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 漸く役目から解放されたのは、明け方。
 光に満ち溢れた朝日を満足に見ることも……当然その恩恵に預かる事も出来ず、ユーデクスは最後の力を振り絞って自室の浴室へと移動する。
 が、着地の瞬間、滑る血に足を取られて盛大な音と共に倒れこんだ。
 距離にして数歩もない場所にある、シャワーのコックを捻る力もない。体のあちこちに刻まれた深い裂傷を治すことも出来ず、彼は浴室のタイルに座り込む。
 口の中に広がる苦い鉄の味。もう、何処が痛いのか、何処が一番酷い傷なのか、解らないほど全身が痛みに支配されている。
 傷を治そうにも……止血しようにも、そんな力はとうに使い果たしてしまった。当然、擬人化など無理な話。
 それでも、実体化しながらこの場に理性を保って存在している。自分でも奇跡だと思うような状態だ。
「…………」
 大丈夫。朝日も昇った。暫くこうして動かずにいれば、やがて力も回復する。
 今日は一日動けないかもしれないが、まぁ、仕方が無い。
 体からあふれ出る血液が排水口に流れ落ちてていくのをボンヤリと眺めながら、ユーデクスは瞼を閉じる。
 出来るだけ、自我を保つために。漸く眠りにつきかけた、内なる死神を呼び起こさないように。
「ユーデクス!」
 バタン!と大きな音と共に、浴室の扉が勢い良く開かれた。同時にハッとしてユーデクスは瞼を開く。
 眼を見開いて立ち尽くしているのは、若い青年。その背に翼はないが、擬人化したホーリィだということは毛色で直ぐにわかる。
 あぁ、無事回復したのか。
 安堵と同時に、ユーデクスは苦い思いで眉を寄せる。
「……まだ……いた、のか……」
 惨めな程掠れた、吐息のような声。痛みと疲労で満足に声が出せない。
 だが、全身から滲み出る拒否の感情は伝わるだろう。
 来るな、と。近づくな、と。
 暫く呆然と立ち尽くしていたホーリィは、ユーデクスの願い虚しく、ハッとして浴室内に駆け込んできた。
「怪我をしているじゃないか!」
 治癒の術を施そうと、傷口に当ててくるその手を、ユーデクスは思わず弾いた。
 瞬間、全身を襲う激痛に顔を顰める。
「……ぁ……」
 強張るその顔に申し訳ないと思いつつも、それ以上にこの血まみれの体に近寄らせたくなくて。
 彼の、真っ白なその存在を、穢したくはなくて。
「……っ……汚れる、から……ね。大、丈夫。力が回復すれば、すぐに……っぅ」
「ユーデクス!」
 堪えられなかった呻きに反応するホーリィが、申し訳ないと思いつつも愛しいと思ってしまう。
 あぁ、相当思考もやられているな。
 苦笑を零しながら、ユーデクスは痛む翼を一枚動かし、汚れていない部分でそっと青年の体を押した。
 それは押すというにはあまりに力ないものだったが、意図は伝わるだろう。
「……戻り、なさい……だいじょ、ぶ……だから……」
「何が……何が大丈夫だ……!そんな体で……っ!」
 泣きそうな顔。いや、実際涙を零しているのか。

 あぁ、こんなにも私の身を案じてくれる。こんな、死神を。

 痛いはずなのに。苦しいはずなのに。ユーデクスの顔に、思わずいつもの穏やかな笑みが刷かれた。



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