lucis lacrima - 3-12
上の空だった。
神官長の言葉に、決まり通りの言葉を返すのが精一杯なくらいに。取り巻きの神官たちの嫌味や侮蔑の視線すら気にならないくらいに。
クロエは、完全にその意識を、先程あった片割れの護衛に奪われていた。
ハクビと同じく、完璧な礼儀作法をもって退室し、フードを無意識に被りなおして、ハクビの部屋へと足を踏み出す。
機械的に足を動かしながら、思考は5年前のとある深夜の村に引かれていた。
成人男性など殆ど居ない、小さな村だった。
それでも、昼間は小さいながらも活気の有る市場が出ていて、村の人たちは親切で明るかった。
偵察なんて、行かなければ良かったと思った。ルグスの誘いに付いて行った自分に、酷く後悔したのを覚えている。
綺麗な月の出ている夜空を完全に闇で覆い隠して、クロエは今までに無く、無暗矢鱈と闇を操った。
悲鳴を上げて逃げ惑う女性や子供、老人達。今でも、その声や姿は鼓膜や目に焼きついている。
勇敢に向かってくる老人もいた。子供を必至に守ろうとする母親も居た。
けれど、自分の呼び出した闇は、自分の目の前で彼らを容赦なく貪り、霧散させた。
一瞬で、跡形も無く消える。自分以外の生き物が、すべて。
気が付いた時には、自分以外の生命の息吹はすべて消えうせていた。人間も、馬も、家畜も、鳥も、虫も、植物でさえ、全て。
死んでしまった、村だった場所。
暫く、動けなかった。自分の持つ力が怖かった。
その静けさと絶望に打ちひしがれながら、市場の出ていた広場で呆然と立ち尽くしている時、男に会った。
琥珀色の宝石のように綺麗な瞳と、月のように淡い色の髪。がたいの良さに比べて、随分綺麗な色を持っていると思った。
着ている軍服で、敵兵だと直ぐに知れた。村を走り回ったのだろう。震えて、息を切らして、地面に膝を付いていた。
彼は、クロエを見て、ただ怯えているように見えた。それはそうだろう。闇を背負い平然と立つ人間など、この世に自分くらいしかいない。
絶望した男の瞳に、自分は呟いた。
行け、と。逃げろ、と。……村は、もう死んでしまったのだと。
その言葉にハッとした男は、脱兎のごとく、その場を走り去って行った。
そうして、自分は男が走り去った事を確認して、村を完全に闇に沈めた。
ハクビの部屋の前で足を止め、クロエは言葉なくドアノブを見つめた。
多分、あの男は復讐に来たに違いない。どのような手段で神宮に紛れ込んだのかは知らないが、間違いなく、あの男の狙いは自分だ。
あの殺気に満ちた目が、そう確信させる。
復讐心に駆られる人間は、何をしでかすか分からない。人間の激情ほど、怖いものは無い。
クロエは眉を寄せる。
ハクビに、手を出されないだろうか。大切な、彼の唯一の肉親。誰よりも綺麗で、神聖な絶対不可侵の存在。
面白いと、彼は言っていた。だから、護衛にするのを認めたのだと。
その思いを裏切らず、かつあの男にハクビを傷つけさせない方法は無いだろうか。
自分はどうでもいい。殺されてしかるべき命だ。いや、ここでいっそ終わらせてくれた方が、これ以上罪を重ねなくてすむ。
けれど、自分の血を分けた兄弟だけは、どうしても守りたかった。
真っ白な扉を見上げる。神官長の部屋のものよりはるかに小さなそれは、しかし強大な鋼鉄の壁に、今のクロエには思えた。
ふらりと、視界が歪む。駄目だ。これ以上考えても、今の自分では碌な考えが浮かばない。光に満ち溢れた世界は、クロエの身体に厳しい。
夜にならないと。闇が世界を支配しないと。
溜息を付いて、クロエは扉に手を掛ける。
体重をかけて漸く、その扉はゆっくりと開いた。
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