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「しっかりするんだ、ホーリィ……ホーリィ!」
 名を呼びながら弛緩した体を抱き上げ、その体を強く抱きしめる。
 無理矢理他者の術に干渉するのは、あまり良い事ではない。まして、いつ誰に見られるか解らない地上で擬人化を解くのは、誉められたことではない。が、今は非常事態だ。
 ユーデクスは抱きしめた青年の擬人化を解き、彼を本来の姿に戻す。
 見た目は殆ど変わらない、月の優しい光を湛えた美しい天使。『聖なる柊(ホーリィ)』の名を頂いた、純粋で穢れなき天使。だがその瞳に依然光はない。その背に現れた白く輝く一対の翼も、力強く広がることはなく、床に垂れ下がるだけ。
 ユーデクスは悲痛な表情で、天使に触れる手の平から自分の力を注ぎ、彼の力を償還した。同時に己自身も実人化を解く。
 バサリと背に一対半……三枚の白い翼を広げた後、全身で腕の中の天使を守るように包み込む。
 光あれ。光あれ、と、天におわす神に請い願いながら。
「……ユーデクス……?」
 三枚翼の智天使は、胸に抱いた天使の唇から囁かれた自分の名に、安堵の息を吐く。
 白金色の瞳に光が宿ったのを確認して、苦悩の中で微笑を零した。
 失わずに、済んだ。最悪の事態は、免れたのだ、と。
「ホーリィ……すまない。苦しい思いをさせたね」
「……どうして……あんな……」
 あんな、獣のように、力を欲して。
 首を左右に振りつつも掠れた声で零された尤もな問いに、ユーデクスは言葉を詰まらせる。視線を彷徨わせ、どう答えたものか、と思案して。
 正直に言えば、彼を恐れされてしまうだろうし、いらぬ心配をかけてしまう。役目の守秘義務もある。とはいえ、嘘は吐きたくない。
「……我を、失っていたんだ。滅多にないことだけれど……今日は、月蝕だからね。どうしても、力が足りなくなる」
 自分の役目は、聖なる力が弱まる時が忙しくなる。まさか、ここまで飢えるとは思っていなかったが、実のところ、ある程度自我を失うことは覚悟していたのだ。
 だから、昼真、彼に告げたのに。
「それよりホーリィ、何故此処にきたのかな? 今夜は部屋で大人しくしているよう、言った筈だ」
 いつになくユーデクスの言葉に棘が乗るのは、大切な友を失ったかもしれないという恐怖の裏返し。
 八つ当たりに近いと解っているが、それでも言いつけを守らなかった彼に対して口調が強くなってしまう。
 途端に申し訳なさそうな顔をして身を起こすホーリィ。体はある程度回復しているようだ。それに安堵しつつ、ユーデクスは、彼の体を支えながら腕の中に抱き留め、彼を膝に座らせるような形を取って視線をあわせた。
「……すまない……だが、どうしても胸騒ぎが収まらなくて……貴方の顔が、見たくなったんだ」
 来なければ、いけないような気がして。
 視線を逸らし、胸元で手を握りこんで呟く様子を、ユーデクスは苦い笑みを浮かべて見つめる。勘が良すぎるのも、困り者かもしれないな……そんな風に思いながら。
 不意に、ユーデクスは穏やかな笑みを表情から消す。
 緊張した面持ちで、気配を辿るように意識を遠くに向ける。
「ユーデクス?」
「あ……あぁ、すまないね。役目を頂いたから、行かなくては」
 腕の中で不安げに問うてくるホーリィに穏やかな微笑みで返し、ユーデクスは愛しい友の額にかかる髪を掻きあげる。さらさらとした手触りが、手に馴染んで心地よい。
「役目って……こんな時に……大丈夫なのか?」
「これが、私の役目だからね」
 たとえこの身が滅びようとも。それが役目ならば、赴かないわけにはいかない。
 尤も、神もそこまで非情ではない。ちゃんと耐えられる役目しか与えてこない。
 ならば、その期待にこたえなければ。
「……駄目だユーデクス。今行ったら、貴方は……!」
 何を思ったのか。役目から逃れられるはずもないと解っているだろうに、ホーリィは胸元にしがみ付き、必死に止めようとする。身を案じてくれているのは解る故に、ユーデクスの胸の内に、彼への愛しさが募る。
 黒い髪を有する三枚翼の智天使は、月の化身のような天使の額に、そっと唇を寄せた。
 優しい睡魔が、訪れるように。疲労したその体を、十分癒せるように。
「ユーデクス」
 行くな、という、声なき声を聞く。
 それを穏やかに微笑んで受け流し、ユーデクスは天使を抱き上げて運び、己の寝台へと横たえた。
「暫く、此処で休むといい。大丈夫、夜明けまでは誰も来ないよ。……体力が回復したら、部屋に戻ること」
 いいね?と笑顔で念を押して、彼は翼を広げる。
「……いかないで、くれ……ユーデクス……」
 睡魔に抗いながら手を伸ばし、尚も訴える最愛の天使に微笑を残して、ユーデクスは大きな羽ばたきと共にその場から姿を消した。



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