浅い眠りだったせいだろうか。
カタン、という物音が向こうの方でかすかに聞こえたような気がした。
「・・・ん・・・・・・」
華の意識がゆっくりと現実に戻っていき、枕元に置いてある時計に目をやると、午前零時をまわったばかりだった。
普段だったらどんな音がしようと朝まで目が覚めないのに、今日ばかりは違うようだ。
「・・・・・・」
このまま再び寝てしまおうかとも思ったが、喉が少しだけ乾いているので少し考えた後、もそもそと起き出し、寝室から出ていった。
───優吾の寝ているリビングを抜けてキッチンへ・・・
と思ったが、どういうわけか部屋の電気がついている。
やや躊躇する気持ちはあったものの、やましいことをしているわけではないので、気を取り直してリビングのドアを開くことにした。
「・・・・・・・・・華ちゃん?」
「・・・・・・・・・」
華は目の前の光景に言葉を失ってしまった。
彼女が部屋に入ってきたことに気付いた優吾は、トロンとした目で華をじっとみつめている。
だが、驚いたのは別のことについてだ。
彼の周りには・・・
「お酒・・・のんでたの?」
ビール缶が一本、二本・・・
足下にも何本か転がっている。
どうやら優吾は、更にもう一本飲もうとしてビールを開けようとしたところだったらしく、新しい缶を手に持ったままだった。
「ん〜・・・」
「なんで・・・?」
お酒、のめないくせに?
いつもならそんなの一本も飲まないうちにぐうぐう寝ちゃうのに。
最後にお酒飲んだのなんて、もう忘れちゃうくらい前なのに。
「目が覚めちゃって・・・そしたら全然眠れないんだよね・・・」
視線を落として、酔っているような酔っていないような顔をして・・・
彼はお酒を飲んでもそれ程顔にでるタイプではないようで、今どんな状態なのかはよくわからないけれど。
「・・・じゃ、じゃあ、一緒に寝ればいいじゃない。どうして一人で寝ちゃうの?」
「ん、そうだねぇ・・・」
「そうだよ」
鼻の奥がツンとする。
涙が出てくる前兆を感じ、それを堪えるために手をグッと握りしめた。
「でも、今日は華ちゃんといたくない」
「・・・ッ・・・」
目を逸らして少し低い声で言われた言葉に、胸が剔られたような気分がした。
どうやって息をすればいいのか思い出せなくなってしまう。
華が黙り込んでしまったのに気付いた優吾は、心持ち充血した目を彼女に向け、蒼白になっているその表情にハッとした。
「・・・なん、でぇ? ・・・・・・」
「・・・華ちゃん・・・?」
「私のこと、キライになったの・・・? 一緒にいるの、イヤ?」
「・・・え? ・・・・・・あっ・・・違うよっ!」
「・・・うっ、うっ・・・・・・」
ポロポロと大粒の涙を零し始めた華の側に急いで近寄り、そのままグイッと抱き寄せた。
優吾の頭の中は、ぼうっともやがかかっていたものの、自分の言った言葉が華にどう受け止められたのかを理解したらしい。
「違う、そうじゃなくって・・・華ちゃんがどうっていうんじゃないんだよ。・・・つまり、悪いのは僕の方でね」
「わかんないよぉ、パパの言ってること・・・っ」
「あのままだと僕、とんでもないことしちゃいそうで・・・」
情けないような声を出しながら、優吾は更に華を抱きしめる腕に力を込める。
まだ苦しい程ではなかったけれど、その腕からは華を離そうとする意志は微塵も感じない。
その事にちょっとだけ安心した。
「・・・とんでもないこと?」
「華ちゃん、めちゃくちゃにしちゃいそうで・・・だから今日は近づいたらダメだって思ったんだ・・」
「? ・・・めちゃくちゃ?」
優吾は華の顔を見つめ、苦しそうに微笑んだ。
彼がどうしてそんな顔をするのか分からなくて不安になる。
「・・・あの子の顔は・・・あまりに由比に似てて・・・変な錯覚を起こしそうになるんだ・・・」
「・・・・・?」
「・・・・由比が華ちゃんを連れて行っちゃうような気がして・・・・・・」
「・・・・・・」
「まるで『その子を返せ』って・・・言われてる、みたいに・・・・・・・・」
「・・・・・・え?」
───信じられない
あの時パパがそんな風に思ってたなんて。
だけどそれは・・・
「違うよ、パパ。ヒカルくんは『由比』じゃないよ、私もどこにも行くわけないのにどうしてそんな事言うの?」
けれど、優吾はなにも言ってくれない。
いつもならこんな時、『そうだね』って笑ってくれるのに・・・
暫くの沈黙の後、優吾は小さな、誰に言うわけでもない、まるで独り言を言っているかのようにポツリと呟いた。
「・・・時々、自分が恐いよ・・・」
華を抱きしめる腕が僅かに震えている。
どんな気持ちでいるのか、華にはよく分からなかった。
どうしてそんな言葉が彼から出てくるんだろう・・・
それに、こんな顔をした優吾は初めて見た。
今までずっとずっと一緒で、もう絶対知らない顔なんて無いって程色々な表情を見てきたのに。
「恐い・・・って・・・なんで? ヒカルくんとはこの前初めて会ったんだよ?」
「・・・そうだね、でも・・・僕は嫉妬・・・したんだ。それで、華ちゃんは僕のものだ、なんて・・・・・・凄く醜い感情が湧きだしてきて。そんな最低な気持ちで一緒に寝たら、華ちゃんを滅茶苦茶にしてしまうような気がして・・・とても・・・」
「それで、一人で先に寝ちゃったの?」
ウン、と小さく頷く優吾の言葉が信じられない。
彼から『嫉妬』という単語を聞けるなんて夢にも思わなかった。
「パパのバカ」
「ごめんね」
「・・・いいのに」
「?」
「パパなら、どんなにされてもいいんだよ」
「・・・華ちゃん」
そんなの出来ないよ、と困ったような顔をしながら何度も頭を撫でられる。
でも、そうじゃないんだよ。
「あんな風に一人にされちゃうくらいなら、めちゃくちゃにされてもパパと一緒の方が百倍もいいに決まってる」
パパのめちゃくちゃがどんなものかなんて想像も出来ないけど、きっとどんなにされてもパパだから平気だと思うんだよ・・・
彼の胸に頭を押しつけて、腕を背中に回して思いきり抱きしめてみた。
優吾がドキドキしているのがわかる。
お酒の所為なのか、華がそうしたからなのかは定かではないけれど。
「・・・・・・アリガト」
言いながら顎を持ち上げられ、潤んだ瞳で見つめられる。
ドキドキする間もなく、重なった唇から漏れる息は、少しだけお酒の匂いがして、やっぱり少し酔っているのか、熱っぽく華の舌を絡み取るその動きは、普段よりもずっと激しいものだった。
「・・・ん、・・・ん・・・っ・・・」
何度も何度も。
気持ちを確かめ合っているみたいに・・・
誰より好きなのは明白だけれど───
「もぅ、寝ようか」
「・・・うん」
今度こそ優吾は華と一緒に眠る気らしい。
彼女の背中に腕を回し、寝室へ促しながら自分も部屋に入っていく。
そして、先に華をベッドに寝かせた後、優吾も隣に横になる。
華は何となくドキドキしていた。
この後、優吾がどうするのかと思うと・・・
つまり、彼の言う『めちゃくちゃ』がどんなものなのか。
普段の優吾からは聞けないような言葉に、やはりアレはお酒の影響かな、とも思ったが、だからこそ本心からくるものじゃないだろうかとも思える。
・・・でも、やっぱり想像できないんだよね。
「ねぇ、華ちゃん」
「・・・うん?」
華の髪の毛をクルクルと指に絡ませて遊びながら言う。
「キス、してくれないかなぁ」
「え?」
「ちゅ、って華ちゃんから」
甘えたような声。
華を甘やかすような甘ったるいような声なら毎日のように聞くが、そんな風に言ってくるなんて滅多にないことなので思わず顔が綻んでしまう。
華は上半身だけちょっと起きあがって、言われたとおり、彼の唇に自分のを重ねてみた。
一度だけじゃなく、何度も何度も。
頬にも額にも瞼にも。
優吾はそれをとても嬉しそうに幸せそうに受け入れている。
「大好き」
ぎゅ、と彼の首に抱きつき、肩に顔を埋めるようにして囁く。
何度言っても足りない。
きっと言葉なんかじゃ伝えきれないと思うけど、やっぱり口に出すのが一番だと思う。
「・・・僕も・・・なにより大事だよ」
そう言って、言葉の通り、大切そうに華を抱きしめる。
そして・・・
「アリガト、華ちゃん」
にっこり微笑んだ顔はもういつもの優吾だった。
そんな顔を見たら何だか安心してしまって・・・
先程までは浅い眠りを繰り返していただけだったので、一気に眠気が襲い、瞼が重くなる。
「・・・華ちゃん?」
「・・・・・・ん」
小さな声で返事をしたきりピクリとも動かない。
優吾は、抱きついた腕の力が次第に緩んでいくのを感じ、まさかと思い、華の顔を覗き込むと、既に半分以上寝ているような状態だった。
このまま放っておけば、完全に眠りに落ちるまで時間の問題だろう。
彼の方は一向に眠る気配はない。
だが、起こす気はないようだった。
そのかわり、あどけない表情の華の様子を愛おしそうに見つめている。
それから、彼女のおでこに唇を押しつけて。
小さな身体を包み込むように抱きしめ、
ゆっくりと目を閉じると、深く息を吐き出した。
「・・・僕ってばかだなぁ・・・」
第4話につづく
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