lucis lacrima - 5-2

 昼休憩を挟んで、一日中ルグスを相手に剣術の訓練を行ったクロエは、湯殿で汗を軽く流した後、神宮に足を向けていた。

 呼ばれたわけでもなく、特にこれといった用事は無かったが、慌しい軍舎にいつ呼び出しが掛かるかわからない状況を感じ取り、大切な片割れと会えるうちに会っておこうと思ったのだ。

 実際、今夜は自室で待機するように命じられている。

 クロエの体質を知っている上層部は、日が出ているうちは無闇に出陣を言い渡したりしない。それが判っているから、彼はこうして夕暮れ時の食事前に、足早に白亜の壁が眩しい通路を歩いていた。

「……と、……すみません」

 フードを目深に被って俯きがちに歩いていたクロエは、曲がり角で大柄な人影にぶつかる。

 神宮に勤める護衛かと謝罪しつつ顔を上げれば、そこには見知った同僚が立っていて驚いた。

 赤い髪が夕日に照らされて炎のように鮮やかで目を引く。その緩やかな曲線に意識を奪われ、暫しクロエは呆然と立ちすくむ。

「……クロエ?」

 声を掛けられ、ハッと我に返った彼は、男に……シラナギに視線を合わせた。だが、無表情だが穏やかな闇色の眼差しが自身を映すのを見て、何となく居たたまれなくなってすぐに目を逸らす。

 その瞬間、眼差しに僅かな影が走る事も知らずに。

「……珍しいね……昨日の報告?」

「いや。負傷者の様子を見に来ていた」

「そっか……アンタは、大丈夫だったのか? 怪我……したって、聞いたけど」

「あぁ。大したことない」

 短い返事。言葉通り、特にいつもと変わらない様子に、クロエは無意識に安堵して、改めて男を見上げた。

 そして、フードの下で珍しく笑みを浮かべる。

「気をつけないと。アンタが負傷したら、士気に関わる」

「買いかぶり過ぎだ」

 冗談交じりに言えば、静かな言葉が返ってくる。そのやり取りになんだかホッとしていると、暖かい指がフードの隙間を縫って、クロエの頬に触れた。

「……?」

「身体は、大丈夫か?」

「……今更」

 優しい言葉に、堪えきれず自嘲の笑みが零れる。今更だ。こんな身体の痛みなど。

 気遣ってもらうほどの事ではない。気遣って貰いたくは無い。

「今日は『召集』も無いみたいだし、ゆっくり休める」

 できるだけ明るく、軍で最年少の隊長はそう口にする。そんな彼を、男はどう思っただろうか。

「何事もなければな」

 しかし、シラナギは特に突っ込む事も、ふざける事も無く、静かに言葉を紡いだ。多分、精一杯の冗談で。

 そんな不器用さに自然と笑みを零しながら、クロエは頷いた。

「お互いに」

 見上げた闇色の瞳はやはり穏やかな色を湛えていたが、今度は逸らすことなく見返すことが出来る。

 何となく、それが嬉しく気恥ずかしく、クロエはじゃぁ、と言葉を残してその場を後にした。

 自分が今来た道を進んでいく、自分とは違う男の緩やかな足音に、何となく耳を傾けながら。


  
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