんかあったかな」
封蝋を無視し上辺を破って開封する。
出てきたのは便箋が三枚。だというのに、折りたたまれたその二枚目にのみ文章がつづられている。
軽い警戒ぶりに、ユーリは目を眇めた。
わずかに右上がりの癖のある文字でそこに記されていたのは、少しばかりの単語のみであった。
『 夕暮れ前
女神の下の その先にて 』
「女神の下っていうと、抜け道の女神像か。
ってことは、抜け道の先で待ってろってか…?」
自分は抜け道のことを話ししただろうかと考えるが、記憶にない。
が、相手がフレンなら、エステルが旅の間のことを詳細に話しただろう。きっと、それはもう嬉しそうに。
エステルと初めて会ったあの時を思い出し、ユーリは小さく微笑んで窓から帝城を見上げた。
脅威下でのオルニオンの会合がきっかけとなり、帝国とユニオン、またユニオン外のギルドとが協調・連携して動く場面が増えていた。
旧来の思想で凝り固まった権力層が弊害となりつつ、また明確で一致団結した動きでは決してないものの、首脳陣が真相を知り覚悟を決めての決断を下した以上は流れとしての大きな方針はぶれることなく、世界の大部分は新しい生活へと馴染もうとしている。むしろ、下町に代表されるような、元々地に足を付けて生活していた人々のほうが順応は早かった。
いかなる理由があったとはいえ世界のありようを強引に変えたことのけじめ、という目的もありはしたが。ギルドへの依頼という形で帝都の下町を振り出しに世界中を飛び回って復興の手伝いをして戻ってきたユーリにとって、街の人々の笑顔や笑い声は、自分が仲間と共に成したことの実感と喜びの証であった。
しかし、――当面の生活が安定すれば、失ったものへの不平不満が頭をもたげることもある。
「あの天然陛下だって、覚悟決めて進んでる。
だってのに、貴族の連中はちっとも変わりゃしねぇのな…」
貴族街の方角に目をやり、ひとつため息。
「人間の欲深さは、そうそう消えやしねぇってことだろうな。
フレンも大変なこった」
ここ1ヶ月ほど、帝都ザーフィアスではいささか不穏な噂が流れているらしい。
星喰みの脅威が去ってまだ一年と経っていないというのに、評議会がどうだの暗殺がどうだの、その後継騒動がどうだのと…。
治安維持、及び犯罪の取り締まりは、騎士団の任務の一つ。もしこれが噂でなく真実であるなら、フレンにとって頭の痛い仕事が増えたということだ。
そもそも、隊長格がごっそりと抜けた後の騎士団建て直しもある。今の騎士団はフレンで維持していると言っても過言ではなかろう。その負担は並大抵ではないはず。
「ちょっくら、労ってくるか。
ま、夕方まではもう少し時間もあるし…」
ユーリは手紙を懐にしまいこむと、腕を枕にベッドへ寝転がり大きなあくびを一つ。
二度寝を決め込んだようで、目を閉じるとほどなく穏やかな寝息を立て始めていた。
****
御剣の階梯が薄紅に染まり始める頃、貴族街の片隅で石像が不思議な音を立てた。
ゴトと重い音が響いて台座がじりじり動くと、その隙間から湿った風がもれてくる。
「ほら、よっと」
石像を押しのけるように大きく動かしたところで、軽く驚いた青の瞳と目が合った。
「ユーリ…!」
「よっ、元気そうだな」
身軽に立ち上がると、はしご段を上ってくる親友に手を貸す。
「急に重みがなくなって動き始めるから、少し驚いたよ。
ユーリだろうとはとっさに思ったけれど、逆にもし君じゃなかったらどうしようかって」
「そっか、そりゃ悪ぃ」
笑いながら肩をすくめて見せた。
改めての再会の挨拶など二人にはない。
物心付く前から、まるで犬猫の子供が同じ箱でじゃれるようにして共に育った親友である。
前回顔をあわせたのは何ヶ月も前だが、どれだけの時間離れていようともついさっき別れたばかりのように心が通じた。
「ラピードはどうしてる?」
「今朝方、一緒に下町へ戻った後別れたんだけど…多分、久々の帝都で見回りでもしてんじゃねぇのかな。
そういや、お前ちゃんとメシ食ってんのか?」
「ええと、…朝はしっかり食べているよ」
「おいおい、その様子じゃ今日の昼は確実に食ってねぇだろ」
「何かと忙しくてね。食事の時間も惜しい」
「そんなことだろうと思ったぜ。ほら」
ため息をついた親友の手元に、ユーリは包みをひとつ落とし込む。
「それなら、喋りながらでも食えるだろ」
手近な石の上に腰を下ろし包みを開いたフレンは、思わずといった様子で嬉しげに笑み綻んだ。
「君の料理なんて、どのくらいぶりだろう…」
「そんなに感動するような代物じゃねぇぞ」
苦笑いしてフレンの隣に腰を下ろすと、腰から水筒をはずしそれも手渡す。
受け取りながらも、輝くフレンの目はどれにしようか迷い悩み中で、サンドイッチから視線が離れなかった。
「エステリーゼ様から、君の料理の話を散々聞かされていてね。
あの方のことだから、自慢というわけではないのはよくよくわかっているんだが、さすがに時々恨めしくなってくるよ」
「ははは…エステルにも困ったもんだな」
フレンがようやくスモークとクリームのダブルチーズを選んだところで、ユーリは黙って給仕(と言っても水筒の水を差し出すくらいだが)に専念することにした。
黙々と四切れ…包みの半分近くを食べ終えたところで、フレンがようやく息をつく。
「落ち着いたか?」
「ああ、ありがとう。前より格段に腕を上げたね。おいしかったよ」
「そりゃどーも」
「夕食はもう少し先でね。どうしようかとは思っていたんだ。
残りはもらって行っていいかい?」
「お前の好きにしろよ」
ユーリが笑いながら頷くと、フレンは大切そうに包みなおしてその包みを傍らに置いた。