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直接舞い降りた街は、まるで死んだように静かで、朽ちかけていた。
家々の扉は硬く閉ざされて、人の気配は殆ど無い。かつて賑わっていたであろう屋台の並ぶ通りでは、テントの名残らしい木の骨組みだけが、所々寂しく放置されているだけ。時折道急ぐ人の姿を見るが、その顔は絶望に暗く沈んでいる。
もはや、此処は街としての機能を完全に失っていると言っても、過言はなさそうだ。
こんな寂しい場所で、フィリタスは一人、街を監視していたのだろうか。
ティオリアは痛ましい顔で街を眺めながら、人には見えないその姿で中心通りを低空飛行する。
悪魔の気配は無い。瘴気のような嫌な臭いはするが、姿は何処にもなかった。
そして、先に下りたはずの能天使に関しては、姿も気配も街中では感じられない。もう撤退してしまったのだろうか? それとも、街の外で悪魔と対峙しているのだろうか。
彼は知らない。病を流行らせた下級悪魔は既に存在を消され、能天使も見えない壁に阻まれ街に入ることが出来ず、周囲をうろついているしかないことを。
彼だけが、まるで何かに手引きされるように、街の中へと直接降りてこられたのだということを。
神から特別な役目を貰った権天使は、見失いそうなほど細く頼りない天使の気配を辿り、街の中心部にある教会に辿り着く。嘗ては誇らしく輝いていただろうそこは、今にも崩れそうなほど壁は崩れ、傾き、朽ちかけていた。
天使に、人間の作った壁などの障害物は関係無い。彼は静かに壁を抜け、中に入る。
少しずつ強くなるフィリタスの気配。だが、それはあくまで街に下りた直後に比べて、の話で、本来の気配から考えれば酷く弱く、まるで残り香のような……。
其処まで考え、ティオリアは戦慄して背筋を震わせる。そうして、思考から最悪の想像を打ち消した。
『彼』が消滅するなど……考えられない。
気配を辿って着いた先は、教会に常駐する司祭の寝室のようだった。
入り口に武器を持つ男が二人。まるで、見張りのように立っている。
それを訝しげに見やりながら、天使は音も無く扉をすり抜け、部屋の中に入る。
かくして其処には、寝台に鎖で繋がれ、ぐったりと横たわる美しい天使の姿があった。
見間違うはずも無い。美しい、誰よりも愛しく大切な天使。
「……フィリ……!?」
ティオリアは思わず声を荒げて、寝台に駆け寄る。
「……ッ……!」
だが、その手は届くことなく、透明な壁に阻まれた。
壁を壊そうと天の雷を放つが、強大な力の壁を前に、空しく四散する。
「フィリ!」
声を上げて名を呼ぶが、天使からの反応はない。
まるで人形のような虚ろな目を、仰ぎ見るように天に向けて浅い呼吸を繰り返している。
今にも、命のともし火を消してしまいそうな、儚さを漂わせて。
「フィリ! 目を覚ませ! フィリタス!」
本来の名前で呼んでも、反応はない。声が聞こえていないのだろうか。
なす術も無く、ただ名前を呼び続けていると、一人の人間が部屋に入ってきた。
ボロボロの服。疲れきった暗い顔。まるで機械の様に無表情で入ってきたその男は、壁にぶち当たることなく、寝台に近づいていく。
その手には、銀色に輝く器と、銀色に鈍く反射するナイフ。
嫌な予感がする。
男が虚ろに見つめているのは、寝台からはみ出すように垂らされた、真っ白で傷一つ無い天使の脚。
「やめろ……!」
ティオリアの口から、搾り出すような悲痛な声が上がる。
だが、当然ただの人間である男に、その声は聞こえていない。
男は、既に置かれた器と、新しく用意した器を交換すると、白い足首を無造作に掴み、ナイフでその脚を切りつけた。
ぱっくりと割れた傷口から、溢れる赤い液体。それは真っ白な脚を伝い、下に用意された器にポタポタ落ちて小さな池を作る。
それだけの出血をしながらも、フィリタスの顔は色一つ変えなかった。
ただ、虚ろな目を天に向けて、身じろぎ一つせずされるがままで……。
ティオリアは、ゾッと背筋を凍らせた。
こんなことが、何十年と続けられてきたのか。
天使は、実体化した状態でも体は丈夫に出来ていて、今見た傷程度なら、1〜2時間で跡形も無く消えてしまう。溢れた血も、直ぐに体内補填され、貧血とも縁がない。
だが、疲労はある。人間が魂と呼ぶような、その力を削り、実体化した体の補修をするのだ。当然、小さな傷でも、何度も補修すれば力は消費され、疲労していく。
役目の期限である50年で天界で戻り、何十年単位の睡眠のような休息を取って力を回復しなければ、その疲労は天使の存在そのものを危うくする。
天使は人間と違い、転生はしない。存在が消滅すれば、それっきり。二度と生まれることは無い。
「クソ!誰が、こんな壁を……!」
このままでは、フィリタスが消滅してしまう。
ティオリアは何とかして彼を助けようと足掻くが、壁はビクともしない。こんなに、近くに居るのに、手が届かない。
人間が通れて、天使が通れない壁。
当然、人間技ではない。天使か……それでなければ、悪魔の仕業にちがいない。
「フィリ……フィリ……」
ティオリアは自分の力の無力さに打ちひしがれ、ただ、愛しい名前を呼び続けた。
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