■夢をみた 03

 変わった事が、起きた。
 男が急に、NNの仕事をしなくなった。そして、ユイを連れて二人きりでしていた仕事も、潮が引くように、小さくなっていった。思うように動いてきた男が、止まった。
 何かの病が、男を蝕んでいた。蝕むものが何であったのか、ユイにも明かさず、男は蝕まれていった。外≠ノは外≠ノしかない病が潜んでいて、そいつは致命的な効果を植えつけるが、取り除いたり、元に戻す術のないものが大半だった。街≠フテクノロジーにも、ない≠烽フは治療出来なかった。
 止まった男は、誰も動かさなくなった。誰にも会わず、日に日に衰えながら臥せっていた。
 ユイはただ黙って、男の世話をした。
 彼に言われるまま、薬らしきものを服用させていたが、それが気休めだろう事に、ユイは気付いていた。朽ちる男の命が、影のように彼の身体を嚼んでいる。ユイは死相というものを知った。
 男は蝕まれて、違う何かに変わっていった。今までの彼に無かった心が、病に喰べられあいた穴から生えてきた。
 彼は病に倒れても、強いままだった。ユイを切り刻む事くらいなら、まだやれた。
 でも、切り刻まれても、ユイに学べるものは無かった。
 死の影が迫る中で、男はユイを何度も何度も切り刻み、そして癒す事なく押し開いた。


 洗濯物を干し終えて、ユイは柔らかい風の中でため息をついた。
 冷たくなった手を暖めて、今度はその手で冷たい頬を暖めた。顔を暖めると、少し疲れが和らぐ。
 いま暮らしているのは、小さな渓谷の片隅だった。買い物には不便だったが、病を癒すなら十分な環境だった。路地裏育ちのユイは、勿論土に触れた事もない。畑なんか作れるわけがないので、車代わりのNNで何なりと手に入る区画まで向かい、食糧その他を調達している。あとは、掃除をして、洗濯をして、食事の支度をして、そして、男の側にいる。
 病に臥せっても、報せる相手はいない。しかし、それはユイには気の回らないところだった。ユイも一人だったからだ。
 籐で編まれた大きな洗濯篭を抱えて、ユイは小さな家へ戻る。丈の短い草が踊る斜面は微妙に凹凸があり、歩き難かった。無駄に布の多い白いエプロンも、たっぷりしたペチコートが歩く度に舞う紺のスカートも、全てが動き難く、窮屈だった。
 男はよく悪ふざけでユイに少女趣味な服を着せた。
 今は、いつもこの姿でいろと言う。
 フードのついた柔らかなデザインのブラウスに赤いリボンが付いている。エプロンはシンプルなデザインだったがウエストにゴムが入っていてかなりきつい。背中は白い大きなリボンで結んである。とてもユイに似合っている。少女のような容姿、というより、本当に綺麗な少女の姿だった。お人形さんのような。
 部屋に戻ると、さっき煎れた茶が、カップごと床で砕けていた。茶の亡骸は傷だらけの壁紙にも散らばっている。
 ユイは大きな残骸を拾い集め、残りを箒で集めて捨てた。次にバケツに水を張って雑巾を絞り、床と壁紙を拭いた。何度か水に触れていると、右腕が痛んだ。包帯を濡らしてしまったようだ。ユイはその包帯を解いた。熱湯を被った火傷だ。小さく息をついて、ユイは火傷の痕を撫でた。
 絞った雑巾を持って立ち上がろうとしたユイの足下に、倒れたバケツから水が迫っていた。スカートの裾を気にして、ユイは慌てて位置を変えようとしたが、不安定な姿勢を崩され、床に倒れた。
 床にぶつけた肩をさすりながらユイが身を起こすと、ちょうど、バケツが作った水溜まりの上に座り込んでしまっていた。
 黙ってぽつりと座っているユイを、男はベッドの端に腰を掛け見ていた。男の足下には、潰れたバケツが踏み付けにされていた。
 ユイが立ち上がると、男は素早く回り込み、もう一度床に倒した。それから、無理矢理引っ張り上げて、今度は男の寝ていたベッドにユイの身体を押し付けた。
 あどけない胸のリボンを解いて、エプロンの肩を強引に下げると、ブラウスの生地を左右に引っ張った。プラスチックのボタンが、アイボリーのシーツや、白いエプロンのドレープに吸い込まれた。
「……っ……」
 ユイが痛がる。
 細い肩に、長い爪が少し埋まっている。強く掴んだからだ。手を離すと、柔らかな肌から細い血の筋が流れた。
「……!」
 男は傷つけた肩に唇を寄せ、その血を舐め取った。
 舌を這わされる感触に、ユイは身じろぎした。男はユイがあまり動かないよう体重──軽くなってしまったとはいえ、ユイよりは遥かに重い──をかけ、細い手首を掴むと、空いた手で小さな悲鳴をこらえる口を塞いだ。
「んん……」
 男が掴んだ手首は右手のものだった。傷痕に触れられて、ユイはくぐもった声をあげた。はだけられた胸元、容易く手折れそうに華奢な手足、そこには無数の傷痕があった。剣を教えて、NNの乗り方を教えて、その時に切り刻んだ傷は普段は分からない程薄くなっていた。こうして肌が紅潮すると、淡く浮かび上がってくる。あとは、ただ、苛んで玩んだ傷が生々しく這っていた。火傷の痕も、細いリボンの摩擦の痕も、とても新しい傷だ。
 男はそんな傷痕を辿るように、ユイの身体に触れていった。


 ユイが身を起こすと、傍に男が腰掛けていた。
 身体が怠い。噛まれたところが痛い。口の中がねばねばして気持ち悪い。
 嫌な予感がして、自分の頬に手をのばす。その時、暖かな濡れタオルが首筋にあてられた。
「んー」
「じっとしていろ」
 男はそのまま、飛沫にたかられた肌を拭ってくれた。
 少し寒い。崩れたブラウスの肩を寄せるユイに、今度は茶を差し出した。
「熱いからな」
 何だかひどく身体が干涸びていたようで、熱い茶なのに、つかえながらすぐ飲み干してしまった。
「ユイ」
「何?」
 久方振りに、男が名前を呼んだ。顔を向けたユイを、男は随分と弱くなった力を込めて、抱き締める。
「ディストマ」
 ユイは滅多に名を呼ばない。でも、今は何故か、彼の名を呼んだ。
 柔らかな温もりにすがるように、男はユイを抱いている。そのままの姿勢で告げる。
「お前の母親に何かあったら、お前を拾いに行く約束をしていた」
「拾う……?」
「面倒をみろって事だ。
 お前、前に言った事覚えているか」
 ──好きな事が見付かれば、そこへ行くのもいい。
「そうなるはずだった」
「お前が育つまでせいぜい楽しんで、いつかお前はお前のやりたいように生きる。
 そうするはずだった。
 でも、今は違う。
 どこへも行くな」
 ──[そば]
「側に、いてくれ」
 ユイがお人形のように育った少年でなければ、豊かな胸を持った大人の女であれば、心が満ちていくところだった。
 でも、ユイには汗に濡れた服の中にいるような、妙な感触しかしなかった。
 服は服であって、自分の身体じゃない事に、気付かされるときのような。うなされて、身体が熱くなってこぼれた汗が服を濡らす。そのまま眠ってしまっても、目覚めたら自分は落ち着いている。でも、身体は乾いているのに服は乾いていてくれない。おかしな感触。
 それでも、ユイは黙って男の世話をした。
 側にいろと言って抱き締めて、同じ日に、雑巾のように切り刻んで踏み付ける。男が蝕まれていく度に、撫でたりさすったりする事と、傷つける事を繰り返す周期が、不安定になり間隔が短くなっていった。


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