■夢をみた 04

 より多くの、より優れた人間を動かす名前を持つ男が朽ちる小さな渓谷に、その話は舞い降りた。
 ユイが形ばかりの茶を出したその客人に、男は頷いた。
 男が同意して数分と経たないうちに、清潔で規律正しい白衣の人間や、幾重にも包まれたコンテナが、本物の草の上を通った。
 彼等は街≠ナ絶大な力を持ち──その社章はユイもよく知っていた──、ない世界とも渡り合う行き届いた武装に守られていた。
 大層手を掛け作ったのであろう水で希釈されたエタノールの匂いの中で、ユイはただ眠る事にした。少なくとも、男は自分で決めていた。止めたり、拒んだりする理由はこれといってない。それに、とても疲れていた。
 その部屋には窓も時計も無かったので、正確な日付は判らないが、包帯や絆創膏を替えに来る人間の手許──街≠ナはありふれたデザインの腕時計──とか、取った食事の回数──大半を眠って過ごしたのであまりあてにはならないが──からすると一週間は過ぎただろう。そのくらい日が経った頃、男がユイを抱き上げて部屋から出した。彼の腕は日に焼けていた頃と違い、とても白くなっていたが、あの頃のように強靱だった。病の影が、男の命から消えていた。男が、思うように動きだした。
 男の部屋には窓も時計もあった。男はユイを部屋に置いて身の回りの世話をさせ、自分はせわしなく行き来した。切り刻まれはしなかったが、彼は今までしてきたように、何度もユイを押し開いた。
 さして珍しくもない事だったが、その日男がユイを身体から離したのは、もう明け方だった。眠りそうな目で、淡い闇をユイは何となく見た。男はもう朝まで眠らないのだろう。そういえば、元々睡眠時間の極端に少ないうらやましい男だったが、最近彼の寝顔をみた覚えがない。ユイが目を覚ますと、男はいつも起きていて、あの不敵な瞳で何かを計算している様子だった。
 男は窓を開け、白む空をみていた。ここからは分からないが、設備内にはもう起きて動いている人間もいるだろう。
 恥ずかしくないのだろうか。
 風邪を引きそうなので、ユイは毛布を手繰り寄せながら──あと、誰かに見られたら恥ずかしいし──思った。
 ──ないんだろう。
 あれだけ立派な体躯に、美貌を誇っているなら、服なんか着ていなくても人前に出られるのかもしれない。あの男の性格なら絶対にそうだ。見せて喜びかねない。
 勝手に男の自信を分析して呆れている自分が、ちょっと笑った顔をしていた。照れる事でもないのに、ユイは慌てて表情を消す。おかしな気配に、男が振り返った。
 必要以上に取り澄ましてかえって変な顔をしているユイをみて、いつもの皮肉な笑みで男が笑った。飽きずにまたも自分をからかうつもりなんだろう、ユイは思いつつ歩み寄る男を見た。
 男がふと立ち止まり、訝し気にその均整の取れた身体を、点検するように眺めた。そして、そのままベッドに腰掛けると形の綺麗な手を握ったり閉じたりしながら、伶俐な瞳で何かを計算し始めた。
「ふむ……まあいい」
 男は考えを中断し、言葉の途中で容易くユイを抱き寄せた。
「私には、お前がいる」
 それから暫く経って、彼等は渓谷を飛び立った。コンテナを仕舞った輸送機の窓から、雲に薄くなる小さな集落を、男の膝の上でユイは黙って見た。
 渓谷が熱も光も出さないで、跡形もなく消えた話は、ずっと後になってから知った。


 男は最新鋭のNNと設備を従え、正規の軍人として隊を率いた。かつて多くの機関が期待したとおり、彼は優秀な指揮官だった。学府で身に付けた知識とは違う叡智や、裏返った世界に名前を持つ経験が、直接の戦闘行為以外の謀略をも生み出し、幾重にも重なった世界を超えて広がる大規模な勢力図を塗り替えもした。
 そして、最強のNN部隊≠フ双璧として、その名前は更なる力を得た。
 雑多な諍いの中で、後に一人のジャーナリストによって広く知られるようになるその紛争は、表向きは最強の部隊≠互いに掲げる2つの勢力の統合で終わった。政治的にはそれでカタが付いたらしい。そして、別の勝敗は治安維持≠ノ名を変えて、判定がつくまで続けられた。
 双璧は決着を急ぐ背景によって、互いを削り合った。
 そして、ユイは時間が男の何かを次第に削っている事に気が付いた。
 彼は病を退け、以前のように、それ以上に力強く、聡明に、思うように動いていた。
 でも、自信に満ちた瞳の奥が、別の何か≠ノ置き換わっている。正確には、男の内部で何か$Bえている。そして、その何か≠ヘ、男の顔をして、男の名前で知略を張り巡らし、敵を退け、男の姿で傍らのユイを押し開いた。
 もう一つの部隊≠ノ迫り、戦闘を繰り返し、互いに決定的な打撃を与えられないまま時を重ねていく過程で、自分の身体を訝し気に点検する男の瞳が歪み始めた。ただの異物感が痛みに変わるように。
 殖え続けた何か≠ェ、ついに男の自我を越えようとしていた。
 それまで観察していた男の瞳が、恐怖に見開かれる。
 病に臥せっていた頃にも、ユイはこんな恐怖の感情を見た事がなかった。ただ黙って男の傍らにいたが、病≠ニは違う忌わしげな影を、彼を蝕む何かに感じる。病気には、命を削る、どこかへ引いていきそうな、沈んだ命が息づいている。でも、違っていた。引いていくのではなく、沈んでいくのではなく、押し迫り突き上げるような命がいる。
 そして、それはユイの命も啜っているようだった。
 苦しみや恐怖を紛らわせるかのように、男はユイを酷く乱暴に押し開いた。いつかのように、切り刻む事もあったし、面白がってからかう事もせずに、趣味の悪い方法で弄んだ。
 そんなとき、男の身体越しにユイからみえない何かを奪い取った。
 そうすると、彼の苦痛はいくらか和らぐようだった。男は発作のように繰り返し苦しみ、その都度何か≠フ割合を殖やし、ユイを押し開いた。
 心がすり減っていくような疲労感に、ユイは衰弱していった。
 男の操縦するNNは、時を経る度に強化されていった。生物が進化するようにOSは成長し、最強≠フ名を欲しいままにした。但し、最強≠ヘ彼だけではなく、だからこそ、両軍の決着がつかないでいた。
 男の明晰すぎる頭脳は、NNに新たなメカニズムを付加するまでに至った。背景の設備によって、彼の軍隊は常に最新鋭のシステムを保持出来る。人と無機物を接続するテクノロジーによって、NNと操縦者の境界が取り除かれ、人のような機関を搭載したNN≠ェ、最強の部隊≠フ一つを支えた。
 倒れそうなユイにでも、そのNNは十二分に扱えた。NNの側から、弱くなった生命を上げ底しているようだった。接続されている方が、ただ操縦しているより確実に戦果があがった。人道的かどうかなんて考えた事もなかったし、戦闘は結果が全て。それがその頃のユイの全てだった。



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