lucis lacrima - 6-4
「……、……」
声にならない声で、謝罪を呟く。
それは、最愛の片割れに向けたものか、それとも、目の前の正気を失った男に向けたものか。
クロエの黒い瞳が、優しい色に変わり、静かに瞼が閉じられる。
完全に力を失った体に、漸くシラナギの中の獣が落ち着きを取り戻した。
まるで、獲物を屠って満足したかのように。
「……ッ」
正気に戻った男は、腕の中の細い首に驚いて手を離す。
途端、クロエの体は崩れ落ち、思い切り床に打ちつけられた痛みで意識を取り戻した。
激しく咳き込み、肺に酸素を送り込む。急激に脳に血が巡り、生理的な涙で滲んだ視界がモノクロからゆっくりと色を取り戻す。
痛む体を何とか仰向けに動かし、見上げた先、見慣れた大きな男は、愕然とした、絶望に彩られた表情で彼を見下ろしていた。
「……シ、ラ、ナギ」
そんな表情が何故か可笑しくて、妙に安堵を覚えて、床に倒れたクロエは笑顔を浮かべると、かすれた声で名前を呼び、その手を男に向けて伸ばす。
だが、男は動かない。ただ、己が直前に屠ろうとした青年をただ怯えて見下ろすだけで。
「シラナギ」
もう一度、声を張って呼んだ。
痛々しい、だがしっかりした声は、男を我に返らせ、今度こそしっかりと手を握り返された。
震える手でゆっくりと抱き起こされ、クロエはその腕に身を預ける。今しがた、己を殺そうとした腕に。
自分は、恐怖を覚えてはいないと知らしめるように、抱き起こしベッドに運ぶ腕に、胸に身を委ねた。
「……すまない」
小さな呟きが落ちる。
決して目をあわせようとしない男に、しかしクロエは穏やかな笑みで首を左右に振った。
「大丈夫、だから」
離れていく腕に、力の入らぬ手を添えて引きとめる。
クロエは気付いていた。シラナギの狂気が、増強術の副作用だという事に。何度か同様の症状を起こした兵を見たことがある。
常に前線で戦い続けていた男だ。増強術の施術回数も多いだろうし、今まで正気を保っていた事の方が不思議なのではないだろうか。
「大丈夫」
もう一度、繰り返した。
怯えた表情を見せる、自分よりも二周り以上大きな体躯の男に、笑った。
「……怖くないのか」
「怖いよ……すごく」
素直な青年の返事に、シラナギの表情がさらに曇る。
だが、クロエは腕に添えた手に僅かな力を込めて、言葉を続ける。
「俺が……反撃しないか、怖い」
「……反撃?」
「アンタを、殺してしまわないか、怖い」
正直、それほど本気で考えていたわけではない。
だが、口に出した瞬間、それは妙に真実味を帯びて、クロエの胸に冷たい風が吹いたように震え上がった。
そう、一歩間違えば、自分は闇を操り、目の前の男を霧散させていたかもしれないのだ。
己の想像に悲痛な面持ちで口を閉ざしたクロエを前に、シラナギも同様の表情で口を開く。
「俺は、自分が怖い。何れ、狂気に飲まれて何をするかわからない」
「俺も、一緒だよ。一緒、なんだ」
自嘲にも、泣き笑いにも見える切ない笑みを零し、クロエが呟く。
同胞を迎え入れるように、両手を広げて。
似たもの同士か、と同じような笑みを返して呟きながら、シラナギはその腕に体を沈めた。
いつの間にか闇が舞い降りた部屋で、二人は似たような恐怖に怯えて身を寄せ合う。
二人で居れば、狂気は振り払える……そんな幻想を抱きながら、互いの温もりに溺れた。
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