魔王と救世主 - 9-4

 魔王は、怒りのまま、その足を牢へと向けた。

 暗い、暗い、地下へと続く階段を、イライラとした足取りで下りて。

 その奥から聞こえた小さな呟きに一瞬安堵して、更に怒りが湧いた。

「……よかった」

 何が良かっただ。怒りに支配された感情が、胸のうちで喚く。

 勝手に自分の傍を離れて、その言い草はないだろうと。

 愛している……そう言った言葉は嘘だったのかと。

「良かった?」

「……お前が、無事で、良かった」

 押し殺した声で問えば、静かな声が返る。その声に滲む、隠しきれない幸福と安堵と共に。

 だが、身を案じるその言葉を聴いても、魔王の怒りは収まらなかった。

 不安なら、どうして傍にいなかったのか。レヴァの制止など、大したものではない。

 傍に……手の届く場所にいればよかったのだ。目が覚めて、一番に抱き締めてやれる場所に。

「俺は、お前を牢に入れろと命令した覚えは無い」

 責めるように言えば、セナは我に返ったように、その喜びの色すら無表情の仮面の下に押し殺してしまう。

 馴れ合うことを、拒否するように。何かに、怯えるように。

「……俺が、自分から来た」

 わざと怒らせるような言葉。氷のように冷たい、人形の顔。

 その下に、一体どれだけの感情が隠れているのか。

 折角近づいた距離が、一気に遠ざかったような錯覚を覚える。

 触れることさえ出来ない状況に、我慢が出来なくなった。

 そもそも、自分と救世主の間にある冷たい鉄の棒が既に邪魔なのだ。これがあるから、目の前にいるはずの相手に近づくことが出来ないのだ。

 魔王は、魔剣を抜き、闇の中で感情のままに振るう。

「救世主様!」

 上がる悲鳴のような野太い声に、そういえば救世主の仲間の勇者を捕らえていたな、と頭の隅で思い出す。

 だが、重い音を立てて解放された牢の向こう、微動だにしない救世主の人形のような無表情に再び怒りが燃え上がり、勇者どころではなくなった。

 魔王は、色のない救世主の顔を、胸倉を掴んで覗き込む。

 冷たい赤い瞳は、魔王を映しているのに、その視線の中に自分は入っていないようで、悲しくなる。

「俺の傍から、勝手に離れるな」

 悲しみを怒りの中に隠して低い声で唸ると、一瞬、救世主の瞳が揺れた。

 喜びと、悲しみと、不安と、絶望と、希望と……色々なものがない交ぜになった、泣きそうに歪んだ色で。

 直に視線を外されて、実際に泣いたかどうかはわからなかったが。……泣いていないのだろう。
 その強靭な自制心で、涙腺すら固く閉めてしまったに違いない。

「……俺は、救世主だ……お前に、命令される謂れは、無い」

 それでも、搾り出すように返された声は、掠れて震えていて。

 抑えきれない感情が、そこに滲み出ていて、魔王は更に悲しみが募る。

 救世主の言葉は正論だ。反論の余地など無い。

 だが、彼が聞きたいのは、救世主の言葉でなく、セナの言葉なのだ。

 使命に縛られない、ありのままの感情が知りたい、のに。

 閉ざされた心は、出会った頃のように硬く凍り付いて、冷たく魔王の心を刺す。

 決して此方を見ようとしないセナの華奢な腕を掴むと、傍らにある湿気った布団へと放り投げた。

 音を立てて倒れこむ体に、そのまま圧し掛かる。抵抗するように下でもがく腕を、足を、胴を、全身で押さえ込んだ。

「お前が、誰のものか、もう一度教えてやる」

 悲哀と絶望に歪む救世主の顔を見ながら、魔王はそう低い囁きを落とした。


  
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