魔王と救世主 - 7-9

 唐突に突き放され、華奢な体が床に座り込む。

 呆然と見上げたセナの顔に、ドロリと重い液体が降り注ぐ。

 決して、見慣れていないわけではない。魔物を倒した時に何度も浴びてきた。

 だが、大切な人のソレを浴びたのは、初めてだった。

「せな、どーる……?」

 震える問いかけに返事はない。

 ただ、光を失った赤い瞳が、力を失った体が、視界を横切って床へと墜ちていった。

「…………な、に……」

 そして、倒れたセナドールの代わりに目の前に立ったのは、金髪の青年。

 血のような赤い色を乗せた瞳は、狂気に似た喜びと邪気に満ちている。

 綺麗な金髪も、その肌も、赤く斑に彩られていて、良く知っている筈の顔に浮かぶ笑みは、自分が知る優しいものではなく。

 禍々しい、殺戮を楽しむ『魔王』の顔。

「もう、その人間は必要ない」

 魔王は、言う。

 愛する人の顔で、黒い剣を手にした魔王は、不気味なほど優しく囁く。

「漸く、体が手に入った」

 セナは、圧倒的な邪悪な気を放つ魔王を前に……愛する人の抜け殻を前に、震えて言葉が出ない。

 瞬きさえも忘れて、ただ、目の前に広がる悪夢を見つめることしか出来ない。

「そう。もう、魔王の中に、人間はいない」

 突然、背後で声が聞こえて、セナの肩が大きく揺れた。

 良く知った声。生まれてからずっと、聞き続けた……発し続けた声。

 そっと背後から手を取った声の主は、セナの華奢な手に、白い剣を握らせた。刃に目を落とせば、銀色の輝きが虹彩を焼く。

「これで、心置きなく、使命を果たせるだろう……?」

 優しく、子供に諭すように囁かれる言葉。

 ゆっくりと振り返れば、背後に立つ、自分と同じ顔をした救世主が、微笑んでいた。

 邪気のない、天使のような微笑みで、しっかりとセナに剣を握らせて。

「簡単だ。心臓を一突きすれば、全てが終わる」

 もう、失うものなどないのだから。

「……ぁ……」

 声が、漏れる。

 震える声が、ポロリと、零れ落ちた瞬間。

 意味を持たない、悲鳴が。

 声にならない、絶叫が。

 一人と、二本だけが存在する世界を切り裂くように、迸る。

 名前すら、呼べなかった。

 ただ、世界の中心を失った心が切り裂かれる激痛に耐え切れず、涙を、髪を、心の破片を散らせて叫んだ。


 何もないのだ。

 『彼』を失ってしまったら。

 もう、自分の世界には、何もない。


 剣を握れなくなったセナを、救世主は先程とは打って変わった、冷たい眼で見下ろす。

 蔑むような色を、その赤い瞳に乗せて、人形のような無表情で、口を開く。

「……君も、必要ない人間か」

 それは、確認ではなく、宣告に近い。

 白い剣を握った救世主は、泣き伏すセナに切っ先を向ける。

「魔王を倒せない人間など、必要ない」

 そう呟いて、彼はにっこりと微笑んだ。全てを安心させる顔で。

『体さえあれば、使命は果たせる』

 そうして、救世主は、主に向けて剣を振り上げた。


  
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