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 気付くとそこは、ベッドの上。
 酷く夢見が悪い。
 もう一寝入りしても良かったが、あの胸糞悪い夢を見たくなくて、仕方なくベッドから降りる。
 時間は深夜。チラリと視線を上げた窓の外、月もまだ高い。
 そういえば、やりかけの書類が少しあったか。
 急ぎではないが、溜めて置きたくは無い。
 ジュレクティオは溜息を一つつくと、着替えて寝室を後にした。

 ++++++

 ジュレクティオが書類を捌き始めて暫くもしないうちに、それはやってきた。
 息堰切って、寝巻き姿のまま飛び込んできたのは、上司であり、腐れ縁の親友でもある男。
 今にも泣きそうな彼の顔に妙な既視感を覚え、同時に不安を覚えてしまう。
 それでも、相手に不安を悟られまいと、彼は極力いつもどおりの態度をとった。

「夜中に、いきなり、寝間着のまま。いったいなんなんだお前は」

 少し怒った口調で。呆れた顔をして。
 胸元から懐中時計を取り出して、蓋を開き、文字盤を確認すれば時間は日付を変更して久しいくらい。
 もう少しすれば、夜明けが来るだろう。

「俺がたまった仕事を……というよりお前がためた仕事をかたづけていなかったらたたき起こしてたのかお前は」

「…ん。ごめん」

 文句を言ってやれば、返ってきたのは弱々しい声。
 相当参っているようだ。
 いや、まぁ、寝巻きのまま来ている時点で相当なのだが。
 微かに震える肩。
 いつも、活き活きと無邪気に笑っている姿は何処にも無い。
 まるで、迷子の子供のような姿に、怒りにも似た感情を覚える。

 それは、弱々しい姿を見せる友に対してなのか。
 滅多なことでは傷つかない友をここまで脅えさせた【何か】に対してなのか。
 傷ついた友一つ安心させられない自分に対してなのか。

 とりあえず、ここでいつまでも立たせている訳にはいかない。

「入れ。風邪でもひかれたら本当に仕事が修羅場になる」

 ジュレクティオは、コンスタンスを手招いて席を立つ。
 そして、暖かなハーブティを淹れてカップを手渡した。

 細い指に目が行く。
 この指が、ナイフのように。

 一瞬脳裏に浮かんだ情景を、かき消すように瞼を閉じて追い払う。
 夢だ。悪い夢。

 鼻を鳴らしてしょげたまま、それでも少しずつカップに口をつける友の姿に安堵して、ジュレクティオは仕事に戻る。

 静かな夜。
 響くのは書類に走らせるペンの音と、友の啜り泣きの音。
 それでも、先程のような不安は消えていた。
 友の息遣いが聞こえているからだろうか。
 そんなことを考えていると、不意に空気が動いた。

「レッティは……レッティは、僕が悪魔だったらさ」

 『僕 が 悪 魔 だ っ た ら』

 その一言に、胸に震えが走る。
 ジュレクティオはその震えを無理矢理飲み込んで、言葉を吐き捨てる。

「お前は人間だろう」
「うん、うんそうなんだけど」

 だが、彼の心を知ってか知らずか、コンスタンスはそのまま言葉を続ける。

「レッティは僕がもし悪魔だったらさ。殺す?
 僕が僕なんだけど…とても、そう…とても…心から悪魔だったら…。」
「意味がわからないな」

 脳裏を過ぎるのは、あの夢。
 だが、それを目の前の友は知らないはずだ。

 知らない、筈なのだ。

「悪魔になる夢でもみたか? お前は悪魔になる予定でもあるのか」
「ないよ。プラリネは大好きだけど、魂をあげてもいいけど、僕が悪魔になったらレッティ怒るでしょ?」
「怒るってお前な……」

 だが、確かに、怒らないとはいえない。
 あの夢の通りなら。俺は、殺意さえ覚えていたから。
 だが、怒るとか怒らないとか、それ以前の問題だ。

「まぁ、それはこの際もういい」

 ジュレクティオは、友の顔を見る。
 弱々しいその姿は幼い子供そのままで、見ている方が痛々しい。

「……はっきり言っておくが、俺は、お前が悪魔になる前に何が何でもとめてやる」

 はっきりと口に出せば、闇色の瞳がジュレクティオを映した。
 憎しみでも殺意でもなく、慈しみを含んだ呆れと怒りに彩られた、『人間』を映す夜空色の瞳。
 それに、酷く安堵を感じた。

「この書類の山を置いて逃げさせるものか。だからお前も何かあったら即言え。隠すことなく。だいたいお前が悪魔?笑わせるな。いつも面倒だの辛いだの言っている奴が飢えと地獄の業火に焼かれる苦しみを味わうという悪魔になれるとは思えないな」

 そうだ。かつて自分が経験した、翼を切られるあの堕天の痛みにすら、この友は耐えられないかもしれない。
 その上更に苦しいといわれる悪魔の飢えに、彼が耐えられるとは思えない。

 そんな苦しみを、味あわせたくは無い。

「……そっか」

 納得した友の呟きは軽く。

「そうだ」

 返すジュレクティオの言葉も、いつも通りの軽さで。

「レッティは僕が大好きなんだね?」

 続いた言葉は更にいつもどおり過ぎて、一瞬頭がついていかなかった。

「どうしてそういう話になった!」
「告白かと思ったよ、うれしいなあ。」
「聞け!話を!というかもう帰れ!!」

 ジュレクティオが叫ぶと、友は笑った。
 いつものように、楽しそうに。
 だが、どこか寂しそうに。

 そうだ。いつまでもここに、こいつを置いておくわけにはいかない。
 夜明けは、もう、直ぐそこまで来ているのだから。
 準備が出来ている自分と違って、彼はまだ、準備のじの字も出来ていない。

「行くよ。プラリネも待ってるし」
「悪魔相手に惚気るな」
「ふふっ」

 部屋を後にする友の背。
 それを見ていたジュレクティオは、咽喉元まで出た、らしくない言葉を無理矢理飲み込む。

 『愛してる』なんて、自分らしくも無い。

「じゃぁね、おやすみ、レッティ」
「あぁ。じゃぁな」

 扉の向こうに消える友を見送り、ジュレクティオは窓の外を見る。

 少しずつ明るくなる空。
 夜明けは近い。



 たとえ友が堕ちたとしても。
 最期まで、心は人間らしくありたい。

 神を憎むかもしれない。
 悪魔を殺したいと、滅ぼしたいと願うかもしれない。

 それでも、『人間』でありたい。
 悪魔でも、天使でもなく。

 迷いもある。躊躇いもある。
 それが命取りになるかもしれない。

 それでもいい。

 何度だって、生まれ変わるたびに見つけてやろう。
 広い空を渡り、友の所まで巡り行く。
 『人間』ならば、それもできるだろう。

 唯一無二の『友』の、『友』として。
 彼を、救うために、刃を振るおう。


 ジュレクティオは、眩しい日の光に、そっと瞼を伏せた。



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