魔王と救世主 - 5-10

「……笑った」

 突然、目の前の男の顔が、そう言って破願した。それは、『幸せ』だと宣言した、あの子供の表情に良く似ていて。

「……嬉しい」

 それを見たセナの口から、素直に言葉が零れる。

 自分がほんの少し、笑みを見せただけで、この男がこんなにも喜んでくれる。

 しかし、言葉とは裏腹に、銀髪の青年の顔は直に曇ってしまう。

「だが、苦しいんだ」

 自分は、いつか、この男の笑顔を壊すのかと思うと。

 この喜びが、長く続くものではないのだと思うと。

「嬉しいはずなのに……悲しくて、苦しい」

 己の想像に、胸が潰れて涙が溢れる。

 それは、先ほど融かされた心の水が、胸の空間に収まりきらず溢れるように、後から後から青年の頬を濡らす。

 凍てついた心が融ければ融けるほど、感情が溢れて止まらなくなる。

 素直に笑いたい。なのに、現実はそれすら許してくれない。常に、彼の思考には救世主としての使命が付きまとう。

「それは、お前が幸せだからだ」

「……幸せ……だから……?」

「今が幸せだから、失うのが怖いんだろ?」

 俺も、同じだ。

 そう呟く目の前の青年の顔は、笑顔なのに何処か翳りが見える。

 溢れた涙を掬うように、頬に軽い口付けを落とした彼は、銀髪の青年の頭を抱えるように抱き締めた。

「子供と違って、俺達は失う怖さを知ってる。だから、素直に幸せを享受できない」

 優しい声と、心臓の鼓動が耳の奥に響いて溶ける。

 銀髪の青年は、その言葉一つ一つを逃すまいと、瞼を閉じて耳を澄ませた。

「けど、失うことばかり怖がっていたら、幸せも逃げちまうぞ」

「……ま……」

 銀髪の青年は、呼びなれた単語を口にしようとして、止める。

 戸惑いを示すように、勇気を奮い立たせるように、躊躇いがちに抱き締めてくる大切な青年の背中に腕を回し、服を握り締める。

 そして、今日改めて知った、男の名前を舌に乗せた。

「……セナ……」

 一瞬、震える太い腕。

 そして、痛いほどきつく、きつく、抱き締め直してくる腕。

「セナドールだ」

「…………?」

「セナドール・ミレスハント……俺の、人間だった頃の名前だ」

 搾り出すように、金髪の青年はそう教える。

 もう、200年以上使っていない……誰にも教えていない、当に忘れられた一人の人間の名前。

「セナ……ドール?」

「紛らわしいだろ、名前が一緒だと」

「……いいのか?」

 それを、自分が知ってしまっても。

 いつもとは違う男の声音に、銀髪の青年は尋常ではないものを感じてそう問いかける。

 事実、この村の者ですら、その名を知るものはいなかった。

「あぁ」

 村の人間には、愛称しか、教えていない。魔王である自分が、人間の名前を使うことに、抵抗を覚えるからだ。

 だが、この青年には知っていて欲しい。

 『魔王』ではない、『セナドール』としての自分を。

 金髪の青年は、妙に緊張する己の体を誤魔化すように、口端を上げた。

「お前に、知っていて欲しいんだ」

「……そうか」

 硬直した男の体を気遣うように、背中に回された華奢な指に力が篭る。

 ありがとう。金髪の青年の耳に、そんな囁きが聞こえた気がした。


  
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