lucis lacrima - 6-3
何度も通い詰めた扉を前に、クロエは悩んでいた。
出兵から戻ってきたと聞いて、思わず飛んできてしまったが、シラナギもゆっくり一人で落ち着きたいのではないかと考えたのだ。
もしかしたら、神宮に報告に行っているかもしれない。
背後を、兵が通り過ぎる。シラナギの部屋を前に動かないクロエを、訝しげに見やって。
「…………ッ」
居た堪れなくなり、迷惑そうだったら帰ろうと心に決めて扉を叩いた。
暫し待てど、返事は無い。
やはり留守か、と、落胆と同時に安堵も覚えつつ、出直そうとクロエが踵を返しかけた時。
部屋から微かなうめき声が聞こえた。唸るような、苦悩するような声。
嫌な予感がクロエの脳裏を過ぎる。
まさか、怪我でも負ったのだろうか。
以前の出兵で、シラナギが治療を拒否した事を思い出す。
あの時は軽傷だったようだが、もし今回も同じように拒否していたら? それに毒を武器に塗られていたら?
自分の想像にぞっとして、クロエは再度扉を叩いて、返事を待たずにゆっくりと扉を開けた。
「……シラナギ?」
問いかけながら、部屋を見渡す。うめき声を辿ると、陽の落ちかけた薄暗い部屋の隅に大きな黒い影を見つける。
片手でもう一方の腕を押さえ、何かを堪えるように震えている。その表情は、豊かな赤い髪に隠れて見えない。
「大丈夫か?」
とりあえず、誰にも見られたくないのではないかと気を配り、扉をしっかりと閉めて影に近づく。
こちらに気付いていないような雰囲気の彼を驚かせないよう、そっと手を伸ばして腕に触れる。
「……ッ」
深紅の滝の隙間から見えた目に、ゾッと背筋に悪寒を覚えた。
恐怖。
そう認識する前に、逞しい腕がクロエの手を振り払い、その喉を掴む。
「か、は……ッ」
低い唸り声。容赦のない締め付け。
クロエの細い首など、シラナギの鍛えられた体を前にしては、片手で簡単に締め上げられてしまう。
正面からクロエを見据える黒い闇色の瞳。それは、獲物を前にした捕食者の目だった。
舌なめずりをしそうなほど、楽しげで、残虐な。
クロエは腕を伸ばし、己を締め付ける手に華奢な手を宛がう。
だが、その手には力が入らず、ただ支援するように添えられるだけ。抵抗には何の意味もなさない。
「……し、ら……な、ぎ……」
声にならない声が呟く。
完全に正気を失った男は、さらにその手に力を込め、クロエの気道を塞いでいく。
ミシミシと嫌な軋むような音が遠く耳の奥で響き、視界が赤く染まり、世界が色を変えていく。赤く、赤く。
世界が、赤い。
そう思った瞬間、クロエの体から力が抜けた。
視界を染めた赤が、自分が今まで流してきた血の赤に思えた。
己の罪を突きつけられて、生きるための抵抗をする自分が浅ましく思えた。
そう、自分は死を望んでいたはずだ。
この男の手で、この逞しい腕で。
終わることが出来たらと、何度願った事か。
そうだ、今この時こそ、自分が望んだ瞬間ではないか。
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