『呪縛』

○最終話○ 静かなる世界(その4)







 一方、血まみれで昏倒した多摩は、伊予の手によって宮殿の中へ運び込まれていた。


 しかし、その傷は誰が見ても手の施しようがない状態で、出来ることと言えばそこら中からかき集めた布で溢れ出ていこうとする彼の血を堰き止める程度の事で、それすらも満足に出来ている自信は無く、多摩の命をどうやって繋ぎ止めていけば良いのか伊予には見当もつかなかった。

 だが傷口は、多摩の拳ほどの大きさまで拡がったところで、それ以上拡がることはなかったのである。


 息をついたのも束の間、程なく目を開けた彼の様子がいつもと違うことに伊予はまたも困惑する。
 どうやら意識が酷く混濁しているらしく、目は虚ろで時折何かを呟くのだが、それらに意味はあるのか彼女にはよく分からず、傍らでそっと彼を見守ることしか出来ずにいた。


 ・・・他のお二人がどこに消えたのか・・・クラウザー様は・・・
 どうして多摩さまはこんな事に・・・


 おかしな事ばかりが起こっている。

 多摩を見つける事が出来たのは偶然ではない。
 だが、皆が来るのを待っていた彼女は、激しい嵐へと変わった外の様子は気になっていたものの、外へ出る気など本当は無かったのだ。
 しかし、突然大きな音が響いて宮殿内が激しく揺れて・・・、一体何が起こったのかとおそるおそる外へ出てみたところ多摩がひとりきりで倒れていた。
 見れば酷い傷を負っていて、放っておけば傷口は拡がる一方のそれは、まるで呪いにかかっているかのようだった。


 どうしたらこんな傷を負えるの、
 誰が多摩さまをこんなに傷つけたの・・・


 横たわる多摩の顔を不安気に見つめながら、伊予はそっと彼の手を握りしめた。


 けれど同時に、今起きていることを頭のどこかで喜んでいる自分がいる事に彼女は気づいていた。


 こんなにも彼の側に近づけたことがあっただろうか。
 意識が殆ど無いとは言え、私は今、多摩さまに触れているんだわ・・・

 多摩が傷ついて苦しんでいると分かっていても、そう思ってしまう自分を止められなかった。




「・・・・・・・・・っ・・・、・・・・・・美・・・濃・・・・・・」


 まるでその気持ちを見透かすように、形の良い唇が自分ではない別の女の名を呼ぶ。
 一瞬で現実に突き落とされた伊予は、夢を見ることすら叶わない想いに心が千切れそうになる。



「・・・・・・美濃・・・・・・、・・・っ、・・・すぐ・・・に、・・・・・・・・・おまえ・・・・・・捕・・・て・・・・・・」


 伊予は唇を噛み締めて、多摩の手を握りしめた。
 彼がその名を口にする度に、心に傷がついていく。

 いつだって彼の心の中を占めているのは美濃だ。
 虚ろな意識の中でさえも彼女しか思い出せない程に、多摩の中には美濃しか住んでいない。


 それが分かっていても・・・まだ私は・・・・・・



「・・・多摩さま・・・・・・、多摩さま、多摩さま、・・・ッ」


 掻き消すように多摩の名を呼ぶ。
 今だけはどうか彼女の名を呼ばないで欲しい・・・浅ましい想いが胸の中を支配して止まない。


 その時・・・ふと、多摩の眼が伊予を捉えた。

 間近で見る彼の紅い瞳に呑み込まれそうになりながら、伊予は言葉を失う。
 多摩は彼女に握られている自分の手に視線を移し、沈黙したままもう一度伊予に視線を向けた。


「・・・・・・呼んだか」

「・・・・・・・・・ッ・・・・・・」


 自分の声に多摩が応えてくれた・・・そんな気がして伊予は大粒の涙を零す。
 真っ直ぐに此方を見るその瞳の美しさに胸がいっぱいになって、彼が向ける眼差し全てが自分のものになったらどれだけ幸福だろうと思った。

 だがそんな想いなど知る由もない多摩は、ほんの少し眉根を寄せるだけでそれ以上の反応は無く、伊予に握られた手を静かに離して上体を起き上がらせた。


 離れた手がまだ彼に触れていたいと叫んでいるみたいに切ない。

 苦しい・・・悲しい・・・寂しい・・・
 溢れ出る想いに胸が潰れそうだった。


 このままでは乾の言った通り、何も変わらないだろう。
 叶わない想いを抱え続けて、多摩の背中すら見ることが出来ず、そうやってずっと何もかも胸にしまい込んだままで。



 ・・・もう、・・・無理だわ・・・・・・とても抱えきれない。




「・・・多摩さま・・・、・・・お願いです。今日は美濃様の所へ戻らず、このまま眠っていてください・・・・・・ッ」


 伊予は多摩の腕にしがみついて懇願した。
 この些細な願いが聞き入れられるかなんて、そんなものはどうでもいい。

 もう限界だった。
 胸にしまい続けるには重すぎて、多摩の存在が近くにあったところで、側にいることすら赦されないのが苦しい。


「・・・・・・それは出来ぬな。あの男が美濃を連れて逃げたのだ。一刻も早く連れ戻さなければならない」


 その言葉に伊予は驚き、誰ひとりとして戻ってこない理由を知った事で、無意識のうちにしがみついた腕に力が籠もっていくのを感じた。



 ・・・なら、美濃様が・・・・・・もしも、このまま戻らなければ・・・・・・


 そんな邪な想いが過ぎる。




「・・・厭ですッ! 行かないでください・・・ッ」

「・・・・・・伊予?」

「私の腕、気持ち悪いでしょうか? 触られると不快だって・・・やっぱり思いますか? でも私はずっと多摩さまに触れたくて・・・・・・ッ、こうしているだけで夢みたいに幸せなんです・・・っ!!!」

「・・・・・・・おまえの言っている事がよく分からない」

「私はもう・・・ッ、神子に捧げられた女じゃありません。・・・ただ・・・多摩さまをずっとお慕いしてきただけです・・・、貴方が好きで堪らないんです・・・っ」


 多摩は腕にしがみついて泣き縋る伊予を不思議そうな顔をして見ていた。
 彼にしてみれば、伊予が内に秘めていた気持ちなど言われるまで知る由もないことで、まして殆ど気に掛けるような事もなかった存在の彼女が自分に想いを寄せているとは思いつきもしないことだった。




「・・・それでおまえは何を望む」


 ほんの僅かに沈黙した後、彼は低音のよく通る声で伊予に問いかけた。


「・・・・・・え?」

「ただ触れるだけで終わりに出来るなら言う必要も無いだろう。その先に望むものがあるから言葉にしたのではないのか?」

「・・・あ・・・・・・」

「ちがうのか?」

「いいえ・・・ッ、・・・・・・私は・・・もっとお話をして・・・心を通わせて・・・・・・多摩さまに触れて欲しいと・・・・・・美濃様みたいに愛されたいと・・・・・・ずっとずっと・・・・・・」


 この腕で抱きしめられて、この指で触れられて、

 息が出来ない程唇を重ね合わせ、見つめられ、身体中で愛されたい。


 募るばかりの想いはとどまることを知らずに、報われないと分かっているのに邪な想いばかりが膨らんで、乾に抱かれながら頭の中ではそんなことばかり考えていた。



「・・・・・・そうか」


 多摩は少し考えるように俯き、そこで初めて拡がる一方だった胸の傷がそれ以上の拡がりを見せていないことに気がついた。
 胸に手を当て、傷口からあふれ出ていた血も殆ど止まっていることを確認し、紅い目が冷酷に煌めく。
 それは多摩の全てを呑み込もうと侵蝕を続けていた傷口よりも、彼の極めて強い生命力が勝っていたと言うことを意味していた。


 ───所詮は俺が創りだした物ということか。


 それでもまだ傷口は熱を持って痛みを与え続けている。
 だが幼い頃より生死を分けるような目に遭ったとしても放置されるしかなかった彼にとって、痛みを感じることよりも、これ以上無駄な血を流す必要が無くなった事の方が大きかった。
 美濃を捕まえようとしている最中にいちいち意識を失っている場合ではないのだ。

 そして一途に見つめる伊予の視線を未だ不思議に感じながらも、常に別のことで頭を埋め尽くしてしまう自身の答えはどこまで行ってもたったひとつなのだと思うと、捕らえられているのは寧ろ自分の方なのではないか・・・と彼は思うのだった。



「・・・こうしておまえに触れられても、昔のように不快だとは思わない」

「・・・・・・多摩さま・・・」

「だが、それ以上に何も感じない。・・・俺が美濃に触れるのは欲しくて堪らないからだ。おまえが望むような感情を美濃意外に持てるとはとても思えない」


 彼が欲しいと思うのは最初から美濃だけだった。

 渇望する心が強い執着を生み、一度でも触れてしまえば僅かに離れることすら苦痛を感じる程に溺れ・・・。

 何故彼女でなければ駄目なのか・・・そんな事は考えるだけ無駄だった。
 自分の中の全ての感覚が美濃をどこまでも求めて止まない、理屈で語れるくらいなら熱を冷ますことだって出来ただろう。

 熱は冷めるどころか今も尚、上昇を続けているのだ。


「俺には、愛も恋も・・・それがどんな感情なのか、どういうものなのかすら、未だに掴みかねて遠い存在に思える。もし美濃に抱く感情がそうだと言うのなら・・・身も心も持って行かれるようなこの狂おしい感情がそうだというのなら・・・俺はこの先もずっとあの子以外を欲しいとは思えないだろう」


 迷いのない言葉は、それ以上無いくらいの美濃への告白だった。


 伊予は唇を震わせながら溢れる涙を拭うことなく流し続けた。

 彼の心につけ入る隙など無いことは最初から分かりきっていた事だ。
 なのに押さえきれない想いは遂に言葉となって多摩にぶつかり、浅ましい想いまで吐き出して・・・


 これから先、どんなに思い焦がれたとしても、もう二度とこんな風に触れることは出来ないに違いない。

 こんな風に・・・彼の腕が温かいと感じることは出来ないのだろう・・・・・・




「・・・・・・はい」



 伊予は小さく頷き、素直に彼の腕から離れた。




「もう行く。おまえはここで待て」



 立ち上がる多摩の背中を見上げ、追い縋りたい気持ちを懸命に押さえ込み、伊予はこの想いが風化することなどあるのだろうかとはらはらと涙を零した。


 千切れそうな、この強い想いが浄化する日が来るなんて、今はとても考えられない・・・・


 だけどどんなに形を変えたとしても、彼を好きだと想う気持ちは、この先もずっと変わらないような気がする。
 そして、想いを伝えたことを絶対に後悔はしないだろうと思うのだ。



 多摩さまは里の者をどう思っているか分からないけれど、少なくとも私にとって貴方は絶対だった。


 だから何があっても、私は多摩さまの味方をしてしまうんだわ・・・



 これからもずっと、それだけは変わらないと誓えるもの。









その5へつづく


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