『あなたの鼓動が聞こえる』

○第8話○ 二人の時間(前編)







「ユリせんせ〜、オレ卒業だって、卒業っ!!」
「おめでとうっ」
「ぐわぁあ」

 駆け込んできた男子生徒に百合絵は微笑みを讃えて言ったのだが、彼はどうも落ち込んでいるらしい。


 今日は、卒業式だった。

 なのに保健室には相も変わらず生徒達が大勢詰めかけていて、あまりにもいつもの風景に苦笑してしまう。
 けれど、卒業生用の胸飾りや、卒業証書を持っている姿を見て、彼らが明日からここにこうやって来ることはもうないのだと思うと、一抹の寂しさは拭えない。


「先生、コイツね、卒業したくないんだよ。ユリ先生に会えなくなっちゃうから」
「私も寂しいわ。みんなと会えなくなるんだもの」
「ユリせんせ〜、オレしょっちゅう会いに来るからね〜」
「お前大学東京だろう? しょっちゅう来れるわけねぇじゃんかよ、ば〜か」
「うるせぇ、愛だよ愛!」

 しかし、彼のような生徒は実際何人かいて、卒業後も本当に会いに来てくれる。その時はちゃんと彼女もできて、みんなうまくやっているのだ。

「そう言えばさ、飯島秀一、メチャクチャ女生徒に囲まれてたぞ? いいのかよ、一人であんなにモテまくってっ!!」
「オレも見た! 凄かったぞ? あと、弟の優吾だっけ? アイツなんか卒業生じゃないのに囲まれてたぞ。最後なんか兄弟のツーショット写真とかやられてたし。あの時の秀一の顔は面白かった。普段クールなヤツが困ってたからなぁ」
「女どもの力は凄いよ」

 そんな話で盛り上がっていると、噂の女生徒達も続々と保健室に集まりだした。

「あ〜、楽しかったぁ! アレってスッゴイ見物だったよね〜」
「最高っ! あ、ユリ先生! もう会えないんだね〜、寂しいよぉ」

 女生徒の一人が百合絵に抱きついてきた。
 それを見た男子生徒達は、はぁ〜と溜息を吐いてその様子を羨ましそうに見ている。

「いいよなぁ、女子は〜、そんなことやったって許されるんだからよ」
「イイでしょう、女の特権よ」
「ところで、何が見物だったんだ?」
「そうそうっ、飯島兄弟がね、面白かったの!! 兄だけじゃなくて弟の制服のボタンも全部取られちゃって。まだあと一年この学校に通わなきゃならないのに。あの『困ったなぁ』って顔が堪らないのよね〜」
「・・・女は残酷だなぁ・・・」
「でもねぇ、弟の方と仲がいい子いたじゃない? 保健室の常連くん。日向由比! どさくさに紛れて彼も標的にされてたんだけど、どうも撒かれちゃったみたいで見つからなくてね〜、ホラ、本当はみんなお近づきになりたかったけど、彼って人を寄せ付けない雰囲気あるじゃん? だからね〜、今日くらいはって」

「・・・・・・・・・」


 百合絵と男子生徒は一斉に言葉に詰まってしまった。

 何故なら本人が先程やってきて、そこのベッドで只今就寝中なのだ。
 彼の幸せのためにも、優しい先輩達は、彼女たちにそれは黙っておこうと、アイコンタクトで意思を確認しあった。

 と、そこで、

「せんせ〜、由比知らない〜?」

 噂の飯島優吾本人が、本当に噂通り制服のボタンどころかYシャツのボタンも全て取られてボロボロの格好でやってきた。

「まぁ、飯島くん、大変なことになっているわねぇ。今日あなたは卒業式だったかしら?」
「あと一年あるって〜」

 優吾は心底困ったように笑い、保健室に集まっている卒業生、特に男子は噂よりも哀れな惨状に、少し羨ましいと思いつつ、同情の目を彼に向けた。

「さぁ、じゃあオレ達はそろそろ帰るかぁ〜、優しい先輩としてはここらで切り上げるのがいちばんだよなぁ」
「ユリせんせ〜、ホントに会いに来るからね〜」
「オレも〜」
「ホラ、女どもも行くぞっ」
「え〜、せっかく弟にも会えたのに〜!? ユリ先生〜」
「みんな、元気でね。いつでも会いにいらっしゃい」
「「「「「「「「は〜〜〜〜い」」」」」」」」

 ガヤガヤと大騒ぎをしながら生徒達の声が遠ざかる。
 優吾は、自分が来たと同時にみんながいなくなってしまったので、とても不思議そうにその光景を眺めていた。


「日向くんならそこのベットで寝てるわ」
「あ、そうなの?」
「・・・それにしても、凄いわねぇ・・・その格好じゃ寒いでしょう」
「う〜ん、確かに寒いねぇ」
「そうよねぇ」

 優吾は、家に帰ったら怒られるかな、などと考え込んでいたが、やがて何か思い出したらしく、パッと頭を上げた。

「あ、そうだ! 百合絵先生。僕ね、最近思ってることがあって、ずっと言わなきゃって思ってたんだけど」
「なぁに?」

 きょとんとした顔で優吾を見つめる百合絵を見て、彼はふんわりとした独特のやわらかい微笑みを讃える。

「うん。先生の雰囲気がね、変わった」
「?」
「キレイになったね」

 優吾の言葉に百合絵の白い肌が真っ赤に染まった。
 まさか、そんな言葉が彼から出てくるとは思わなかったのだ。

 百合絵が返答に困っていると、ベッドの仕切りカーテンが勢い良く開き、

「お前、何どさくさに紛れて口説いてんだよ」

 由比が出てきた。

「あ、由比〜、もう大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。そんな事より、相手は先生だぞ? お前何考えてんだ」
「え〜? キレイになったと思ったから誉めたんだよ? ねぇ、由比だってそう思うでしょう?」

「・・・・・・・・」

「あぁ、照れてる〜」
「うるせ〜、それよりお前何しに来たんだよ?」
「うん、もう帰らないかなぁって思って」

 そう言えば、外は薄暗くなってきた。
 生徒達も殆どが下校してしまって学校が静かになっている。
 由比は、ちょっと考える仕草をして、一瞬百合絵を見た。
 百合絵はどきん、として彼から目が離せなくなってしまう。

「・・・先帰っていいよ。オレ、これから約束あるから」
「え〜? 約束? あっ、わかった彼女だ! そうでしょう! 先生、由比ね、彼女が出来たんだって。これから会うんだよ、絶対」
「そ、そうなの。・・・お、おめでとう」
「・・・・・・ん・・・」

 こんな時一体どうすればいいのか困ってしまう。
 由比も百合絵も、頬を染めて少し俯く。
 優吾はそんな二人には一向に気づかず、ニコニコ笑って頷いていた。

「そう言うことなら、僕はもう帰るからね、ばいば〜い、また明日〜♪」

 楽しそうに保健室から出ていって、部屋の中は二人きりでしんと静まりかえる。
 やがて、由比が苦笑いをしながら百合絵に言った。

「何が、おめでとうなんだろうね」
「そんな由比こそ、相手は先生なんでしょう?」
「・・・・・・オレはいいんだよ。それより、百合絵」
「・・・なぁに?」

「キレイって言われて赤くなってた」

「・・・・・・だって・・・」

 あんな子にキレイなんて言われたら、誰だって赤くなっちゃうわ。

 由比は、俯いて口ごもる百合絵の腕をとり、自分に引き寄せる。
 簡単に彼の胸の中にすっぽりと収まってしまった。

「まぁ、優吾のは下心がないから許すけど」
「・・・・・下心って・・・」
「でもさ、百合絵をキレイにしたのはオレだよね? オレが好き? ねぇ、百合絵」
「・・・ん、好き・・・」

 由比は嬉しそうに微笑んで、彼女に触れるだけのキスをした。

「・・・オレ、四月からやっと高3だよ? 全然百合絵に追いつかない・・・」
「それは当たり前じゃない」
「・・・・・・まぁね」

 そう言うと、由比は彼女からいったん離れて、保健室のドアまで歩いていった。
 カチャリ、とドアの鍵を閉め、彼女に向き直る。
 そして、再び百合絵を抱きしめ、所謂お姫様抱っこというものをしながら、さっきまで自分が眠っていたベッドまで連れて行き、静かに彼女を組み敷いた。

「由比って、意外に力持ちよね」
「百合絵が軽すぎるんだよ」

 百合絵は彼の首に腕を回し、優しく抱きしめた。
 由比はそんな彼女に微笑んで、今度は深く唇を重ねる。

 百合絵は、ただ彼だけを感じていればいいという幸福の中、嬉しさで涙が止まらなかった。
 そして、そんな彼女を見つめ、それでももっと彼女を奪い尽くしたいという思考を頭の中で巡らせながら、由比は、ひたすら百合絵を求め続けた。



 静かな校舎の中で、ベッドのきしむ音と、時折漏れる切ない声は、誰に聞かれることなく、二人の時間を見守るかのように過ぎていった───












▽  ▽  ▽  ▽


「・・・ねぇ、由比・・・私、あなたに会わせたい人がいるの」

 百合絵が自分のアパートの部屋で、由比にそんなことを言ったのは、彼が3年生に進学して随分時間が経過してからだった。

 既に由比は、彼女の家の合い鍵も渡され、休みの日などは必ず朝からやって来て二人で過ごしている。
 平日でも、夜に訪れることがあるので、百合絵は家族の人が心配すると言って窘めるのだが、別段気にする風でもなく由比は彼女に会いに来た。


「・・・だれ? 家族の人?」
「・・・・・・ん・・・多恵さんって言うの・・・」
「多恵さん?」

 百合絵は寂しそうに微笑んで、由比に抱きついた。

「私、十代の頃、事故にあって記憶を失ってるの。家族は・・・いるのかもしれないけど、憶えていないわ。多恵さんは、病院で婦長をしてて、そのまま私を引き取ってくれた人よ。私のお母さんみたいな人なの」
「・・・・・・百合絵・・・」

「多恵さんに、由比を会わせたいの・・・」


「・・・わかった」


 由比は彼女の細い身体を抱きしめ、何度も優しく背中を撫でた。





後編へ続く

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