lucis lacrima - 8-5

「…………」

 一度だけなら、大丈夫だろうか。

 ハクビは逡巡した後、静かに意識を自身の奥へと集中させた。

 揺れ動く体に集中も途切れかけるが、必至に意識を繋ぐ。



 奥の奥、閉ざされた心の扉を開く。

 そこにあるのは、黒い塊。

 光を呼び出す為の、餌。



 人々に力を与える術の源は、こんな黒くドロドロした闇の塊なのだ。

 ハクビは黒い塊に意識の端で触れ、嫌がるそれを現世へと引きずり出す。



 これに触れるたび、いつも思う。

 片割れの……クロエの塊は、白く輝いているのだろうか、と。



 目を開ければ、術は完成していた。

 抱えられた神官の周囲に取り巻き、光り輝く増強術。

 人間の身体能力を高め、精神を高揚させる光。

 そして、今、その光の帯は術者の意識に操られ、彼を抱える男へと向けられていた。

 突然軽くなった体に驚いたのだろう。フェイは兵の剣を跳ね飛ばし、抱える神官にチラリと視線を向ける。

 その顔にハクビは笑って頷いてやった。

 副作用は怖いが、一度くらいなら問題ないだろう。

 何より、この場を切り抜けなければ、先は無い。

 フェイはハクビの意図を読み取ったのか居ないのか、不敵に嗤うと動きを早め、防戦から一転、攻撃を始める。

 明らかに動きの変わった敵の動きに戸惑い、兵達の動きが鈍くなる。

 その隙に踏み込み、男の剣が下から上へ斜めに掬い上げるように、銀色の斬線を描いた。

 その線を追う様に赤い華が鮮やかに視界を彩る。

 グルリと踊るように一周した視界に、もう一つ赤い華が咲いた。

 残ったもう一人の兵の、胴と首の間に。

 既に増強術の光は消え、名残のようにハクビに軽い疲労感を残しているだけ。

 その疲れた頬に、細い手足に、錆びた匂いを放つ赤い雫が降り注ぐ。

 倒れ臥した兵には見向きもせず、男は弓兵とは別の方向へ走り出した。この場から逃げ出す為に。

 しかし、そう簡単には行くはずも無い。

「危ない!」

「……ッ、」

 背後から一呼吸遅れて飛んできた矢が、逃げる男の右足を直撃する。

 深く太ももに突き刺さるそれを眉を寄せる事でやり過ごし、彼は神官を抱える手に長剣を持ち直すと、空いた手で腰の短剣を引き抜き、振り向きざまに放つ。

 そして、結果も見ずに再び進行方向を向いて、走り出す。

 負傷したとは思えないほど軽やかに走るフェイの背で、ハクビは放たれたその短い刃が、弓兵の首にしっかりとのめり込むのを確認した。


  
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