『呪縛』
○最終話○ 静かなる世界(その9)
多摩は美濃の唇に噛みつくように激しく貪った。 巽が見ている前にも関わらず、多摩の思い通りに躾けられた唇は反射的に開き、彼の唇と舌を容易に受け入れてしまう。 味わい尽くすように丹念に咥内を蹂躙する舌の動きで、湿った音が口元から漏れ、逃げ場などどこにもない。 次第に苦しくなってくぐもった声で小さく藻掻く美濃の手を掴み、多摩は名残惜しそうに唇を解放してその小さな顎を甘噛みした。 ───逃がさない・・・、 おまえがどんなに俺から逃れたくとも、追いかけて捕まえて縛り付けて・・・・ ・・・・・今度こそ永遠に逃げられぬよう、・・・・・・俺はおまえを・・・ ・・・俺は・・・・・・、・・・・・・・・・・・・ 「・・・・・・・・・・・もう、・・・・・・これ以上は、・・・・・・おまえを壊しそうだ・・・・・・・・・」 不意に小さく吐き出された呟きが、妙に美濃の胸に突き刺さる。 しかも一瞬見えた多摩の瞳は不安定に揺らめいて、唇を震わせているようにも思えた。 ・・・・・・多摩? けれど本意が掴めず口を開こうとした時には、既に多摩は美濃から離れ背を向けていた。 彼は立ちつくす巽に向かって皮肉を込めた笑みを浮かべ、見せつけるように濡れた己の唇を美味そうに舐めあげる。 美濃の唇を味わっただけでその目は欲望に濡れ始めていた。 「・・・わかるか? おまえにこの狂気が・・・、触れたい、触れるだけでは止まらない、泣き叫ぶこの子を組み伏せて際限なく求め、気を失った身体にさえも欲情し貪り続ける・・・・・・、・・・止まらない、果てしない、欲しい欲しいと、尽きない欲求がその上を望む。この飢えは一体何だ、何故これ程渇くのだ・・・」 彼は一体何を言おうとしているのか・・・ その疑問は巽だけでなく、多摩の背中に立つ美濃にも抱かせた。 「巽・・・俺は何度も考えた。俺が欲しいものは別のものだったのか、違う何かだったのか。だが、いつも堂々巡りで終わってしまう、考えても考えても答えが出ない」 「神子・・・殿・・・」 「俺は神子ではない・・・求められるものとは真逆の存在だ。・・・・・・どうしておまえはいつまでも俺を神子と呼び続ける」 「・・・・・・っ」 「何故俺は生まれた、神子などと呼ばれ実感したことなど一度もないのに、それが天命と誰もが云う。ならば、神子に不必要な力を持ったのは何故だ、それも天命とおまえたちは云えるのか? 美濃を奪うためにしか俺には使い道を見いだせない・・・その為にしか使わない俺は、それでも神子なのか?」 神子という存在と自分はあまりにかけ離れている、そんなことはとうの昔から分かっていた。 誰よりもそれを理解しているのは多摩自身だった。 俺は神子ではない。 そんなものはこの世に存在しない、皆が夢に見すぎた幻だ。 かつての世界を愛しいと泣く美濃を見ても、巽と抱き合う美濃を見ても、やはり変わらず云いようのない焦燥を感じて心が荒れ狂うばかり。 美濃の夢見る世界に、俺はいない。 俺がいない世界を夢見ることすら赦せなくて、それすら奪おうとまた手を伸ばす。 このどこまでも底のない欲に、俺はとても勝てる気がしない。 多摩は己の胸に指を這わせ、・・・そしてギリ、と奥歯を噛み締めた。 「───狂おしい・・・っ」 泣いても喚いても止めてやれない貪欲な己の欲望に心底辟易する。 欲しがっても欲しがっても届かない、求め続ける程に自分以外のものに夢を抱く美濃の存在が遠い。 縛り付けないと逃げてしまうと言って、幾重にも鍵をかけて閉じこめるのを止められない。 このまま狂うほど抱いて、おまえが壊れるまで抱いて、壊れても抱いて、そのうち俺も壊れる。 ───俺達には破滅しかない。 「・・・・・・・俺が創ったものでは俺は止まらない。傷が塞がれば、また美濃を求め歩き出してしまう・・・俺が在る限り延々と果てしなく・・・」 「・・・・・・それは・・・どういう・・・・・・」 「だが、巽・・・・、俺はひとつ、大きな事を忘れていた」 「・・・・・・・・・」 「今の俺を止めることなど、実はそれ程難しいことではなかったのかもしれない。・・・・・・・・巽、・・・・俺はあの頃よりは幾分痛みを知った気がするのだ・・・」 ───何だ・・・・・・何を言おうとしている・・・・・・? 「・・・・・・・・・だから、巽よ・・・試せ。・・・俺が人並み程度になったのか、あの時のように・・・」 巽は普段の彼とは違う空気を感じ、彼にこの先を言わせてはいけないような気がしてならなかった。 まだまともに始まってもいないものを、自ら終わりにしようとしているような気がして・・・ 美濃を解放しようと・・・しているのではないかと。 「・・・・今度こそおまえの力で俺を永遠に止めてみせろ」 「・・・・・・ッ!!」 巽は突然下された命令に唇を噛み締めた。 そんな巽の姿を見て多摩がうっすらと嗤う。 おまえは俺に逆らえない。 かつての王に向けていた忠誠全てが今は俺のもの。 命令には忠実に。 今までも、美濃を奪ったあの時でさえも・・・。 だがこれこそが本来のおまえの望み、俺を消したいと奥底では疼いて堪らない筈だ。 いっそのこと跡形もなく、何も残らないくらいに粉々にしてしまえ。 それくらいしなければ、離してやれない。 今の俺ならば、或いはあの時消えていった者達のように・・・・・・ ───だが、 「・・・・・・ばかぁ・・・ッ!!!」 唐突に、涙混じりの声と共に柔らかな感触が多摩の背中を包んだ。 「・・・・・・っ・・・、・・・」 ぴったりと背中にくっついて、後ろから多摩の腰に手を回して・・・ いやいやをするように首を横に振り、背中に額を押しつけ。 「・・・・・・多摩・・・、多摩、多摩、多摩」 「・・・・・・」 多摩は訳が分からず沈黙した。 同時に、血が滲む程唇を噛み締めながら、目の前に立つ巽が青ざめた顔をして拳を握りしめている姿が目に入る。 何をしている・・・ 言おうとすると、その言葉を奪うように巽が口を開いた。 「───・・・っ、・・・・・・誰の命令であろうと、・・・・・・それだけは・・・出来ません・・・・・・・・・」 「・・・なに・・・」 予想外の答えに多摩の眼が大きく見開かれる。 巽は血が滲んだ唇を震わせながら、悲痛な眼差しで首を横に振った。 「・・・・貴方は・・・なにも分かっていない。そんな事を言って美濃さまをまた泣かせて・・・・・・、どこまで残酷なのですか・・・っ」 美濃・・・? 眉を顰め、彼は背中から回された美濃の手を静かに見つめた。 「・・・そんなの・・・っ、巽に命令しないで・・・ッ!」 「・・・・・・」 「どうして酷いことばかり言うの? 肝心な事は何一つ言わない癖にッ、何で最期まで言わないで終わりにしようとするの!?」 「・・・・・・何のことだ」 肝心なこと・・・そう言われても多摩には思い当たる言葉など何一つ無かった。 美濃が何を思ってそんな事を言い出しているのか、巽が自分の命令を何故聞こうとしないのか、今の状況全てが理解出来ない。 「・・・・・・・・・一回くらい、・・・好きって言ってよぉ・・・ッ」 ぎゅう、と腰に回した手に力を込め、か細い声で嘆願する。 装束が皺になる程強く掴んだその手は怯えるように小刻みに震え、背中から幼い泣き声が伝ってきた。 ・・・・・・好き? なんだそれは。 それが肝心な事だと言うのか? 「・・・意味も分からぬのにそれを言ってどうなる」 「・・・・・・だって私ッ・・・そうじゃなかったら、何で側にいろって言われるのか分からないよっ!!」 「・・・・・」 「何で全部取り上げるの? ひとつくらい残してよっ、取り上げないでよ、分からないって言わないでよ!! ・・・・・・誰より多摩が憎いよ・・・ッ、憎くて、憎くて、・・・絶対に、一生赦せない・・・・っ!!!」 美濃の震えは一層大きくなり、それでも多摩を離そうとはしない。 「・・・だけど、・・・そんなのいや、・・・・うぇ・・・っ、・・・・・逃げても追っていいよ、捕まえて俺のものだって・・・言っていいよ・・・」 「・・・・・・美濃・・・・・・?」 憎くて赦せないと言う言葉と相反する言葉を吐き出す美濃の心が分からない。 何故そんな事を言い出すのか、何を取り乱す事があるのか。 憎い、赦さない、そんなことは分かっている。 誰より強い憎悪を抱けばいい、そう思ってきたのだ。 だから美濃にとって、これは唯一の・・・・・ 「・・・・・・・・いなくならないで、側にいて・・・、・・・・・多摩が誰より愛しいよ・・・」 「・・・・・・・・・っ」 ───いとしい・・・・・・? 愛しいなど・・・・・ どういうつもりで、おまえはそれを言うのか・・・ その言葉にどれ程の意味がある。 拒絶して厭がって、そのくせ俺を受け入れようというのか。 愛しい、愛しい、愛しい・・・・・・、それはどこからやってくる感情だ。 どうしておまえは俺の一番深い部分に、易々と入り込んでくる─── 多摩は震える美濃の手を己の両手で掴み、その小さくやわらかい手に頬を押し当てた。 「・・・・・・・・・多摩・・・っ」 愛しいとはなんだ。 小さな手、やわらかい身体、甘い香り─── 例えば、あの頃よりもおまえをあたたかいと思うことが・・・ ・・・・・・それが正体だとでもいうのか・・・? だがこの感情は常に変化を続け、全く違う形で狂おしいまでの激情を生み出し、時に泣かせ、何度も傷つける。 美濃の望む言葉に相応しい感情とは到底思えない。 ならば、おまえに対するこの想いは何だ。 ただ、俺は・・・ 「・・・何よりも美濃が欲しくて堪らないだけだ。掴んだら手放せない、側に置いて触れていたい。狂おしい程におまえが必要なだけだ。・・・・・・何故数え切れないほど身体を重ねてもおまえの心が分からない、どうしておまえを遠く感じ続ける、いっそ俺の一部になってしまえば何もかも満足できるのか? ・・・俺には全てが不確かすぎて、この果てしないものの答えを掴めるような気が全くしない」 小さな手に唇を寄せながら多摩は静かに目を閉じる。 どうやってこの想いを形容すればいいのか分からない。 愛しい・・・それだけは、美濃が口にするだけで胸の奥であたたかいものが融けていくようだと思った。 だが、それを易々と自分が口に出来る言葉ではない事くらいは分かる。 何故俺はこんな言葉ひとつ満足に囁くことが出来ない・・・・・・ 「・・・・・・っ・・・、・・・多摩のばかぁッ、私だって多摩の考えてる事なんて分からないよッ、・・・だけど、ひとつになったら触ることだって出来ない・・・っ、手を繋ぐことも抱きしめることも、朝起きた時の温もりだって・・・ッ、わ、私はそっちの方がいいよ、だって私、多摩の手・・・あったかいのちゃんと知って・・・、知ってるんだから・・・・・・ッ」 「・・・・・・・・・・・・」 「・・・・・・・・・・そ、・・それでも・・・ッ、多摩の一部って言うなら・・・、そんなの・・・とっくなんだよ・・・・・っ、だって、私の中はもうずっと前から多摩で埋め尽くされてる・・・ッ、こんなにしたのは多摩の方じゃない・・・ッ!! 今更無かった事になんて出来るわけ無いじゃないッ!!! 私から色んなものを奪ったくせに、壊したくせに、どうして今更手放そうとするのよっ!!!! ばかぁああっ!!!!!」 ・・・俺の手が・・・あたたかい・・・? 美濃が・・・・俺で埋め尽くされている・・・・・・? そんな事は考えたこともなかった。 美濃がそんな風に思っているなど気づきもしなかった。 何一つ見逃さないよう細心の注意を祓っていたのに、おまえはいつの間に考えもつかないところに立っているのか・・・・・・ 多摩は美濃の言葉を信じられない思いで受け止め、静かに瞳を揺らした。 「・・・・・・・・・・俺には難解でしかないものを、・・・おまえは簡単に答えを見つけられるんだな・・・・・」 「簡単じゃないもん、簡単のわけないんだからっ!!」 「・・・・あぁ・・・・・・そうだな・・・」 多摩は喚き散らすのを背中に感じながら、ゆっくりと目を閉じた。 これ以上は今の自分にはどうしようもないのだ。 美濃のように答えを見つけるには、自分にはまだ足りないものが多すぎるらしい。 だが、それもまた・・・ 彼女が共にいればそう遠い未来ではないのかもしれないと・・・・ 不意に目の前で二人の様子を静かに見つめていた巽と目が合う。 視線を合わせた途端、巽は僅かに笑みを浮かべてみせた。 「・・・・・・・もう二度と手放せなくなったぞ」 多摩が皮肉を込めて言うと、巽は首を振って笑った。 「主の命を奪う事は、私の誓いのどこにも存在しません」 「はっ、命令に忠実なだけの犬かと思えば、おまえの忠義というものには独自の法則があったか。・・・それで唯一の機を逃すとは愚にも付かぬな」 しかし、それ故にかつての王を殺す事も出来なかったか。 妙に納得した多摩だったが、結局あのように自分が誰であるかも見失ってしまう程憎悪に支配された王の最期を知ったとしても、巽は同じ答えを出すのか・・・今となっては意味もなくなってしまった疑問でしかないが。 だが少なくとも、巽をねじ曲げた忠誠から解き放ってしまえば、もっと違う形の結末があった事は確かだ。 本来の彼であれば多摩を赦しはしなかっただろう。 それをしなかったのは、乾の願いを聞き入れたからなのか、それとも・・・。 ───俺が死ねば、おまえも美濃も解放される・・・それで全てを終わらせる事が出来たものを。 多摩は未だ背にしがみついたままの美濃の手をとって、そのまま彼女を自分の腕の中へと抱き上げた。 泣きはらした真っ赤な目が彼を真っ直ぐに見つめている。 自分のために泣いているのかと思うと、胸の中が甘くくすぐられたようなもどかしさで溢れてくる。 多摩は知らずのうちに笑みを浮かべ、美濃の頬に唇を押しつけた。 「・・・おまえ・・・昔から俺がいないとイヤだと駄々をこねていたな」 「・・・うっく・・・っ、イヤだもん」 「・・・だから戻ってきたんだろう・・・此処に・・・」 美濃は多摩の首に腕を巻き付け、小さく頷いた。 時折涙が止まらずしゃくり上げる彼女の息づかいを感じて、多摩はそのやわらかい身体を壊してしまわないように少しだけ力を込める。 「巽、戻るぞ、・・・俺には決めなければいけないことがあるんだろう?」 「・・・そうです、・・・神子殿」 変わらずそう呼ぶ巽に苦笑しながら、多摩は美濃をやわらかく見つめた。 それを見た巽は、誰よりも紅い瞳が陽の光を浴びて、宝石のように煌めいている姿に目を細める。 ───美濃さまといる時の彼は、何と穏やかな表情を見せるのだろう・・・ 大きな犠牲と引き替えに、簡単には赦されない一生消えない傷が多摩にも残ったに違いない。 そうでなければ終わりにしようなどと彼が思うはずがない。 だが、多摩には他の方法など思いつかないほど、腕の中にある彼女の存在が大きすぎて、簡単なものが複雑になってしまう程難しかったのだ。 とても長い暗闇の中を彷徨いながら、藻掻けば藻掻く程・・・ 溺れていく自分を止められなかったのだ。 その10へつづく Copyright 2010 桜井さくや. 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