喉の奥がひりつく。
無様に声がかすれそうで、瓶の中身を煽り一呼吸置いて口を開いた。
「なによー、おっさんを褒め殺したって何にもなんないわよー?
あれ、それとももしかして明日コキ使おうってんでしょ、もう青年ったら……なーんて」
強いて冗談に紛らわせようとして、失敗する。
背中伝いに強張りを感じては、これ以上の道化は無理だ。
「冗談よ、ごめんね」
「…ったく。おっさんはいつもそれだ。
こういう時あんたに道化られると、拒否られてるみたいなんだよ」
「なんか…ほら、おっさんはそこまで言ってもらえるような人間じゃないもんだから、さ」
「しょーがねぇおっさんだなぁ…」
背中越し、むくれた気配でぼやくユーリに、苦笑交じりに視線を落としてぽつり漏らす。
そうしながら、全てを酔いのせいにしてしまおうと腹を決めた。
これから先、ユーリと二人でこのように過ごす機会は滅多にないだろう。もしかしたら二度と来ないかもしれない。
ユーリに言わなければならない…しかし、言えなかったことを今のうちに。
全てに――自分自身にすら『決着』がつく前に。
「今オレ、おっさんに甘えてるって話したけど、おっさんはどうなんだよ」
「へ、おっさん?
もーう甘えまくりよ〜?」
「本当かよ」
「ホントホント」
「その割りには、あんまりこっちによっかからねぇんだよな。
ま、それもありがたいっちゃありがたいけど…なんか、まだ距離とってるか?オレたちに言わないこと多いぞ」
「思ってること全部言っちゃわないのは、青年も一緒でしょ〜」
「それは…」
「んーもー、おっさんだって青年のそういうトコ寂しいわあ」
まぜっかえす振りで返しながら、投げられた問いに(きた―― )と思った。
声が震えないよう願いながら、意識して淡々と口を開く。
変化した空気に、ユーリが耳を澄ませる気配がした。
「…距離、とってるつもりはないんだけど…いつも思ってることはあんのよ。
ユーリと…皆と一緒にいてこんなに楽しくていいのか、ってね。
俺にはいつか必ず、今までやってきたことの報いが来る。
そのいつかに怯えながら、それでも今を手放せない。――それが許される身だなんて、思っちゃいないけどさ」
でも、急になくなっちゃうのはやっぱり怖いんだわね〜、と。
最後まで淡々と続けられなかった意気地のなさが情けない。
失って怖いものなんてなかったはずなのに、今この時点で既に、ユーリからの信頼を失うのが怖い。
今こうして流れる沈黙ですら怖くて、腹を決めたはずなのにやっぱり道化て空気を押し流してしまおうかと思ったところで、思わぬ言葉が胸に突き立った。
「なら、なおさらもっと頼ってくれよ」
「ユー…」
「おっさんの言う許しが、何に対してなのかはわかんねぇけど…。
誰にでもできることじゃねぇだろ。おっさんのしたことを許すとか許さないとかさ。
何かを許せるのは、それをされた当人かその人に近い誰かだけだ。
多分……エステルが、おっさんを許したみたいにな」
ぐっと喉の奥で声が詰まった。
たった一発(ずつ)の「ポカリ」で終わったあれは、委ねられていた心の重さとそれだけの信頼を裏切っていたのだと思い知らされた側面もある。
仲間達にとってはもう過ぎたことなのかもしれないが、なんとまあ、幾度殺されても足りないことばかりをしているではないか。
それでも、頼りにしている、甘えていると言ってくれるのだから本当に…なんという想いの深さだろう。
「おっさんの背負うものを一緒に背負いたいってのはある。
でもそれは多分、オレたちが出来るのは代わりに背負うことじゃなくて、背負う背中を守ったり支えたりすることなんだろうな。
その重みに耐えられるように。他の余分なものを背負わなくって済むように…。
一緒に背負うってのは、そういうことなんじゃねぇかって…まあ、オレが勝手に思ってるだけだけど」
「守ったり、支えたり…か。ふ…青年らしいわね」
「はは…、なーんて、オレが言えたもんじゃねぇけどな。
オレだって、色んなところからの恨み辛みを買っちまってる。
少なくとも…人殺しの極悪人だ――いつか報いが来るってとこ、おっさんと変わんねぇよ」
思い切るように合わせた背を離し、はっと振り返る。
自嘲に歪んだユーリの口元。
乾いた視線。
その視線を落とした先の開いた左掌を覆うように、レイヴンは自分の右手を重ねる。
瞬間、逃げるように引きかけた腕をしっかりと捕まえて気付いた。
そうと気付かないほどかすかな震え。
レイヴンの脳裏に昼間のユーリが蘇った時、その言葉は口から零れ落ちていた。
「違うでしょ。ぜんぜん違う。
命の重さも行為の重さも、全部わかった上で選んだ暖かいこの手と。
生死を分ける紙一枚、その他人の薄紙を感慨もなく引き破いてた死人の手とは、ね」
「おっさん…」
紛れもない真実を口にすることがもたらす胸の重い痛みなど、たいしたものではない。自業自得だ。
ただ、この真っ直ぐな青年にそんなものは似合わない。
これから先もずっと、青年にとって不本意な道を選んで欲しくはない。
「ユーリが背負うのは、自分が選んだ重さだけでいい。
人から背負わされたものなんて、放っちまいな」
「オレは別に――」
「なーんて言っても、青年はなんでも背負い込みたがるからねぇ」
自分で全てを選んだのだ、と視線を外したユーリの言葉が続くのはわかっている。
だから、先に冗談めかした口調で封じてしまう。
それがたとえ無責任に響いたとしても、全て今の自分が感じている真実だった。
ユーリの懐は驚くほど深くて、受け入れると決めたものを顔色ひとつ変えもせずなんでも抱え込んでしまう。ユーリ自身にも抱えているものがあるというのに。
その姿勢に甘えて、とんでもなく手前勝手なことをしてのけようとした自分の愚かさをどれだけ悔いたか――。
レイヴンはユーリから伝わる体温だけを頼りに、気付かれないよう腹に力を入れる。
「すまんね」
突然の謝罪に、ユーリがゆっくり瞬く。
「おっさん、甘えのあまり、ユーリに背負わさなくていいものを背負わせかけた」
「おっさんの甘え…?」
「…この手を」
言葉を闇に落として黙り、ユーリの左掌に載せたままの手に力を込めた。
握った瞬間、ギクリ強張った肩は見ず…低く静かに続く声を紡ぐ。
「自分の――死に場所に選ぶというのは、ある意味途方もなく甘えている証拠だろう?」
「………っ」
間近でユーリが息を呑む。
長いようで短く重い無音の時が過ぎ、レイヴンは断罪の瞬間を待つかのようにユーリの声を待ち続ける。
呼気に舞う埃が積もる音すら聞こえそうなほどの沈黙。
やがて――俯いたユーリの唇から、途切れ途切れの声が漏れた。
「…はっ、甘え、ね」
さらさらと黒髪が肩から滑り落ちる。
完全に顔を覆ってしまったそれを、ユーリは除けることもなく、レイヴンも指を伸ばすこともなく…まるでカーテンのように二人の顔色をそれぞれから覆い隠していた。
「……を…」
「ん?」
聞き落としそうなほど小さな呟きを拾い上げ、レイヴンは疑問の形でそっと続きを促し耳を傾ける。
なにひとつ聞き漏らすまいと…仲間達が見たこともないほど、真摯な視線が俯くユーリをじっと見つめていた。
からからに乾いた声が、感情を殺して言葉を紡ぐ。
「肉を、斬る…手ごたえの中に、あるはずない、硬い手ごたえがして…」
「ユーリ」
「あんただけなんだ。鋭く手に跳ね返ってくるあんな感触……今でも、ふとした瞬間に、ココに戻ってくる」
「ユーリ…」
「そうさ、あんただけだよ。あんたを斬るつもりなんか、なかったのに…この、大馬鹿野郎…」
あんなのは二度とゴメンだ。
震え始めた語尾に、たまらずユーリの頭を抱き寄せた。
「――すまなかった」
「っせぇ…この馬鹿」
ユーリは小さい声で低くレイヴンを罵り続け――冷静になればそれは罵倒として成立するのかとか、この年でそれはありなのかとか思わなくもない発言も混じりはするが、その全てにレイヴンは甘んじた。
何事も、ユーリの気の済むように。
青年の声は掠れて、掠れて…頬を伝いこそしないが、目に見えないところで零れ続ける涙が止まるまで――。
ゆったりとしたリズムで背を撫で続けていたレイヴンは、ユーリの呼吸が落ち着いた頃、背に添えた手を外して髪をそっとかき分け、陶磁器のような冷えた頬に触れる。
指先から伝わる熱に促されたように、ユーリの視線が上がった。
これからも色々なものを背負い続けるだろうユーリに、せめてバクティオンでのことだけは昇華してほしい。自分の途方もない我侭のせいで、これ以上ユーリに苦しんで欲しくはなかった。
握ったままの手にもう片手を添えると、白い貌を覗き込みレイヴンは噛んで含めるように口を開く。懇願にも似た思いを込めて。
「いいか、ユーリが斬ったのは死人だ。だからこそ、レイヴンという生きた人間が今ここに居る。
…ユーリのこの手は、おっさんの命を呼んだ手なのよ」
「――命を呼んだ……か」
ぽつんとユーリの唇から言葉がこぼれる。
レイヴンの思いは伝わっただろうか。
いや、今夜の懺悔めいたやりとりも蓋を開ければただの自分勝手。それでも、結果としてユーリが少しでも楽になってくれれば。
それが、今のレイヴンの偽らざる気持ちだった。
「だから…青年が背負うと決めた重さ、おっさんにも支えさせてよね」
おっさんの命は、ユーリと凛々の明星のものでしょ?
「…レイヴン……」
掠れた声が名を呼ぶ。
反応を期待した呼びかけでないとはわかっていたけれど、うん、と頷いて微笑みながら流れる黒髪をゆっくり梳いた。
「おっさん、馬鹿でゴメンね」
馬鹿は馬鹿なりに、寄せられた想いに応えたい。
選択肢を突きつけられた時、自分で生を選んだのだから、これから全てを背負ったまま生きた人間としてどうやって歩いていくか。
自分なりの答えを出すまでは、まだまだ闇の中を手探りで進むしかない。
けれど、一番濃いという明ける前の闇はもう白みかけているのだろう。
これから先の時間は、自分で決めた誰かのため、何かのため。
茫洋と見返す黒曜石を覗き込み、この瞳に宿る輝きがいつだって自分の生を促してくれたのだと思えば、胸を突き上げるようにこみ上げてくるものがあった。
白い額に自分の額を寄せた後、頬に唇で触れる。
ユーリは一度瞼を閉じ…次に開かれた時には、澄んだ黒瞳に穏やかな光が戻っていた。
その輝きに、レイヴンの心までもが和ぐ。
「……ホントに、馬鹿だよな、あんた」
「そうね」
「はは…自覚のある馬鹿って、ホントにしょうがねぇよな」
「ほんとにねぇ」
戯言のように紡がれる声に一々応えながら、頬、耳朶、こめかみ、と唇で触れていく。
見えない傷を塞いでいくように。
「しょーがねぇから、好きなだけ甘えろよ」
「………、もう、ホントに青年は…」
「他のヤツらになんか、おっさんの面倒みさせらんねぇだろ。そいつが可哀想で」
憎まれ口を叩きながらも、ユーリの口調も、瞳も、どこまでも優しかった。
本当に、どこまで深く潔い男か。
黒眸に飲まれる錯覚に――アルコールの染み込んだ理性が脆く揺さぶられる。
「そんなに甘いと、おっさん調子にのっちゃうでしょ」
「調子に乗ったおっさんなんて、たかが知れてるっての」
「ひどいわねぇ…」
いつも通りのやりとりに、気が緩んで一気に酔いを自覚する。
ふと視線が絡んだ。