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どれ程の時間、そうしていただろう。
あれから数度、何人かの人間達に、フィリタスはティオリアの目の前で無情にも傷つけられ、その血を奪われていった。
だが、二人を隔たる壁は未だ厚く、どれほど力をぶつけても破れる気配が無い。
考えろ。考えろ。
何か、彼を救う手立てはないか?
せめて、あの人間達を止めることが出来れば。
だが、天使の声は、直接人間に届くことはない。
フィリタスのように実体化すれば、声は音として彼らの耳に届くだろう。しかし、神の許しなく実体化することは禁じられている。当然、神の声が届かない此処では、許しなど出るはずもない。
『神託』に見せかけた心の声ならばと、訪れる人間達に試してみた。が、何かに取り付かれたように作業を繰り返す彼らに、効果は全く無かった。
考えろ。考えろ。
あの人間達は、何のために天使の血を欲している?
疫病の苦しみから逃れるため。
決して治るわけではないが、その血を口にすれば痛みが和らぎ、安らかな気持ちになれるという。
だがそれは同時に、人々の精神を冒す甘美な毒薬になっている。
僅かな摂取ならば、鎮痛薬の代わりになっただろう。だが、過剰な摂取は毒だ。思考を失い、生ける屍のように、その血だけを求めて彷徨うことになる。
かつて崇めていたはずの天使の脚を、躊躇いも無く傷つけるあの人間が、それを証明している。
どうしたらいい? どうしたら、この悪循環を止められる?
フィリタスを、この拷問のような苦しみから救うことができる?
考えている間にも、刻一刻と横たわる天使の限界が近づいていく。
一刻の猶予もないというのに。
── いつまで、そんな無駄なことを続けるつもりだい?
突然、ティオリアの脳裏に声が響いた。
壁を前に為す術も無く項垂れていた彼は、ハッと顔を上げる。
── 君には、この天使を救う『知識』がある。何故、それを使おうとしない。
脳裏に響く声の主を探し、ティオリアは周囲を見回す。
かくして、その生き物は、彼の最も大切なものの傍らに鎮座していた。
白い蛇。頭から尾まで、何処をとっても白色。自然界にあるような、アルビノ種ではない。なぜなら、その蛇は、瞳の色まで真っ白で……。
否、良く見るとその瞳は、不思議な色合いをしていた。瞳の中には、黒があり白があり僅かな青色があり……。
そうして、ティオリアは気付く。
その瞳の中に映るのは、他でもない自分。
銀色の世界に、自分と向かい合うように、くすんだ金色の髪ろ青色の瞳を持つ天使がたたずんでいる。
その天使の顔は、動けない自分を嘲笑っているかのように歪んでいて。
目が、逸らせない。
── 人間達が欲しているのは、天使の血ではない。
再び脳裏に響く声。
それは蛇ではなく、目の前のもう一人の自分からの問いかけのように、ティオリアは感じる。
否、そう、認識した。
そうだ。彼らが欲しているのは、天使の血ではなく、苦痛を和らげる薬。
痛覚を麻痺させる、甘美な毒。
── 同じような薬草を、知ってるではないか。
狂ったように読みふけってきた人間界の書物。
その中に書かれていた、ここより遠い地で広まる、鎮痛効果のある植物。
かつて、天使が人間に伝えたとされる、薬草。
たしか、この辺りでも自生していたはずだ。
同時に、彼は思い出す。
その薬草は、摂取が過ぎると恐怖を伴う幻覚を見た。やがて幻覚から逃れようと人々は薬草を求め、まるで悪魔に取り付かれたように、盗みや殺し等多くの罪を犯したのだ。
故に、薬草を人間に伝えた天使は、神の怒りを買い、天界を追放された。
その後、天使がどうなったのかはわからない。
天界から堕ちた天使は、悪魔となって人々を誘惑するというのが、自分達天使の間での通説になっているが。
何にせよ、今自分が解っている事。
それは、己の持つその薬草の知識を人間に伝えれば、フィリタスを救えるかもしれない代わりに、自分は堕天するだろうと言う事だ。
── 怖いのかい?
もう一人の自分が、怯える自分を嘲笑うように問いかけてくる。
怖い。あぁ、そうだ。怖いに決まっている。
ティオリアはもう一人の自分から瞳を逸らすことも出来ず、心の深い部分を探る。
いや、それは強制的に探らされているような、探られているような、そんな強い違和感を伴う行為。
それでも、何かに囚われたように、思考は止まらない。
怖い。こわい。コワイ。
神に突き放され、その愛を、見失うことが。
天使としての……己が己の存在を否定することが。
自分の存在意義を失うことが。
自分が、自分で無くなるのが。
怖い。こわい。コワイ。
愛しい天使を失うことが。
穢れの無い笑顔が、二度と見られないことが。
己を包む温もりが、冷えていくことが。
── 本当に怖いものは、何だ。
一番、怖いのは?
一番、避けたい未来は?
ティオリアは、横たわる天使の唇が微かに動くのを見た。
吐息の中に漏れる小さな音を、人間より遥かに優れた聴力が拾う。
そして、それが何かを理解した瞬間、彼の中で何かが溢れた。
「フィリ……!!」
確かに、目の前の天使は今、自分を呼んだ。
小さく、掠れた声で、まるで祈りのように。
あぁ、こんなにも、こんなにも近くに居るのに。
壁に阻まれ、この手は遠く届かない。
今にも消えそうな灯火を、掬ってやることができない。
遠くに、逝ってしまう!
── 本当に怖いものは、何だ。
再び、ティオリアの頭の中で声が響く。
それは問いではなく、確認。
そうだ。一番怖いのは、フィリタスを失うこと。
天使としての自分を、失うことではない。
あの笑顔が、温もりが、この世界から失われること。
たとえその結果が、二度と彼に触れられないものだとしても。
自分は……自分、は。
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