lucis lacrima - 8-11
別に、死にたいわけじゃない。
冷たくなった男の肩に顔を埋めたまま、ハクビは思う。
だが、此処から逃げるという選択肢はとうに見失っていて、どうしたらよいのか分からないのも事実だった。
身動ぎ一つせず、ただ、じっと沈黙の中で二人きりの時間を過ごす。
「…………」
最初に沈黙を破ったのは、一人の反乱兵だった。
音を立てて開かれた扉に、ハクビは身を起こして振り返る。
髪を撫でていたフェイの手が力なく床へと落ちていくが、もう一方の握り締めた手は、そのまま離せず握り続けた。
多分、扉を開けたのが片割れならば、……せめて、王国軍であったならば、青年はこの手を離して片割れの元へ戻ったかもしれない。
だが、現れたのは、反乱軍。
まだ年若い侵入者は、命からがら逃げてきたらしい。息も荒く、興奮していた。
そして彼は、事切れた自軍の中隊長の傍らに立つ青年を見た瞬間、動転しながら殺意の篭った眼差しを向けた。
「う、うあぁぁぁ!」
がむしゃらに、手にした剣でハクビに向けて突進してくる。
彼は避けなかった。
ただ、既に傷ついた愛しい男を庇うように、切っ先の正面へと胸を晒した。
剣が体に触れた瞬間、強く、強く、男の手を握る。
のめり込んだ剣は、細い青年の体を貫通した。
剣先から垂れた赤い雫が、既に出来上がっていた床の赤い水溜りを少しずつ、更に広げていく。
突き飛ばされるまま、ハクビは背中から倒れ、庇った男の胸に背を預けるように凭れかかった。
熱い。胸が、とても熱い。
痛いというよりも、ただ、熱かった。
体の奥に生まれた熱に、ハクビは意識を向ける。
黒い塊を仕舞いこんだ、胸の奥の扉を壊されたような気がする。
ドクドクと脈打つ塊が、ハクビに訴えかけるような気がして、彼は薄く笑った。
あぁ、そうだ。
還るがいい。片割れの元に。
分かれてしまった力を、二つに戻すのだ。
ハクビは、空いた手で血塗れた己の胸に触れる。
壊れた扉を開いて、黒い塊を現世へ導く。
今は遠い、片割れの元へ届くように、強く彼を思い浮かべた。
大切な、たった一人の、もう一人の自分へ贈る、最期の贈り物。形見だ。
「…………」
暴走するだろうか。
一瞬そんな事が頭を過ぎるが、もう、かまわなかった。
暴走したっていい。壊れたって構わない。
ただ、笑って欲しいと願った。
自分の事を忘れてしまっても、構わないから。
クロエには、生きて、笑っていて欲しかった。
別に、死にたかったわけじゃない。
ただ、選んだだけ。
片割れでもない、生きる事でもない、この男を選んだだけ。
ハクビは、重くなる瞼を閉じると、未だ男の手を握りしめたままの手に力を込める。
もう、男の手が冷たいとは思わなかった。
「……フェイ……俺も……お前を、……あいしてる……」
最期だというのに、何と安っぽい言葉だろう。
だが、心は穏やかだった。
漸く正直に伝えられた想いに満足しながら、ハクビは静かに意識を闇に沈めた。
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