lucis lacrima - 8-13
走れば走るほど、気分が高揚する。
そして、走れば走るほど、頭の中の警告が大きくなって、まるで頭痛を起こしているような気分になる。
頭が痛い。この先に行くのが、怖い。なのに、嬉しくて、楽しい。
クロエは相反する二つの感情に振り回されながら、それでも足を止めることなく走り続ける。
やがてたどり着いた、一つの小さな扉。
廊下の中で、ひっそりと作られたそれは、まるで彼を迎え入れるかのように大きく開いていた。
周囲には誰も居ない。
それを確認しながら慎重に歩調を緩めて、扉に近づく。
足元の床には、転々と血が落ちている。
誰の血だろうか。見るだけでは、当然、判断がつかない。
しかし、何故こんな場所に?
青年は、この先に片割れが居る事を疑っていなかった。それは、己の中の彼と相反する、つがいの力が証明している。
だが、捕らわれの神官であるはずの彼が、此処に来る理由が見当たらない。
扉の向こうが少しづつ明らかになってゆく。
乱雑に置かれた長い棒……箒だろうか。そして、バケツや大きな布……どうやら、道具部屋のようだ。
そして、一人の人影。
求めた片割れではない。服は、反乱兵のものだ。後姿は、若い。
そして、その反乱兵が見下ろす先に見えたものを見て、クロエは足を止める。
折り重なった人影。
一人は、大柄な男。もう一人は……自分。
否。
「……ハクビ……?」
瞼を閉じて、ピクリとも動かない、もう一人の自分。
「……!!」
反乱兵が乱入者に気付き、扉を振り返る。
折り重なった二人の人影が、良く視界に入るようになった。
壁に凭れるように座った見知った反乱軍の兵士と、それに背を預けるように座る自分と同じ顔をした青年。
反乱兵の上着だけを羽織ったその胸には、深々と一本の剣が生えていた。
そして、二人の座る床には、赤い、赤い、鮮やかな色をした水溜り。
「……クソッ」
若い反乱兵が、胸に刺さったままの剣に手を伸ばす。
穢される。
そう思った瞬間、闇が触手を伸ばした。
クロエの足元から伸びたそれは、男の手を掴み、飲み込み、全身を捕らえて喰らう。
瞬きするほどの間に、若い兵は跡形も無く闇へと消えた。
呼吸の無い無音の部屋に、闇を纏う青年は足を踏み入れる。
水溜りを踏む足から、濡れた音が響く。
片割れの傍らに腰を落としたクロエは、その頬にそっと指先を伸ばした。
暖かい。
まるで、眠っているのではないかと思うくらい、その頬は僅かな温もりを持っている。
だが、その纏う空気は冷たく、生気はとうに消えうせていた。
それでも、片割れが消えるなど信じられなくて、信じたくなくて、その体に腕を回して抱き寄せた。
細くて、軽い。少し、痩せたのだろうか。たった数日の間に。
「……?」
伝わる、微かな抵抗。
剣が支えたわけではない。視線を華奢な体の向こうへ向ければ、後ろに伸びた腕の先、白い手が、同じく白いものを掴んでいる。
「……そっか……」
それが何であるか認識し、クロエは穏やかに笑って片割れの顔を見た。
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