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閉ざされ朽ちかけた教会の、裏手にある宿舎の一室。かつては信仰深く情の厚い司祭の寝室であったその部屋に置かれた、簡易で汚れた一台のベッド。
主を失ったはずのそこには、鎖で繋がれ、力なく横たわる一羽の白い大きな鳥がいた。
否。それは、大きな一対の翼を背に携えた、この世のものとは思えないほど美しい、人型の生き物だ。
緩やかなウェーブを描く、透けるような金色の髪。青く澄んだ空を連想させる、美しい色の瞳。だが、かつて眩しいほどに輝いていた瞳に光は無く、虚ろに宙を見つめたままだ。少し幼さの残る愛らしい整った顔立ちは、やつれこそしていないものの酷く疲れていて、もはや笑みを浮かべる気力など欠片も残っていないようだった。
そして何よりも異常なのは、ベッドからはみ出し垂れ下がる足に付いた深い傷と、そこから溢れる赤い雫が溜まった銀の器だった。
だが、1時間もすれば傷は跡形も無く消える。そうして、見張りの男が部屋の中に立ち入り、銀のナイフで再び足を傷つけるのだ。
最初は痛みに顔を顰めていたフィリタスも、今はただ微かに足を震わせるだけだ。
極度の疲労に、もはや感覚さえも失っている。
「……、……」
天使の血には、痛みを和らげる効果がある。
最初に言い出したのは、誰だっただろうか。何処にでも居る純朴そうな普通の人間だった気もするが、もう覚えてはいない。
一滴。たった一滴の、祝福されし天使の血を口にした病に伏せた少年は、今までの苦しみが嘘のように穏やかな顔で、だが結局助かることなく死んでいった。
だが、それを見た人々は、口々に言ったのだ。
どうせ死ぬなら、安らかに家族を逝かせたい。天へ導かれたい、と。
そうして、贄となった天使は此処に囚われ、閉じ込められた。
抵抗しなかったわけではない。だが、天使である彼は人間を傷つけることも、まして殺めることなどできない。
そして、彼が実体化していたのも仇になった。
思うように力が出せず、人々を穏便に眠らせることも出来ずに、多勢に無勢で捕まってしまった。
しかも、悪魔の力の所為だろうか。捕まってからも元の姿に戻ることも出来ず、彼は実体化するための力だけを消費していった。今や声を出すことも、逃げ出す術を考える力も残ってはいない。
それでも、最初は天に助けを求めたのだ。何度も。何度も。
だが、悪魔の結界に阻まれたこの街からは、勿論、天へと声が届くはずも無く。
最後は神の試練だと信じ、ただ、耐え続けた。
そんな思考すら、もう、彼は覚えていないだろう。
今はただ、人間より遥かに長い存在という名の生を終えるためだけに、此処で存在している。
まるで、贖罪の山羊のように。
「……、ォ……」
掠れた声が、形のよい唇から漏れる。
助けを呼ぶ声でも、会いたいと求める声とも違う。
ただ、ただ、何かの呪文のように。壊れた、玩具のように。
「…………ティ、オ……」
虚ろな神の人形は、涙すら流すことなく、意味なき言葉を呟き続けていた。
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