魔族新法
外はだいぶ薄暗くなっていた。
学校にたどり着くと、そこには、朝の大喧噪はすでになく、ひともまばら、セックスもほとんど行われていなくなっていた。
自分の教室に向かう。女子はあまりおらず、男子や大人の男の姿が散見された。女の子に見つかってしまうところもあったが、彼女たちは僕に襲いかかっては来ないで、僕の横を通り過ぎていってしまうだけだった。
教室には、見知らぬ男女がすでに何人かいた。
小学生もいれば、中高生、大人も混じっている。男性の比率が高く、女性は2,3人くらいだ。しかし、彼女たちは誘惑してこないで、椅子に座っているか、壁により掛かって脚を投げ出して座っているばかりだった。
彼ら彼女らは、僕と同じように、精神的な疲れから回復しきれない人たちなのだった。勃起もするし、セックスをすれば強い快楽を得られる。彼らの肉体は回復している。だが、精神的に疲れていて、どうしてもでなければ、快感はお腹いっぱい、少し休みたい、そんな人たちばかりなのだ。
人が集まりやすい時間帯、場所では、相変わらず勃起と射精、気絶絶頂が続けられている。しかし、それ以外の時間帯、場所では、ひともまばらで、疲れた人たちが休みに来ているのだった。
ここならひとまずは安心だな。僕も、回復を待って、ここでじっと休んでいよう。
僕の席は空いていた。そこに座り、ランドセルに荷物を詰め込んでいく。今日は、この学校のどこかに泊まっても良さそうだ。そして、明日の明け方、女子たちが登校してくる前に、家に帰ればいいんだ。
ぼんやり考えていた。明日からどうしよう。朝はどこにいて、昼はどこにいればいいんだろう。女の子たちの集まりやすいところに出向いて、魔族に精を提供し続けるのがいいというのは分かる。でも、それも過剰になれば、こうして精神的に疲れてしまうんだ。
もし、しっかり精神的にも回復しているのなら、明け方食事をして、学校に戻り、少女たちを迎えるのがいいだろう。昼までそうして、夕方になったら、駅や電車に行って快楽に浸ろう。夜に自宅に戻って、そこでずっと少女たちと交わるんだ。
じゃあ、いつ寝るの? 途中で疲れてしまったらどうしよう? 食事のタイミングは?
精神的に疲れないようなタイミングで、少女たちと交わる一番いい方法って何だろう?
今の僕に必要なのはバランスだ。生活と快楽のバランスがとれなければいけない。どうやったらそれが上手にできるんだろう?
寝るのは学校がいいだろう。食事は、一日にどこかで一回とれば、十分栄養的に満足できるらしい。それも魔族のおかげだ。女性には睡眠は必要でないが(気絶時に眠れているから)、男性にはやはり睡眠が必要になる。
朝から晩までずっとエッチなことをし続けるわけにはいかない。どこかで、長い時間休息する必要がある。そのタイミングは……昼から夕方にかけてが良さそうだ。
朝にたくさん少女たちを相手にして、昼から夕方にかけてはどこかで休息。夜には自宅に戻り、訪れる大勢の女の子と交わる。そして夜中は学校で眠る。
心が慣れるまでは、そうしたことを続けていくのが一番良さそうだ。
月が出ている。赤い色をしていた。魔族によって、大気まで変えられてしまったのだろうか。僕はぼんやり月を眺めながら、明日以降のことに思いを馳せた。
「……君は、まともか?」
「!?」
急に、若い男に話しかけられた。20代も後半くらいの、しっかりとした大人の男性だ。彼も裸である。しかしその顔立ちはきりっとしていて、いかにもまじめそうな男性だった。
「君は、この法律をどう思う。……こんな年端も行かぬ少年なのに、セックスで疲れているなんて。まともじゃあない。この法律は、どこかがおかしいんだ。絶対に俺たちは、だまされているんだ。」
声は抑えているが、力強い響きがあった。
しかし僕は、この男性が何を言っているのか、あまり理解できなかった。
「おかしいとは思わないか。ある日突然、世の中の仕組みががらりと変わっちまった。働かず、勉強もせず、ただ性欲の限りを尽くす。人間らしい創意工夫や創造は、まったく悪魔に奪われてしまった。……しかも、ほとんどの男女が、そのことに気づきもせず、すんなりと受け入れてしまっているんだ。」
「あの……」
僕はついに、男性の言葉を遮った。
「僕には、この法律はおかしいとは思えません。」
見ず知らずの男相手なのに、自分でも不思議なくらいはっきりと、自分の意見をいうことができた。
「そうか……君も、完全に洗脳されているのか。いや……完全ではないよな。もし完全に魔族の支配下に入って洗脳されきっているなら、精神的に疲れることもないはずだから。」
「!」
急に、パパのことを思い出した。
パパは、完全に洗脳されている一人。だから、昼間は外でセックスの宴に参加し、夜も疲れることなく、家で女たちと交わっている。精神的に疲れることは、ない。
「あの……洗脳って、どういうことですか?」
「思い当たる節が、あるんじゃないか?」
「……。」
「法律が施行されてから、人間の考え方までもが、がらりと変わってしまった。いいか? 人間というのは、慣れの動物だ。今日から急にそうなりました、と言われて、ハイそうですかと、すぐにすべてを変えることは、基本的に無理があるんだ。少しずつ慣らしていって、わずかずつ適応していくのが、普通のことなんだ。それが……」
そう、それが、今日を境にして、みんなが変わってしまった。
「急激に変わったら、多くの場合、抵抗感が生まれる。ストレスを抱える。急激な変化には、ほとんどがついていかれない。考え方も、制度や仕組みも、少しずつじわじわ変えていかなければ、浸透も普及もしないんだ。それが、一瞬で人間の考えまでもが変わり果ててしまうなんて。」
それは……魔族が与える快楽のたまものではないか、と思えた。
「一瞬で人間の脳を支配したとしか思えない。まさに洗脳だ。悪魔の洗脳は、瞬時にして行われる。しかし、本来、洗脳だって、時間をかけてすり込んでいくものだ。それを瞬時に行えば、悪魔の力でそれも可能だろうけれども、人間の脳の構造をムリヤリねじ曲げることになる。人間に過剰な負担をかけているはずなんだ。……誰も気づかないだけで。」
僕は……僕たちは、無理に洗脳され、思考をねじ曲げられているのだろうか。
「俺が思うに、その負担は、”性欲の回復”、”肉体の回復”、この二つには影響しない。しかし、脳を無理にねじ曲げているから、”精神の回復”に時間がかかってしまう。どこかに無理がかかっているんだ。だから、洗脳されきっていない人間ほど、精神的に疲れてしまう。心の奥底のどこかで、何かがおかしいと警鐘を鳴らしているんだ。それが、理由の分からぬ疲労感だと思う。」
男性は、疲れた顔で、しかし何とか抵抗したいという思いで、僕に語りかけているのだった。
「でも……魔族は本来の人間の姿に、社会を戻してくださったんじゃないですか。」
僕は、本来は快感に忠実であるべきで、それが社会的にねじ曲げられているから少子化になってしまったこと、魔族がその状況をただして、本来の姿に戻してくれたのではないか、だから一瞬ででも、人間の考えを変えることができたのではないかと、自分の考えを男に伝えた。
「……それが洗脳なのだ。まったく間違っている。本来は……たしかに快楽に忠実だったかも知れない。そして、その結果人口が多くなりすぎて、食料その他に支障を来したかも知れない。でも、少子化の本当の原因は、社会の過渡期特有の現象であって、快楽の抑制を推し進めた結果ではないんだ。快楽の抑制は、人間が社会生活を正しく営むために必要だった。……極端なことも行われたが、要はほどよいバランスがとれればいい話だ。」
まだ、僕にはピンとこない。
「性行為がいつでもどこでも誰とでも行われるようになった場合、多くの女性はイヤな相手とのセックスを強いられ、イヤな相手の子を妊娠するだろう。それだけでも大混乱だ。だから自然は、望まぬ妊娠や性病という形で、奔放を抑制するような仕組みになっている。人間の社会は、その抑制の仕組みに従ったに過ぎない。」
それも……うなずけはする。だとすると、僕の考えは間違っているのだろうか。
「社会の過渡期特有の現象、ってなんです? 僕には難しすぎて……」
「これは独り言だが……」
男性は僕の方を向かずに話し始めた。
「人間の思考と、社会のシステムとにギャップが生じているということだ。一方では、人間の新しい時代の感覚に、制度が対応し切れていない状況が挙げられる。女性の結婚と、会社の仕組みがかみ合っていない。それは大勢が認めるところだ。でも、俺はもうひとつ、理由があると思っている。」
「理由ですか?」
「ああ。まったく反対のギャップだ。つまり……新しい時代の仕組みに、人間の感覚が対応しきれない、って部分もあるんじゃないかと思っている。女性たちが結婚をしたがらないのは、条件に合う男性がほとんどいないからだ。性格はもちろんだが、それだけでは、選ばれない。やっぱり社会的なステータスが必要になる。」
「……?」
「つまり、お金があって、若くなければいけない。だが、新しい時代になったとはいっても、やはり若者はカネがなく、お金がある程度貯まっているのは40代以上のオッサンだ。正社員で紆余曲折があってもまじめに働いている場合、やはり若者はそうそう貯蓄や月収があるわけではない。年齢と収入は、ある程度比例している。」
子供の僕にはさっぱり分からない話だ。
「しかし、若くて高収入、貯蓄がたくさんあるというのは、女性たちの願望であり、年齢と収入の比例には完全に反している。”そんなヤツいねーよ”って話だよな。しかも今の時代、非正規雇用が四割だ。若者のなかでも、大勢が正規雇用もできずにあえいでいる中で、若くて高収入はほとんどいない。お金が欲しいなら、年齢が高くても受け入れなければいけないが、俺みたいなオッサンは絶対に相手にされなかった。」
……この男性は、もともとかなりの歳の男性だったようだ。
「若くて高収入ってのはな、結局のところ、イイ大学に行って、イイ会社に入ってあるいは高級官僚にでもなって、はたまた成功率が非常に低い起業をして億万長者にでもなるか。……これは旧態依然とした、昭和の理想像にほかならない。末は博士か大臣か。そういう昔ながらの学歴と職業でなければ、結婚相手として見てはもらえない。女たちにいわせれば、周囲には若者がいるが、どいつもこいつもバイトや派遣ばっかりで、生活が心配。つきあう分にはいいけど、それ以上の相手にはできない。だけど今度は、経済的に安定する相手だと、ジイサンばっかりになる。そんな加齢臭を匂わせるオッサンは絶対イヤ! そんなところだろう。」
「?」
「とっくに新しい時代になっているのに、条件は昭和のままなんだ、女たちは。だから、若くてお金があるって条件にかなう相手もいないので、それだったら仕事に生きて、一人で生涯を暮らす方がいいって、そんな選択をし始めたんだ。だから、若い男は遊び相手。生活がかかるとなると、とたんに条件に合わなくなるんだ。ジジイは初めから論外。だからとりあえずは結婚しない。……それが、少子化、結婚難のもうひとつの姿なのさ。」
「……僕は……そうは思いません。全員が必ずそうなんでしょうか?」
なんだか奇妙な論理だ。でも、彼女たちのホンネをある程度言い表している気もする。この男性はもともと高年齢の独身者のようだった。その経験が、確固たる根拠になっていて、奇妙な説得力を持ってしまっていた。
「同年代の相手は、すでに結婚を済ませているか、さもなくば仕事に生きて男など相手にしない奴らばっかりだ。下の世代は老人など相手にしない。だから俺は……。この薬のおかげで若返ることはできた。」
それでも……なんだか偏ったような感覚を覚える。女性はそんなにも、現実を見ないものなのだろうか。もっと保守的で現実的な存在のはず。保守的……昭和のまま、か。でも現実を見ているんだったら、そこまでにはならないような気もする。
「若返ったはいいが、男も女もみんな洗脳されちまった。俺の夢は砕かれたまま、快楽だけを追求する連中ばかりになってしまった。寄り添う安らぎや、助け合う信頼など、みんなどこかに吹き飛んでしまった。それが俺は一番悔しい。」
「あの……。もしあなたの言う通りだったら、そんな女性たちは、結局条件に合う男性を見つけられずに、そのまま年を取ってしまって、年齢的にヤバイ状態になってから気づいたのではもう遅い、なんてことになるはずですよね。そうなる前に多くの人が気づくんじゃないですか?」
「愚かなのだ……みんな。洗脳前も洗脳後も。そんなことだから、魔族に脳をのっとられるんじゃあないか。げんに、この洗脳だって、ほとんどの男女が気づいちゃいない。」
愚かなのはあなたなのでは……と言おうと思ったが、黙っていた。
「今となっては、そんなことはどうでもいい。とにかく、法律の前と後では、人間は大きく変わってしまった。君に話しかけたのは、気づいて欲しかったからなんだ。自分が魔族の言いなりになっていることに。こじつけの論理で、魔族を自然と受け入れてしまっている異常さに! ……あとは自分でよく考えて欲しい。」
男性はその場を立ち去った。疲れの激しい者には話しかけないが、僕のようにある程度軽度な男に、彼は次々と洗脳のことを語りかけているようだった。
その多くは、彼のことを相手にしていないようだった。自分が洗脳されていると言われても、まったくそうは思えないのだ。
僕もその一人だ。
魔族に洗脳されているって? 僕がいつの間にか、それを受け入れてしまっているって? それが……あまりに奇異で不自然なことなのか。どうしても、そうは思えないのだった。
彼の論理も奇妙だ。明らかに間違っているとも言い切れないのに、どこか釈然としない。洗脳のことも、結婚のことも、時代のことも。何かがおかしい。どこかにおかしなところがあるのに、子供の僕にはそれが何なのかをつかめないでいる。
「……単純な話だよ。人間は、どこかで、古い時代の考えを、自分で気づいていないうちに引きずってしまっている。自分が生まれる前の常識をさえ、どこかで引きずって生きている。でも、それはすべてではない。ごく一部分だ。過渡期なのは本当だ。でも、人間は現実に適応できないほど愚かじゃあない。時間はかかるがね。ただ、過渡期の犠牲になった“世代”が存在する。それだけのことさ。……あんな男のようにはなるな。あいつの話には耳を傾けない方がいい。」
暗がりで顔が見えなかったが、教室の隅で休んでいる別の男性が、低い声でそう言った。
「寝るなら、学校はやめておけ。日の出とともに、小学生どもがここに押し寄せてくるだろう。寝ずごしたら一巻の終わりだ。……デパートがいい。」
「あ……ありがとうございます。」
「ひとつ、ヒントをやろう。相手の立場になってみる。視点を変えてみる。……違うものが見えてくるはずだ。」
「……。ありがとうございます。」この人は、洗脳されているのだろうか?
デパート、か。行ってみるか。
僕は荷物を纏めたランドセルを背負って、学校を後にした。
近くの繁華街には、たしかに大きな建物があり、そこにテナントのたくさん入ったデパートがある。本来なら、こんな夜の時間帯に、小学生がこの近辺を歩いていることが不自然なのだが、新法以降、犯罪など起こりえず、安全に夜の街を歩くことができるのだった。