= 3 =
 ふと、頬に冷たい物が触れる。
 瞼を開ければ、周囲に灯る外灯に照らされ、白いものが空から降りてきていた。
 ふわりふわりと、冷たい風に煽られながら。
 まるで、羽毛のように、軽やかに、美しく。
「……確かに、美しい光景だね」

 君が言った通りだったよ、アイゼイヤ。

 手に触れれば、途端に解けて消えてしまう雪。
 手に触れた瞬間、淡く消えてしまう、白い光。
 彼の最期を思わせるほどに、儚く、美しい。

 ユーデクスは、再び頭上を見上げる。
 氷の結晶は、黒い雲の隙間から絶え間なく地上へと落ちてくる。
 降り始めだからだろう。まだ勢いも量も少ないそれは、酷く幻想的で美しい。
 そして、とても寂しい。

 それが白ければ白いほど、失った時への憧憬が胸を埋めていくようで。

「くしゅんっ」

「……っ?」
 突然聞こえた覚えのある声に、ユーデクスは驚いて振り返る。
 そこに立っていたのは、見知った『光』。
「ホーリィ?」
 気配を隠して立っていたのか。何故?
 ユーデクスは、居心地が悪そうに視線を逸らして立つ若い天使の姿に何やら事情を感じ、穏やかに微笑んでそっと歩み寄った。
 天界に居る時と同じ、薄手の白い衣装のまま、翼だけを仕舞って実体化する彼は、微かに震えていて。ユーデクスは僅かに眉を顰めると、肩に掛けたショールを外し、その肩にふわりと羽織らせた。
「そんな姿では風邪を引く。いつからそこに居たのかい? 声を掛けてくれれば良かったのに」
 案の定、触れた頬は酷く冷たく、まるで氷のようだ。
 ショールの温もりにホッと我に返ったらしいホーリィは、白金色の瞳を泳がせながら口を開く。
「……すみません。何だか、物思いに耽っていらっしゃった、ようで……邪魔をしたら申し訳ないと、思いましたので……」
 返ってきた硬い敬語が心の距離を感じさせて、ユーデクスの胸に酷く重いものを齎す。
 彼はすっと目を細めると、不安定に揺れる白金色の瞳と同じ色の柔らかで冷えた髪にそっと唇を寄せ、低い声で優しく囁いた。
「ホーリィ。今は、誰も居ないよ」
 本当は、誰に見られたっていいのだけれど。
 この真面目な天使は、そうでも言って納得させなければ、きっと距離を縮めてはくれないだろうから。
「……でも……」
 予想通りの戸惑う気配。可哀想だが、ユーデクスも此処で引くつもりはない。
 特に今は。その声に、存在に、『自分』の名を呼んで欲しいと切に思ったから。
「ホーリィ」
 もう一度、ハッキリと名前を呼べば、観念したように肩の力が抜けた。同時に、暖かなショールに包まれた肩から発せられる雰囲気も柔らかいものに変わる。
 それに満足して身を離せば、困ったような、呆れたような微笑が目の前にあって。
「貴方には負けるよ、ユーデクス」
「ふふ、ありがとう」
 返された礼に肩を竦めて、ホーリィは雪の降り注ぐ夜空を見上げる。
 ユーデクスも、同じように空を見上げた。
 先程より少しだけ降雪の増した空。今夜は吹雪くかもしれない。
「……アイゼイヤ様……」
「……!」
 思いも寄らない名前に、ユーデクスは驚いて傍らの友の顔を凝視する。
 確かに、数度零したことはあるかもしれない。だが、きちんと教えた覚えはないし、彼自身の口から聞いた事もない。
 そんな彼の心情を知ってかしらずか、ホーリィは目線を合わせ、真剣な顔を向けてきた。
「友の事を、思い出していたのか?」
 何かの覚悟を感じさせるような、その真っ直ぐな眼差しに、ユーデクスは一瞬言葉を失う。
 いつかは聞かれるだろうと思っていた。が、まさか今、とは。
 とはいえ、いつまでも黙っているわけにはいかない。
「……そう、だね」
 肯定すれば、ホーリィは苦しげな表情で視線を逸らしてしまう。
「アイゼイヤの事を、聞いたのかい?」
 誰から、とは聞かなくても予想がつく。そして、その内容も。
 正確なところはわからないが、恐らく、酷く歪んだ見方で……この繊細な若い心が最も傷つく方法で、伝えられたに違いない。
「……非常に優秀な智天使でいらっしゃった事と……貴方が最も心を許した方だったという事は」
「あと、『私を残して』天界を去った、と?」
「………………はい」
 彼に対してそんな言い方をするのは、あの天使しか居ない。
 役目に忠実で、私を古くから慕ってくれている部下。非常に優秀だが、どうにもホーリィのことを快く思っていないようで、顔を合わせるたびに辛辣な言葉を吐いているようだ。
 あまり口を出して若い友の立場が悪くなると申し訳ないと傍観していたのだが、これは少し灸を据えた方が良いかもしれない。
「……少し、話そうか」
「え?」
「知りたいかい? 彼の……アイゼイヤの事を」
 予想外だったのだろう。ユーデクスの提案に、ホーリィはあからさまに戸惑う表情を見せる。
 知りたい。だが、知るのが怖い。そんな表情。
 覚えてはいない筈だが、もしかしたら魂の何処かで認知しているのかもしれない。
「全てを知るには、君はまだ若すぎる。けれど、私が知っている、『友』としての彼の事ならば、語ることは出来るよ」
 そう言って微笑み、ユーデクスは手を差し出す。
 長い沈黙の後、ホーリィは静かにその手を取った。



<< back || Story || next >>