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 地上に降りた時から、何かがおかしかった。
 小さな街に、少しずつ蔓延する病。一度感染してしまえば、もう治療の手立てはなく、人々は苦しみもがきながら死んでいく。
 故に、感染したと発覚した場合、即座に隔離され……秘密裏に処分される。遺体も、家も、その痕跡すら消そうとするかのように、焼き払われるのだ。
 別に珍しい話ではないらしい。人間の体は脆い。不治の病や、医療技術の乏しい小さな村では良くある話だと、ティオリアに聞いたことが有る。
 だが、病がおかしいのだ。潜伏期間が長いのか、どんなに患者を処分しようと、病は直ぐに街のどこかで発症する。患者に接した事の無い人間でさえ、発症の対象になる。
 この病は、一体何処から来たのか。
 明日は我が身と恐れ、街を捨てる人々も出てきた。
 自分が監視する司祭も、頭を抱えている。しきりに聖堂で祈りを捧げるが、フィリタスには如何することもできない。手を差し伸べる権限はないし、神に命を与えられなければ、その不安な心に安息を与えることもできないのだ。
 だが、フィリタスには、どうしても病に対する違和感が拭えなかった。
 彼は迷いながらも、念のため、天に問う。だが、与えられたのは、監視を続けろという答え。そう言われてしまえば、たかが下級天使でしかない彼は従うより他は無い。
 そんな彼が異変の原因に気付いたのは、司祭がやはり病で亡くなり、モヤモヤした思いを抱えたまま天に帰ろうとしたその時だった。
 街から、出られない。何か巨大な壁に阻まれるように、天へと上ることが出来なくなっている。街を出ようとしても同じ。何か壁に阻まれるように、街から一定の距離以上はなれることが出来ない。
 悪魔、だ。それも、権天使とはいえ、上級天使並みの自分の力を上回る、強大な悪魔に違いない。勿論、力を持った人間で有る可能性も無いわけではないが、病を蔓延させることの出来る人間など聞いたことが無い。
 基本的に悪魔は契約によって得た、質のよい人間の魂を好む。だが、極稀に、力の無い下級悪魔が、こうした流行り病や戦争を用いた暴挙に出ることがあるのだ。質を選ばず、人間の魂を一度に奪う。
 だが何故か今回は、上級悪魔がこの病を蔓延させているらしい。
 まだ下級に属する比較的若い天使は戦慄した。自分は未だかつて、これほどまでに強大な悪魔に対峙したことは無い。
 生まれたばかりの天使の頃は、下級悪魔と刃を交えた事がある。権天使になってからは、中級悪魔と遭遇し、天に報告したこともある。その時は直ぐに能天使(パワーズ)が対処のために地上へと降りてきた。
 だが、今はどれほど報告しようとも、天からの返答がない。
 神から隔離されたような恐怖感に、フィリタスの心は挫けそうになる。だが、不意に彼の脳裏に浮かんだ友の顔が、叱咤しているように思えて、それだけを支えに今、この状況を打開するための知恵を練り始める。
 無理矢理壁を壊すことは不可能だろう。力が違いすぎる。
 統治者の魂が悪魔の餌になってしまったのならば、天界の天使達が役目を終えたことを悟るのは難しい筈だ。そうなれば、役目の期限である50年を待つしかない。
 悪いことに、彼が地上に降りて、まだ20年と経っていない。
 残りの30年……ただ傍観することしか、自分には出来ないのだろうか。
 弱い人間の命……まして直ぐに転生して蘇る者など、長い時を生きる天使にとって然程重要なものでもない。だが、悪魔に食われた魂は二度と転生することは無い。甘言に堕ちた愚かな人間ならともかく、罪無き人々が、苦しみもがきながら悪魔の餌食になるのを、ただ、ただ見ていることしかできないのは、流石の彼も罪悪感が疼く。何より、それを知ったティオリアが悲しむのを見たくは無い。

 その時、フィリタスの脳裏に、直接『神の声』が響いた。

 人々の前に姿を現し、司祭の変わりに教えを説きなさい。人々に、心の安息を説きなさい。

 下級天使であるフィリタスが、神の声を知るはずは無い。
 だが、己の知るどの上級天使とも違う声であるならば、それは神の声以外ありえない。
 悪魔が、天使である自分の意識に直接話しかけることなど出来ようはずもないし、出来ると聞いたことも無い。

 だが、彼はある存在を忘れていた。
 天使とも、悪魔とも、人間とも違う、『堕天使』という存在に。

 混乱した権天使は、顔無き声に縋るように、己の力を解放した。


 広がり続ける不治の病に絶望する街を、一人の旅人が訪れた。
 親切な人間が、旅人に助言する。
 もうこの街は駄目だ。病に感染する前に、直ぐに去るが良い。
 旅人はその親切な人間に、一つの知恵を与えた。
 即ち、天使の血には、苦痛を和らげる力がある、と。
 人間は、諦めたように小さく笑って首を振った。そんな恐れ多いことを出来よう筈もない、と。
 旅人は小さく嗤って、それ以上何も言わなかった。
 ただ、旅人はそれ以上街に留まること無く、静かにその場を去ったのだった。



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