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一度心を決めてしまえば、もう、何も迷わなかった。
いつの間にか姿を消した蛇を訝しむ事も無く、ティオリアは目的のために寝室を後にする。
天使の血と同じように、痛みを和らげる薬草。それが村のはずれで群生しているのを見つけると、彼は薬草を手に入れ急ぎ寝室に戻った。
横たわるフィリタスの意識は、未だ虚空を彷徨っているようで目の焦点は合っていない。だが、症状の悪化もしていない。そのことに安堵し、ティオリアはそっと美しい天使が横たわる寝台に近づく。
今度は、壁に当たらなかった。
ティオリアは、何者にも邪魔されること無く、愛しい天使に近づけたことにホッとする。
覗きこんだ顔に表情は無く、目は虚ろ。こんなに近くに居るのに、その美しい青い瞳はいつものように自分の姿を映すことはない。
その肌には何処にも傷がないというのに、その姿は痛々しく感じる。
「フィリ……もうすぐ……すぐに、全部終わるから」
終わらせるから。
ようやく耳元で囁いた言葉は、自分でも驚くほど穏やかで柔らかだった。
これから、自分は自分の存在意義でもある神に背き、大罪を犯そうとしているのに。
それとも、人間のように、死期を……己の散り際を悟ったのだろうか。
何にせよ、自分のやるべきことはただ一つ。
ここからフィリを救い出す。
そして、神から与えられた役目に従い、天界に連れ戻す。
ガタン、と古く傾いだ扉が大きな音を立てる。
その音に、ティオリアはフィリタスから視線を外し、感情を押し殺したような冷たい眼で扉を見据えた。
銀の器とナイフを持った人間が、不気味なほどの静けさで、病的な目をして部屋に入ってくる。
その目は、真っ直ぐにフィリタスの白い脚に向けられていて。
ティオリアはその人間の視線に汚らわしさを覚えて、眉を顰める。
しかし、その視線が向けられるのも、あと僅かだ。
彼は己を人に認知できるよう、具現化するために意識を集中する。
フィリタスと違い、力の弱い彼は長時間の具現化はできない。
この一回で、全てを終わらせなければ。
部屋に満ちる眩い光。
人間は病的な瞳から一転、驚きの感情を見せて、瞼を閉じる。
やがて光が収拾した後、人間の視線の先には、佇む一人の天使の姿があった。
やや色の濃い金色の髪。澄んだ夏空のような濃く青い瞳。背中には真っ白な一対の翼が広がり、その衣服は神の使いらしく、眩い白を貴重とした緩やかな物。
「……て、天使様!?」
突然の天使の来訪に、人間は驚きその場に膝を付く。
体をガクガクと震わせ、手に持つナイフと器を床に放り出し、土下座のように額を床に擦りつける。
「申し訳ありません……申し訳ありません……!
病に苦しむ家族を、皆を救うにはこの方法しか……!」
疫病の恐怖から逃れるためとはいえ、神の御使いである天使を傷つけることに、多少なりとも罪悪感はあったのだろう。贄としていた天使の近くに降臨したもう一人の天使の姿に、人間は酷く怯え、懺悔を始める。
騒ぎを聞きつけ部屋に入ってきた扉の外に居た見張りも、現れた新たな天使の姿に驚き、跪いて頭を垂れた。
それを冷めた目で見つめながら、ティオリアは口を開く。
「……弱き者達よ。死をおそるるなかれ。
死は常に神とともにあり、正しき心を持つものは神の玉座に導かれる。
神の愛は平等であり、また広く深いものである」
ティオリアは、天使として存在した長い時の中で、何度か人間に説いた言葉を口に乗せる。
まるで、自分に言い聞かせるように。
死を、恐れるな。己を失う恐怖に、押しつぶされるな、と。
「……それでも不安ならば、この草の根を煎じ、ふくむが良い。
恐怖は薄れ、安らぎを得ることが出来よう」
ティオリアの言葉を、神の言葉のようにありがたがる人間。
なんと滑稽な光景だろう。
彼らは、神の御言葉と天使の言葉の違いを、見抜くことも出来ないのだ。
哀れな、弱い人間。真実を知りもせず、知ろうともしない。
そんな愚かな人間に振り回されていたのだ、フィリタスは。
初めて覚えた、悲しみにも似た怒りの感情。
ティオリアは感情のままに、生み出した光の剣を振るう。天使を縛っていた鎖が、音を立てて断ち切られた。
それでも反応しない軽い体を、彼は壊れ物を扱うように優しく、愛しげに両腕で抱き上げる。
願い空しく、愛する天使は、腕の中でもぐったりとされるがままで。
それを痛ましい眼で見つめながら、ティオリアはその場から姿を消す。
後には、天使から与えられた薬草を恭しく手にする人間達が残された。
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