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 駆け込んだ上層部は、いつもと変わらない平静さで、権天使が一人戻らない程度の事など気にも留めていないようだった。
 それもそのはずだ。下級天使は、地上で直接人間と関わることが多い。不名誉なことだが、堕天も決して珍しくは無いのだ。ティオリアと同じ時期に生まれた仲間の中にも、何人か堕ちた者がいる。
 だからと言って、あのフィリタスが堕ちたとは、ティオリアには全く考えられない。
 なんとか捕まえた上司に、彼は逃がすまいと単刀直入に聞いた。
「フィリタスが戻ってきていないと聞きましたが、本当ですか?」
「あぁ、その話か。それなら今、能天使が確認に行っている」
 血相を変えたこの権天使が来ることを解っていたように、上司はやや面倒そうに答えた。
 ティオリアがフィリタスの報告書を手伝っていることを、彼もよく知っている。本来ならば『関係ない』で終わるであろう突き放した一言ではなく、多少なりとも現状を教えてもらえただけ、ありがたいと思うべきなのかもしれない。
 だが、当然、ティオリアはその答えで満足できるはずが無い。それどころか、かえって不安を煽られてしまった。
「能天使?対悪魔の部隊が、何故! ……彼は……フィリタスは、無事なのですか?」
 やや口調を荒げながらも努めて冷静に問う部下を、上司はひたりと冷たい目で見つめる。
「それを含めての確認だ」
 その突き放すように告げられた言葉には、これ以上首を突っ込むな、という言外の命令が含まれている。
 だが、ティオリアは、敢えてそれを無視し、食い下がった。
「私も確認に行かせて下さい」
「……お前は、自分が何を言っているのか解っているのか?」
「解っています」
 戻らない天使の状況の確認は、権天使の役割ではない。本来、主天使の役目だ。
 『天使の務めを統制する』という役割に乗っ取って、地上に留まる天使に警告……場合によっては、天界に強制連行する。
 だが、今回は対悪魔の能天使が確認に行っていると言う。つまり、フィリタスは自分の意思で戻らないのではなく、悪魔の妨害にあって戻れないという可能性が高いのだ。
 勿論、悪魔の誘惑に堕ちたという考え方も……いや、むしろそちらの方が一般的なのだろうが。当然、ティオリアの中にそんな考えなどない。
 あくまで冷静を装い、本気で非常識なことを口にする部下に、上司は盛大な溜息をついた。
「駄目だ」
「…………」
 あっさりと却下され、ティオリアは唇を噛み締める。
 こうしている間にも、フィリタスは誘惑に苦しみ、苦悩しているかもしれないのに。今すぐに行って、救い出してやりたいのに。
 だが、役目が無くては地上に降りることは出来ない。
「役目無く、地上に降りようなどと考えるな」
 ティオリアの考えを読んだように、上司は釘を刺してくる。
 無理に地上への扉をこじ開けて降りれば、その衝撃に翼が砕け散り、二度と天界に戻ることは出来ないと言われている。最悪の場合、力を使い果たし、存在そのものが消滅してしまうとも。
 神の意に反するということは、天使にとって死罪に等しいのだ。
「……わかっています」
 ティオリアは、搾り出すように答えるのが精一杯だった。
 これ以上言葉を連ねても、意味など無い。彼は上司に一礼し、肩を落して、いつもの春の丘の外れに戻る。
 その傍らには、いつものように束となった本は無い。その代わり、どうしたら地上に降りられるのか。そればかり考えている。
 今まで溜め込んだ知識を総動員して、思考をめぐらせているのだ。
「フィリタス……」
 愛しい、愛しい天使。脳裏に浮かぶ眩しく無邪気な笑顔が、今は歪むことなく自分を見つめ返してくれる。触れられない、妄想。故に、苦しかった。
 もし……もし、この笑顔が、失われたとしたら。

 ……自分は、一生、神を、恨むだろう。

「……ッ、……」
 ズキン、と自分の中で、痛みにも似た何かが蠢き、ティオリアは我に返る。
 自分は今、何を考えていた?
 両手が震えている。……言いようの無い恐怖に。
 ゆるゆると両腕を上げ、ティオリアは震える両手で顔を覆った。
 恐ろしくて、一瞬前の思考すら辿る事ができない。
 その思考に向かい合うと言うことは、己を否定することに他ならない気がして。

 そして、そのときこそ、自分は、この天から。

「……!?」
 思考を遮るように、突然、彼の脳裏に声無き声が響いた。
 最下層からは、とてもその先を見ることが出来ない遥か上空を、彼は感謝の眼差しで見上げる。
「……ありがとう、ございます……」
 先ほどとは違う、歓喜に震える声。
 フィリタスの元に、行ける。
 ティオリアは、その背にある翼を、大きく広げる。
 羽ばたきと共に開かれる、地上への扉。

 待っていろ、フィリ……すぐに助けるから。

 権天使を通した地上の扉は、何事も無かったように直ぐに閉じられる。
 後に残されたのは、大きな羽ばたきの風に舞い上げられた、色とりどりの花弁。
 それは、風と踊るようにヒラヒラと左右に舞い、音も無く地へと落ちていった。



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