「今日ねぇ、学校で百合絵さんの事が話題にのぼったんだよ?」
「・・・え?」
「一体どこの誰と結婚したんだろうって。体育の真宮先生なんか百合絵さんが退職してからずっと元気ないって言ってた。実はフラれたんじゃないかって噂になってるみたい」
「・・・真宮先生? 随分前にお断りしたけれど・・・」
「うわっ、やっぱそうだったの? 女の子の目って鋭いなぁ」
百合絵は感心している優吾を見て、思わず苦笑してしまった。
こうやって客観的に自分の話を聞いて、改めて優吾と一緒にいるということを実感したからだった。
もう既に、二人は一緒に暮らしている。
住む場所などは、今まで住んでいた百合絵のアパートでいいと考えていたのだが、二人で生活する上に子供も産まれるのにそれではいけないと、優吾の両親が物件を探してきて、随分と広いマンションへと引っ越した。
月々の支払いなども結局彼の両親もちで、何もかも人の世話になりながらスタートしたこの生活に引け目があったものの、優吾が大学を卒業して働きはじめるまでだと言うことを聞いて、少しは気持ちが楽になった。
仕事は約束通り、簡単な引継作業を後任の臨時養護教諭にして、三学期が始まる前に退職した。
由比との思い出がそれで消えてしまうわけではない。
ちゃんと、自分の心に残っていればそれでいいと思ったから・・・
優吾は相変わらず学校で、今まで通りの生活を送っている。
ただ、一緒に住むようになって実感することは、考えていたよりも彼が遙かに女の子に好かれるということだった。
勿論男の子の友達も本当に多いのだけど、とにかく、毎日のように持って帰ってくるプレゼントの多彩さといったら相当のものだったのだ。
普通の何でもない日でこれなのだから、バレンタインなどはどうなってしまうのだろうと、今から考えてしまう。
それに、優吾は三学期を残すだけとは言え、まだ高校生なのだ。
学校の生徒にいつばれないかと、二人で外に出るときは常に気をつかってしまう。
「優吾って誰かとつき合ったことある?」
「うん? あるよ?」
何となく口から出た質問。
けれど、勝手な想像でそれは無いと判断していたのに、全く逆のことを言われて百合絵は言葉に詰まってしまった。
まさか彼が、誰かとつき合っていたことがあるなんて思いもしなかった。
何だか、今、もの凄く了見の狭い考えがよぎったような気がする・・・
「い、いつの話?」
「え? 始めは小学生の時」
頭がくらっとなってきた。
小学生!?
百合絵の中で、そんな子供がつき合ったりするなどとは、考えられないことだった。
ただでさえ自分は恋などと言う気持ちがずっとわからなくて、初恋が24で、由比だったのだから。
「は、はじめって、他にもあるの?」
「あとはねぇ、中学生で2人。高校入って1人かな?」
「・・・そんなに!?」
「う〜ん、でもねぇ、つき合うとかって、実はよくわかんないんだけどね」
「・・・どうして、別れたの? フッたの?」
信じられない。
そんなにつき合った人がいるなんて・・・・・・
「別れを切り出すのは女の子の方だよ? みんな不思議と言うことは同じでね、僕といると苦しいんだって。周りの目も気になるって」
「・・・・・・それで優吾は、あっさり別れるの? もしかして、つき合って欲しいって言ったこと無い人間?」
「・・・・・・そういえば、ないかなぁ・・・」
それって・・・来るもの拒まず去る者追わずってことかしら。
何だか少し悲しくなってしまった。
だって、彼女たちの気持ちが少しだけどわかってしまう自分がいるから。
苦しいのは、あなたが自分に気持ちが向いていないから。
周りの目が気になるのは、あなたがとても目立つ存在で、どうして自分と一緒にいてくれるのか分からなくて不安だから。
「あ、あるある、1人だけ」
「え?」
優吾は思いついたように顔を輝かせて百合絵を見つめる。
そして、少し懐かし気な表情を浮かべて目を細めた。
「百合絵さんに結婚しようって言った。何回も断られたよね」
「・・・・・・でも、それって・・・」
「え? 間違ってないよね?」
由比が彼にとって特別だから選んだ道のような気もするけれど。
私が好きってわけじゃないって思うのだけれど。
自分だって、由比とつき合ってた。
それは、1人だろうが何人いようが同じ事。
私が今、彼のつき合ってきた女の子に反応してしまうのは、彼のことを好きだから。
そういうこと。
それでも、ちょっと拗ねて俯いた百合絵を見て、彼は微笑みながら頬杖をつく。
「それって、嫉妬? カワイイね」
本当に、簡単に気持ちを読まれてしまう。
ふんわり笑ったその顔に、どこまでも釘付けになっていく。
そう、嫉妬。
これはそういう気持ち。
私は、どんどんあなたを好きになってる。
▽ ▽ ▽ ▽
数日後、百合絵は夕飯の買い物をしに近くのスーパーに出かけていた。
三十分程で全てのものを買い終え、ゆっくりとした歩調で家に帰る途中、歩行者用の信号の前で信号機の色が変わるのを待っていると、小さな少女が百合絵の隣で立ち止まった。
どうやら少女はあやとりに夢中のようだった。
熱心に指全体を器用に動かし、次々に色々なものが出来ていく。
百合絵はその様子を見て微笑み、自分もお腹のこの子が産まれたら、あやとりを教えられるような母親になろうと思った。
数秒もしないうちに歩行者用の信号が青に変わったので渡ろうと、一歩足を前に踏み出す。
少女も信号に気付き、駆け足で道路を横断していった。
と、同時にフラッシュバックのような光景が目前に広がった。
キーーーーーーーーーーーーッッッ!!!
「・・・・・・・・・っ・・・!?」
最初、何が起こったのかよく分からなかった。
ただ、この耳を突き破るような音だけが百合絵の中の”何か”をかすめて・・・・・・・・・
目の前に広がった光景。
それは、道路を横断していた少女が、無理矢理右折してきた信号無視の車に轢かれそうになったものの、急ブレーキによって寸前の所で助かったというものだった。
近くにいた人間が、驚いて泣き出した少女に駆け寄り、一生懸命あやしている。
だが、百合絵はその場所から一歩も動くことが出来なかった。
頭の中で繰り返される急ブレーキの音
空を舞う少女の姿
17才の私・・・・・・
ああ、
そうだった・・・・・・
あの日も、こんな風に信号を渡ろうとして。
・・・・・私は、
自分が誰だか、やっとわかった───
▽ ▽ ▽ ▽
百合絵は家に帰るなり、布団に潜りぐるぐると駆け回る頭の中を必死で紐解いていった。
事故にあったときのこと。
友人の桜に服をもらい、その足で電車に乗り継いで多恵の住む町へと来たこと。
そして、何よりも、自分の愛する家族達の顔が何度も何度も思い出された。
皆、自分をあれほど愛してくれていたのに、それを忘れてしまうなど、これほど薄情な人間がいるだろうか。
婚約者も決まり、卒業して式を待つだけだった。
薫に求婚され、姉を苦しませ、このまま結婚していいものかと悩み、自分は記憶をなくすことによって彼らから逃げたのではないのか?
無意識の中で、あの世界から逃げ出してしまいたい。
別の自分になってしまえばいいのに、と少なからず思っていた。
一度も自分の意志というものを持たなかったくせに、はじめて意志を持って行動したとき、彼らを捨てたのか?
わからない、わからない。
最低な私。
百合絵が自問自答していると、玄関の方で人の入ってきた気配がした。
それが誰かなんて分かりきった事だけれど、百合絵は布団から飛び起きて確認するように玄関へ駆け寄った。
「あ、ただいま〜、調子はどう?」
「・・・・・・大丈夫、よ・・・」
優吾の顔を見て、少しだけ平静を保つことが出来た。
しかし、優吾の方は、真っ青な顔をした彼女の顔に驚いている。
「ヒドイ顔色じゃないっ! どうしたの? 具合悪い? 早くベッドに横になろう」
「夕飯が・・・」
「そんなの僕がやるよっ、いいからベッドに行こう」
しっかりと肩を抱いて、ベッドまで連れて行き、彼女を横に寝かせて布団をかぶせる。
「・・・優吾・・・・・・」
「・・・ん、気持ち悪い? どうしたら楽になる?」
けれど、小さく首を横に振るだけで、涙を滲ませ優吾を見つめる瞳は、気分が悪い、と言うよりも何かを訴えかけているようにしか見えなかった。
「・・・・・・僕がいない間、何かがあったの?」
「・・・・・・・・・おねがい、側にいて」
「・・・うん、じゃあ、手を握っていようか」
百合絵の手を取り、心配そうに見つめる彼の表情。
それを見ただけで、涙が止め処なく溢れてきてしまって・・・・・・
「・・・・・・優吾は、家族の事を忘れるなんて・・・・・・想像できる?」
「・・・え?」
「自分の事を愛してくれて、優しくしてくれた周りの人間を全て忘れてしまうなんて、想像できる?」
「百合絵さん・・・?」
「・・・・・・優吾なら、忘れないわよね・・・・・・」
「・・・っまさか・・・っ!?」
私は、いつからこんなに弱虫になった?
涙など、昔は流したことがなかった。
人に心配させたり、迷惑をかけることが大嫌いだったはずなのに。
こんなにも人に依存して、今はあなた無しでは生きていくことさえもままならない。
まだ学生服を着て、あどけない表情を残したあなたに全てを頼り切っている。
「ごめんなさい、ごめんなさいっ」
「百合絵さんっ」
彼女の震える体をしっかりと抱きしめ、何度も何度も、細胞一つ一つまでに教え込むように彼は囁き続けた。
百合絵が泣き出し、必死で全てのものに謝罪している間。
「大丈夫、大丈夫、僕が守ってあげる。全部守ってあげるからね、大丈夫だよ」
第14話へ続く
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