「まず、ここのことからね。
 ここは、昔からおっさんが使ってたのよ、ずーっと前から。最近2、3年はほったらかしだったけどね」
「ずっと…って」
「そうだねえ、10年ちょっとくらい?」
 その回答に、ユーリの眉がわずかに寄せられる。

「…それ、アレクセイ絡みか?」
「ん、まあ…ね」
「でも、あいつの財産やら研究やら色々は騎士団預かりになったとかって、フレンが言ってたと思ったけどな」
 レイヴンの浮かべた笑みは、かすかに皮肉気だった。
「奴さんが、少しでも指摘されて困るものや後ろ暗いアレコレを、自分の名前で押さえるようなことしてたと思う?
 ここも、まあ…そういうことよ」
 言われてみれば確かにそうだ。
 ラゴウやバルボスを好きなように踊らせつつ、そのうえで自分の望むように操っていたあのアレクセイが、――フレンには悪いが――騎士団や宮廷の調査ごときで全容をさらけ出すような行動をとっていたとは思えない。
 なるほどと納得しながらユーリはちらとレイヴンを見やり、口ごもる。
「……いいのか?」
「なーにがー?」
 問いの真意は気付いているだろうに、あくまでものんびりヘラヘラしている男の態度にユーリは少々気を悪くした。

「ココだよ。例えば…騎士団にバレたら接収されるとか、さ」
「あー、それは大丈夫でしょ。
 具体的な場所はまだ言ってないけど、ダンチョーにはもう軽く話を通してあるしぃ?」
「だけじゃなくて…」
「へ? 他にも何かあるかねぇ?」
「あんたは、…」
 どう尋ねるべきかを迷い、ユーリは結局言葉を飲み込んだ。
 思うことを表現できない苛立ちに、小さく唇を曲げる。

 レイヴンの「過去」と絡んだこの場所は、あまり過ごしたくない場所ではないのか、居て辛い場所ではないだろうか、…と。
 もしそうであるなら、必要のため過ごす時間と比例して受ける苦痛は牢獄のそれと何が異なるというのか。
 むしろ、初めて出遭った地下牢の方がレイヴンにとってはましなのかもしれない。あの馴染みっぷりからすると。
 もしそうなら…。
 ――あんたは、平気なのか?

「ありがとさん」
 唐突な礼の言葉に、ユーリが目をしばたかせ――柔らかく微笑む翡翠から、ふいと顔を背けた。
 まるで、心の声をまんま聞き取られたようで気恥ずかしいやらいたたまれないやら。
「別に…そんな風に礼を言われる覚えはねぇんだがな」
「そう? まあおっさんが言いたくなっただけよ、気にしないでちょうだいな」
 ぶっきらぼうに返すと、レイヴンは肩を竦めしれっと受け流してしまった。
 そんなレイヴンの余裕とも取れる態度に、ユーリはまたそっと眉を寄せる。
 言わずに済ませようとした問いを読まれたように受け答えされてしまうと、自分がこの男の前ではまるきり子供(ガキ)であると感じてしまう。
 普段は、年齢差など感じさせもしないくせに。しかも悪い意味で。

「まああれだわ。
 ここ以上に使い勝手のいい場所もないし、別に奴さんがここに出入りしてたわけじゃないし、ね…。
 モノに罪はないしぃ?これからもきっちり有効利用すればそれでいいじゃない」

 なんたって、隠れ家は男のロマン!
 自身にも身に覚えのあるフレーズで締めくくって見せたレイヴンに、
「あんたがいいなら、それでいいさ」
 ユーリはただそう言って笑って見せるしかなかった。
 これもレイヴンの本心なのだろう。
 だが……。

(――足りねぇ…。
 でも、一体どう足りないってんだ。
 そもそも、オレは何を足りないと思ってんだ…。わかんねぇ、くそっ…)

 吐きかけた自分への短い罵りは喉の奥で殺して、水を含む。
 乾いた唇を舐めて息をつくと、塞がった胸がやっとスムーズに呼吸し始めたような感覚を取り戻した。
 今は、いつまでも感傷を引き摺る時じゃない。
「んじゃ、そろそろ現状確認といくか」
 ユーリ自身の意識転換も図ろうとしたか、ぴりっと通った声音が薄闇を叩く。
 口端を上げたレイヴンが、あえてだらりとソファーに身を沈めた。

「ダンチョーには焦るな、とは言ったけど、そうもいかないのかもねぇ…」
「はは…。任務となるとバカみたいに真面目だからな。良くも悪くも」
「まぁねぇ。……」
「ん?」
「あー、いや。なんでも」
 ユーリの視線に、レイヴンは重い溜息を押し殺す。

 正直なところ、騎士たちからの手伝いはレイヴンにとってあってないようなもの――というより、させられないことが多すぎて傍に居てもらっても困る、といった状況。
 若さと真面目さは確かに美徳ではあるが、そればかりでも困る場面というのはこういう仕事で非常に目に付く。欲しいのは、勘のよさと柔軟さ、そしてしたたかさなのだが、経験のない相手に求めてもなぁ…とレイヴンが黙って動くことが多々あった。
 事後報告の多さに、勝手な行動を取ると腹を立てるでなくレイヴン一人に負担をかけていると懊悩に傾くのは、いかにもあの生真面目な団長代行らしい。レイヴンは内心好意的に苦笑する。
 それがために、おそらくユーリに相談を持ちかけたのだろう。その前に散々悩みぬいた末ではあろうが。
 近々ユーリと連絡をとって応援を要請する旨の伝達にレイヴンが少し、いやかなりほっとしたのは否めない。
 その安堵とは別のところで、胸の底に滲み出した違う何かは…今のところ、蓋をしておくつもりだ。そのまま深く沈んでくれるといいのだが…。
 レイヴンはグラスを傾け、ゆったり笑って見せた。

「青年が手伝ってくれるとなると正直助かるわ。で、どのくらい話聞いてんの?」
「ざっとの状況だけ、だな」
 そう、と頷いたレイヴンは前置きを省くことにしたらしい。
「騎士団側も一応の容疑者は絞ってるみたいだけど、いかんせん正攻法すぎてねぇ。
 隠密部隊みたいなのもあるにはあるけど、その辺もひっくるめてアレクセイの私兵になってた関係で人材が不徹底なのよね。
 まあ、あいつらも頑張ってはいるんだけど、今のところ相手の経験と手管が上回っちゃってんのよ」
「フレンにも、そういうところは期待できそうにねぇしな。そもそも現場に引っ張り出せねぇし。
 で、おっさんが出張ったわけだ?」
「しょーがないでしょ。
 エステル嬢ちゃんが聞きつけちゃって、わたしも何かお手伝いを!とか言い出しちゃってさ〜〜。
 おっさんもリタっちも、なだめるのに必死だったわよ」

 息を吐いたユーリがこめかみをもむ。
 ありありと目に浮かぶ光景に、その場にいなかった自分まで頭痛を覚えて仕方がない。
 一度言い出したらテコでも動かないエステルを言いくるめたのは、偏にレイヴンの犠牲と口先三寸だろう。
 リタやフレンで太刀打ちできるとは思えなかった。
「おっさんがいたのは、不幸中の幸いってか…。
 つーか、そもそも、なんでおっさんがそんなところにいんだよ」
「天才魔導士少女捕まえんのには、嬢ちゃんところが一番でしょうが。
 ちょいと、屋敷の仕掛けで相談があったのよ。前はオバケのところで魔導器つかってたから、それに代わる効率のいい仕組みはないかと思って。
 で尋ねてみたら、なんであたしがそんなバカっぽいこと考えなきゃいけないのよ、あたしの才能はもっと高尚なことに使われるべきものなのよ、とか言っちゃってさー」
「おっさん、真似んな…」
 不意打ち的に作られた甲高い声に、ユーリは思い切りむせた。
 差し出されたタオルを受け取ると口元をぬぐい、いくらか軽く咳き込んだ後へらへら笑う早期中年を呆れた顔で眺めやる。

「てことは、ここの話をしたってことか?」
「んにゃ、知り合いが今度やろうと思ってる『肝試し』イベント用の仕組みってね」
「なら余計、リタがそんな反応するとか、簡単に予想つくだろ。
 大体……」

 言い募ろうとしたユーリが、ふと言葉を呑んだ。
 視線を落とし、顎に指を当てる。伏せた瞳の奥でめまぐるしく思考が動いている気配がした。
「…おっさん」
「んー?」
 声を上げ応じたレイヴンの視線は、じっとユーリに注がれている。
 声の暢気さと裏腹に、翡翠の瞳が低く光った。



「………ここを使おうと思った、タイミングと理由、が食い違うのはなんでだ」



 探るようなユーリの視線が、レイヴンのそれと交差する。
 問いかけを乗せた黒瞳にレイヴンは首を傾げただけで黙っていた。上がった眉は、問いの続きを促しているようだ。

「エステルんとこで話聞いて、フレンの手伝いするためにココのこと思い出したんなら、リタに仕掛けについて聞きに行くって理由は成立しなくなる。
 その口実でリタ捕まえにエステルのところへ行くなら、ここを使おうと思いついたのはもっと前のはずだ」
 追求しながら、ユーリは「ああ…」と声を上げる。
「そういや…確かに今、フレンの件とここを思い出した話とは、完全にイコールで聞かされたわけじゃないな。
 潜伏場所を使わなきゃならなくなるような依頼が、どっかからあったのか?
 あるいは、何かおっさん自身に思うところがあってエステルんところへ行ったのか…どっちだ?」

 首を傾げたままユーリの話を聞いていたレイヴンが、目を細めてにんまり笑った。
「もー青年、愛しちゃってもいい?」
「…やめろっつの」
「ぶははは…勘の良さったらないわね」
 これだからいいわ、と小気味よさげに笑って片目を瞑ってみせる。
「親友クン含め、他の皆には他言無用でお願いね?」
 若干戸惑いを含んだユーリの同意を確認してから、レイヴンは両手を頭の後ろで組み天井を見上げた。
「依頼ってほどじゃないけど、知り合いの首領(じいさん)に頼まれちゃってね」
 一度言葉を切り、ためいきに乗せて呟きを落とす。



「――自分のギルド、潰してくれって」