lucis lacrima - 9-8

 青年の周囲で踊っていた闇が、勢いを増して膨れ上がる。

 その重圧に耐え切れなくなったのか、シラナギの背後に居た兵が、闇を操る青年にむけて剣を突き出し、走り出した。

「待て!」

 上司の制止など、届かない。

 悲鳴のような雄叫びを上げて駆け出した兵を追うように、もう一人も走り出す。

 恐怖に暴走する防衛本能は、ソレが敵わない相手だと認識するより先に、危険を消去する方に向いてしまったらしい。

 そこにいるのは、防衛本能に飲み込まれた、哀れな獣達だった。

 シラナギは彼らを止めようと足を踏み出すが、闇が鼻先を掠めて本能的に躊躇し、足を止めてしまう。

 絶望を感じながら向けた視線の先、青年がゆらりと動いた。

 技術も策略も無い。ただ走りこんでくるだけの兵の脇をすり抜け、一気にこちらに近づいてくる。

 青年の軌跡に赤い花が散り、闇に飲み込まれ、視界から……世界から消える。

 瞬きする程の間に、男の視界いっぱいに、黒い瞳が飛び込んでいた。

 黒く澄んだ瞳。その向こうで、動けない自分が立ちすくんでいる。赤い髪を揺らして。

 自分は、こんな髪の色をしていたのか。

 漆黒の中でも鮮やかに映る己の髪の色に、一瞬意識を奪われる。

 ふっと、その鏡のような瞳が揺れて、眼が笑った。

「シラナギ」

 笑顔で囁かれる、甘い、囁き。

 天使のような。悪魔のような。

 己の首筋に冷たい感触を覚えて視線をずらせば、赤く血塗られた長い剣が当てられていた。

 この青年はこんな武器を持っていただろうか、という思いが一瞬脳裏を過ぎる。

 しかし、それから滴る冷たくなった液体に妙な心地よさを覚えて、彼は己の内の獣が暴れだすのを恐れて余分な思考を遮断し、目の前の青年に意識を集中した。

「……アンタ、死にたがってたよね」

 目の前で囁かれる言葉。シラナギはただ、覗き込むような黒い瞳を真っ直ぐに見返す。

「…………」

 答えない男に、しかし青年は動かない。

 ただ、真っ直ぐに愛しい男を見つめる。



 今にも泣きそうな、緩やかな清流に沈めたような澄んだ瞳で。

 かつて、複数の男達の手で穢され、その救いを求めて縋り付いてきた時と同じ、切実な瞳で。



 シラナギは安堵したように瞼を閉じた。

 そうだ。

 約束したじゃないか。



 そう。

 救いを求めているのは、……自分だけじゃない。



 血塗られた深紅の髪を持つ男は、自分の剣の柄に手を添える。

「そうだな」

 長い長い沈黙を、短い返答で断ち切り、剣を引き抜くと、喉に添えられた刃をはじいた。

 反動に合わせて飛び退り、距離を取る青年。

 互いに剣を構え、対峙する。



 闇は、暴発する寸前で、酷く空気が重い。

 もし、この核であるこの青年が失われたら、どうなるか判らない。



 しかし、シラナギはそれ以上考える事をやめた。

 死んだ後のことなど、どうでも良い。

 大切なのは、目の前の青年を救うこと。

 そして、自分が救われること。



 笑みを交わした。

 愛しい青年と。

 剣を交わすとは思えないほど、穏やかな笑顔で。



 クロエが、動く。

 真っ直ぐに剣先を男に向けて、突っ込んでくる。



 シラナギが動く。

 剣先を青年に向けて、その思いを受け止める為に。



 そうして、闇と光が交錯する世界で、二つの影が重なった。


  
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