■terror 02

 風呂くらい自分で沸かせるのに、と苦笑する。大体沸かすっていっても、蛇口をひねったら湯が出るだけだし。身体に付いた泡を落としながら思う。
 こんなに何でもしてくれたら、堕落しそうだ。
 泡が床を流れて排水溝の蓋の上に集まり、ゆっくり消えていく。自分もあんな風に、正体なく溶けてしまうんじゃないだろうか。入る前にちょいと風呂を洗うくらい、大した手間じゃない。ソレでもそんなのついでにやっとくって言ったら、ぼくがやります! とか詰め寄るんだろう。そこまで甲斐甲斐しく──今日はヤツの当番だからソレでいいのかでもやっぱりチョット──なくてもいいと思う。大して身体も温まってないのに、ぼんやりしてきた。ソレだ。
 あったかすぎてくすぐったい。
 鏡に湯をかけると、赤い顔をした自分がいた。いい年こいてナニ照れてんだ。とムカつくがどうにも出来ない。見る間に鏡はくもっていくが、丁度いい。こんな恥ずかしい姿はもういい。
 ユイは浴槽の縁に手をかけ、湯に足をつけた。腰を下ろしてまぶたを閉じると、じんわり温かさが広がった。自宅にいたって少しは残しているつもりの警戒が解けていく。
 出来立ての湯気の柔らかさに、頭の中の網が溶けてしまいそうだ。
 更に身体を沈めようと背中をずらしたところで、異変に気付く。猫みたいに飛び上がる。水にはありえない感触だ。何かを狩る時なら兎も角、こんなものが自分の家の風呂にあるとかおかしい。
「っぅ……」
 悲鳴を上げるのだけはなんとか堪えたが、冷静になれない。崩したバランスを直せなくて、無様に溺れてしまう。筈だった。


 なにかぬるぬるしたものがある。


 ユイがその手の生き物を苦手としていることは承知の上だ。悪いな、と思いつつも悪戯心が満たされる。足の裏を撫でてそのまま膝まで絡みついて、ほんの数秒。その間に、叫んだりしなかったけどじたばたと酷く取り乱していた。隙だらけの身体をまるで食べてしまうみたいに覆ったから、跳ね上がった鼓動も味わえた。
 驚き過ぎてぼんやり固まったまま、自分を見ている。そんな顔にも嬉しくなるが、メインはソコじゃない。
「ル……ルナか……?」
 したたかにぶつける筈だった頭も肩も、細い腰もルナに支えられている。
「うん」
 ユイは大きくため息をついた。ほんの少し、混ざった安堵。ソレだって身体越し、伝わってくる。
 コレだけで満たされそうだ。
「何のつもりだ」
「アペリティフ、みたいなものかな」
「なんじゃそら」
 シャレた言葉使いやがって、とユイはすわった目で眉を吊り上げた。
「うんとおいしいものはこれからだもん」
 上半身だけ姿を変えて、ユイの肩と首に触れる。
 膝に上るなんて、背丈の都合で普通なら取れない体勢だ。力はあっても不安定過ぎて支えきれない。だけど風呂でなら浮力のおかげで、こんなことも出来てしまう。無理矢理だけど、抱っこしてもらえた。ちょっと恥ずかしいが、嬉しい。
 いつもより高い目線からにこりとする。腰──そのへんまではまだ人間──と境目のスライム部分に優しい手の感触。ユイはスライムが転倒しないのを知りつつも、上に座ろうとする自分を支えてくれた。そこがまた、嬉しい。
「今日はすごい事します、エッチなコトします」
 もっと見つめあっていたい気持ちもあったけど、照れくさそうな顔をみていると堪え切れなくなった。膝から下りて、がっと抱き付く。
「スゴイコトするの」
「狭い、狭いって」
 大人二人が浸かるには無理のありすぎるスペースだ。ユイは浴槽の壁に押し付けられてしまう。
「駐在さん、駐在さん、気持ち良くさせてあげます」
 潤んだ目でキスしようとするルナの顔を手で止める。
「離れろ背中が痛い」
「えっ」
 ルナはやっとユイの姿勢に気が付いた。
「いいから落ち着け」


「イキナリ何なんだよ、風呂には潜んでるし何か一人で盛り上がってるし」
 ユイは横を向いてぼやいた。
「そんなんじゃむしろ萎えるわ」
 しかし、顔は微妙に赤い。この人は迫られるといつもこうだ、とルナはコッソリ苦笑する。


「えへへ、だって駐在さんのコト、早く気持ち良くしてあげたかったんだもん」
 博士に早く食べてもらいたくて弁当を持って研究所に来てしまうロボ子が言うならそういうのもアリだろう。というか、ルナの目は素直スギで、どっちかというとロボ子的に輝いている。
「……そういうのは、ぬるめでいいから」


 熱いのは、風呂だけでいい。
 ユイはやっぱり横を向いて呟いた。顔半分湯に浸かっているので言葉が若干不明瞭だ。顔は、さっきより茹っているっぽい。
 ルナはユイの身体を押し潰さないように、そっと引き寄せて胸に抱き留めた。
 かわいい。
 二人の顔は、いつもどおりの高さ。反らした視線は無理に奪わず、優しく告げる。
「駐在さん、優しいのが好きなんだよね」
「そうだよ」
 やっと聞き取れるくらいの声。ルナの身体に埋もれて、ユイは目を閉じた。
 肩口の、桜みたいな肌を撫でようとして、ルナはあることに気が付いた。
「あ、駐在さん」
「何だ」
「ピアス忘れてる」
 小さな滴を落として手を引き抜き、耳に触れたユイが、あっという顔をする。


「そんなに急いでたの?」
 ルナが少し申し訳なさそうに言った。自分の企みの為に、すぐに風呂に入れなかった事を気にしているようだ。一人ならいつだってそうだし、怒るトコロじゃないが、フォローはしないでおく。まあ、ちょっとは反省しておけと思う。
「今日はマジ寒かったから」
 風が強くて橋の上は凍えそうだった。冬の雨は、かなり堪える。いっそ雪の方が払えるだけマシだ。みぞれ混じりの雨粒が襟足に当たるのを思い出すとぶるっと震えてしまった。
「もう1枚着てればよかった」
「最近あったかかったもんね」


 湯の温かさと柔らかさに猫みたいに目を細めているユイ。心地良さげに緩んだ顔はユーモラスで、でも少し儚い。今すぐにでも啜ってしまいたいが、理性で押し流す。
 優しくゆっくり、解きたい。
「駐在さんも、油断するコトあるんだね」
「あるよ普通に」
 ちょっとばつの悪い顔で目を逸らす。
「なんかすごく用意周到っぽいのに、服の選択間違ったりするんだ」
「そっちか……」
「え?」
「闇討ち? されたのにユルユルだって言われたのかと思った」
「ぼくそこまで考えてなかったから」
 そんなに上手く出来てた自信もなかったし。
「でも、そういうの油断に入るの?」
「まあ気抜いてれば油断だろ。分かってはいるんだが、何か風呂入ると頭がふやけるんだよ」
 でもやめられない、チャンスがあるのに風呂に入らないなんて考えられない、とユイは主張した。
 ソレが彼の、安らかでなかった生活を象徴しているようで、ルナはどこかかわいそうでうんと愛しくなった。
「あったかいし体が緩むし、完全にぼんやりしてる」
「ソレって」
 ユイの言葉に、ルナはこう言った。
「きっと皆そうなんじゃない?」
「多分な。襲い易いのは風呂とかトイレ、あといかがわしい何かに没頭してるときだし」
 でも、とユイは半笑いで言った。
「剣持って風呂入る奴だっている」
 それから、少し真面目な顔をした。
「そこまでにはチョットなれそうに無いが、何とかせなイカンとは思ってる」
「え?」
「お前が強くなってきたなら、何かソレっぽい仕事を請ける可能性もある訳だし」
 ユイはまっすぐルナの目をみた。
「ソレなら俺は今までよりもっと鋭くならないといけないだろ」
「……」
「腑抜けてる場合じゃないってコトだ」
 ルナは何て答えるべきなのか戸惑った。
 嬉しいのか、そうだけどもどかしいような。ぼくだって、あなたを守りたいのにとか、こんなに思ってもらって溶けそうとか。
「でも駄目なんだよな。こうやって家にいると綿菓子並みに腑抜けっていうか。あー多分俺を殺す依頼ならお前にすれば間違いないなー……兎に角だらけまくってるからな」
「そういうコト言ったらだめだよ〜」
 ルナは頬を膨らませた。
「ぼく駐在さんを、こ……殺したりなんかしない」
 恐ろしい言葉にルナはぶるっと震え、一生懸命主張した。
「ソレはわかってる」
 ものの例えだしな、とユイは呟いた。そこでどうしてちょっぴり恥ずかしそうに目を逸らしたのかは、ルナには分からなかった。
「で、いつからいたんだよ」
「え?」
「まあ気付かなかった時点でダメなコトに変りはないけど、お前がじっとしてたのか動いてたのかで俺がどれだけ緩んでたのかわかるし」
「えとね、最初からいた」
 ルナはスライムに戻って体を薄く拡げた。オレンジがかったピンク色の異形が、すうっと薄くなる。どこかに消えてしまったようにルナの体の向こうにあった壁がみえているが、確かにその場にいる。
「こうやって底にくっついてた」
 ルナは触手を1本伸ばし、浴槽の端に出した。
「息はこうやってしてた」
 ちょっと苦しかったけど、と苦笑する。
 そんなルナの動作に、ユイの視線がしっかり付いて来ている──普段はこんな感じだから隠れてもあまり意味ない──のもわかる。便利な身体。好きになってくれる人もいるし、自分は幸せだと思う。
「お湯に浸かりにきたトキはもうバレるかなー、って思ってたの。思い切り薄く伸びてはみ出したトコロは天井の方に行って」
「なるほどな」
「動いたらね、ゼッタイバレるって思ったから、最後の部分以外はじっとしてた。だって見えてないのに、駐在さんぼくがどこにいるかわかるんでしょ」
「今はな」
「そんな悩まないでよ〜」
 いいものあげるから、と手を出す。
「はいコレ……アレ?」
 ルナは握った手を開いて、首をひねった。
「何だよ」
「何か溶けてる」
「……当たり前じゃ」
 ユイは少し呆れてため息をついた。
「風呂に潜ってたんだ。そんなもん持ってたら溶けるに決まってるだろ」
「えー……そうか」
 ルナはがっかりしながら包みを開ける。べたべたしているのでなかなかフィルムが離れない。
「折角ちゅーしながら食べようと思ったのに」
「……」
「あっ!」
「今度は何だよ」
「おとしたー! 落ちちゃった、落ちちゃった」
「お前ね!」
 冷静になると大した事でもないのだが、つられて思わず焦ってしまう。
 わたわたと浴槽の底を漁り、ルナよりも先に拾い上げる。
 手の平に乗った飴玉は、爪の先程の大きさになっていた。溶けかけだったので、歪な形だ。
「あらら」
 ユイの手から飴を取り、光に透かす。丸くなくなった飴は、ちょっと自分に似てると思う。
「小さくなっちゃったねー」
 薄く、苺の香りがする。そういう甘いトコロが似てるのは自分じゃない。
「でもまあいいか」
 ルナは蛇口をひねって出した新しい湯で飴を洗うと口の中に入れてしまった。
「お前ー……」
「3秒ルールです」
「まあそらそうだが」
 そもそも洗い流しているのだから問題はないだろう。ルナは楽しそうに笑んでユイを見つめている。子供っぽい無邪気さと、もう一つ混ざったものがある。ソレに気付いているから、ユイは無意味ながらも後ずさる。スペースがないので、僅かに身体を反らすくらい。
「ちっちゃいからすぐ溶けちゃうし、いいでしょ」
 ルナは返事を待たなかった。


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