『約束』

○第1話○ すべては突然起こるもの(後編)







 そして、HRが終わった直後の事だった。


「・・・美久、帰るよ」

 何故か美久の教室の扉の前に立つ牧口レイが、当然のように名前を呼ぶ。
 彼は昼休みに会った時と変わらない涼やかな顔で、躊躇無く教室に足を踏み入れ此方にやってくる。
 美久はすぐさま帰るつもりだったので、バッグを手に持ったまま呆然と目の前に立つレイを見上げる事しかできなかった。


「まきぐ・・・、・・・・・・、・・・・・・れ、レイ・・・」

 今度『牧口くん』と呼べば犯すと、そう言った彼の言葉を思い出し、慌てて言い換える。


「・・・まぁ、ギリギリOKかな」

「なっ・・・っっ」

 顔を真っ赤に染めて彼を睨む。
 それを彼は眼を細めて唇を綻ばせ、美久のバッグを手に取った。


「じゃ、帰ろう」

「・・・え? ど、どうして・・・」

 状況を飲み込めず呆気にとられていると、既に彼は教室から出ようとしていた。
 よく分からないまま、美久はとりあえず後を追いかけるべく走り出す。

 ・・・が、

「ちょっと、何、何で!? どうしてよ〜〜っ!?」

 にわかに騒ぎ出す女生徒たちに呆気なく捕まってしまった。


「・・・わ、私にもよくわかんな」

「そんなわけないじゃんっ! 何で牧口くんが美久を迎えにくるわけぇ!?」

「いや・・・本当に・・・たぶん何かの間違い・・・」

 説明らしい説明が出来ず、周りを囲まれ途方に暮れる。
 だが、教室を出たところで美久が着いてこない事に気づいたレイが、女子に囲まれている彼女を見て静かに言い放った。


「美久、はやくおいで」

「あ、ごめんなさい」

 反射的にそう言ってしまった事で、周囲は彼と一緒に帰るような関係だと思っただろう。
 しかし、美久にはそれを自覚する余裕は無く、レイの隣へ駆け寄り、どうして自分を迎えに来るのかと、困惑の目を彼に向けるだけで精一杯だった。


「いいから帰るよ」

「・・・あっ!?」

 彼は美久の手を取り、注目を浴びていることなどお構いなしに教室に背を向け歩き出す。
 大きな手の感触がやけに頭の芯を刺激した。


「やだっ、・・・はなしてよ」

 美久は真っ赤になり、離れようと抵抗を見せた。
 だが耳元で、『離したくないって言ったじゃない』と、吐息混じりに囁かれ、益々顔を真っ赤にして俯き、その隙に強く引き寄せられてしまう。

 周囲から感じる視線が・・・・・おそろしい・・・ッ・・・・

 レイは困惑と羞恥で余計に俯いてしまう美久の様子を、満足そうに見つめていた。

 

 

 

 

▽  ▽  ▽  ▽


 今日は一体なんなのか・・・。
 美久は自分がどこへ向かっているのか分からないまま、ただレイに連れられるまま、ひたすら歩き続けていた。
 出来れば今日はもう彼に会いたくなかった。
 なのに、そんな考えを見越したように逃げる隙を奪われてしまったように感じるのは気のせいではないように思う。

 ・・・・・・逃げる?
 そんな大げさな・・・、流石にそこまでは。
 いやいや、無理矢理キスされれば誰だってそうなるはず。
 でも・・・不思議と嫌悪感は抱いていない。
 こうして手をつないでいても嫌だとは感じていなかった。
 ・・・だったら何? 私、どうしたいんだっけ・・・


「オレ、ここの一番上に住んでるんだ」

 ぐるぐると考えを巡らせていると、見知らぬ高層マンションの最上階を指差してレイが言う。


「・・・・・・へえ」

 美久はぼんやりと相づちを打って、彼と一緒にエレベータの中に乗り込んだ。
 そして、ふと我に返り、漸くきょろきょろと美久が辺りを見回したのは、既にエレベーターが最上階に到達してからだった。

 ───ん?
 あ、・・・あれ・・・、・・・ここ、どこだっけ・・・!?

 心の中で激しく動揺する。
 けれど、その疑問を口にすることが無かったのは、それ以上の衝撃がその後に待っていたからだ。
 自分の家が何戸も入ってしまうくらいの広さを持つ最上階フロアに人の気配は無く、廊下を少し進んだところに大きな扉がひとつだけあるのみ。
 まさかと思う間もなくその扉に入っていくレイを見て、此処が全て彼の住まいだと知り、美久は驚きで声も出なかった。
 そのうえ、見たこともない程豪華な内装は美久を固まらせるのに十分で、もしかしたら彼はどこぞの御曹司なのだろうかと目をしばたかせる。
 極々普通の家庭に生まれ育った美久には、世の中にあるレベルの違いというものを目の当たりにして、完全に縮み上がってしまう。

 ・・・て、天井がもの凄く高い・・・
 高そうな絨毯・・・土足で良いのかな、・・・これ、汚しても弁償できないよ・・・っ
 ・・・うわ・・・、・・・なんで壁に鹿(らしき動物)の頭が生えてるの・・・

 見るもの全てが現実離れしすぎていて、ついつい挙動不審になってしまう。
 まるで迷い子のようにきょろきょろとして、美久は部屋の隅に立つのが精一杯になり、一歩も動けなくなってしまった。


「どうしたの? 適当に座って」

 声を掛けられビクっと震え、慌てて振り返る。
 シャンデリアと絵画と骨董品を背景にしても馴染んでいる彼の立ち姿にくらっとした。

 もしかしなくても、私って有り得ないくらい場違いだ・・・


「あっ、あの・・・私・・・帰・・・」

「何か気に障ることでもあった?」

 そうじゃないけど、と首を横に振るが、場の雰囲気に圧されて萎縮する。


「こういう・・・、凄いところは初めてで緊張するの」

「・・・凄い?」

 なにが? と首を傾げるレイ。
 その時点で意見がかなり食い違っているのだが、彼に理解できない事が美久には理解出来ない。
 一般庶民の感覚はどうせ彼には分からないなどと、彼をよく知らないくせに若干卑屈な思考も浮かんでしまった。


「オレだけなんだから緊張する事無いだろう」

「・・・え、・・・レイ・・・だけ? ご両親は・・・」

「そんなものいないよ」

「・・・ご・・・ごめんなさい・・・っ!」

 とんでもない事を聞いてしまったと思い謝罪する。
 だが、彼には謝罪される理由が分からなかったようで、眉間に皺を寄せて少し考え込むような表情を見せた。


「・・・・・・・・・あぁ、もしかして、死んだとでも?」

「・・・っ」

「ちゃんと生きてるよ。一緒に住んでないだけ」

「あ、そうなんだ・・・勘違い・・・よかった」

 最後のよかったの言葉にレイの口元が皮肉気に緩む。


「・・・じゃあ、レイはこんな広い家に一人で住んでるの?」

「あぁ」

 彼には何か事情があるのだろう。
 軽はずみにその事情に首を突っ込んではいけないと思い、美久は黙り込む。
 だが、彼は美久のそんな様子に苦笑してソファに座るよう再度促した。


「別に聞いても構わないけど。オレのことワケ分からないと思ってるんだろう?」

「・・・、・・・えーと」

「そんな顔しなくて良いよ。美久に聞かれたことならちゃんと答えるから」

 そう言って見つめる柔らかい眼差しに吸い込まれそうになる。
 近くで見るほど、男の人に使う形容詞としては失礼かもしれないけれど、彼はとても綺麗でどきどきしてしまうのだ。
 美久はとりあえず当たり障りのない話をと考え、レイの顔をじっと見上げた。


「あの・・・じゃあ、レイ・・・って、コンタクト・・・じゃないよね、その目って・・・・・」

「・・・え?」

 光の加減で何色にも見える不思議な瞳だ。
 噂が本当ならハーフということらしいが、真っ白に透き通った肌もそれが理由だろうか。
 髪の色は染毛すればいくらでも変えられるが、とてもナチュラルで明るい薄茶色は陽に透けると輝きを増して金色に近くなる。


「あぁ、コレ・・・本物。変だよね」

「えっ、そうじゃなくて、綺麗だなって思って」

「綺麗? まさか、・・・優しいね、美久は」

 小さく零した笑いは、どこか自虐的な笑みに見える。
 綺麗だと言ったのは本当なのに、彼はそれを信じようとはせず、さらりと流されてしまった。


「・・・あの、ごめんなさい」

 美久はやっぱり失礼な事を聞いたのかもしれないと思って謝った。
 何でも答えると言われても、どうしても一歩引いてしまう。
 この広い家も、両親と一緒に住んでいないことも、彼の容姿すら、美久にとっては全てが普通じゃない事に思えて、そのどれもが自分などが聞いていいものなのかと戸惑ってしまう。


「どうして謝るの? 美久は謝ることなんて何もしてないだろ?」

「・・・でも・・・・・・」

「あのね、オレが今日ここへ連れてきたのは、少しでも早く美久との距離を縮めたかったからなんだよ。もっと話したいんだ」

「・・・・・・そうなの?」

「そうなの」

 だからもっと話そうと笑いかけ、彼は美久の隣に座った。
 体温を感じる事が出来そうな距離が恥ずかしくて、美久は小さく俯き、その様子にレイは目を細める。
 そして薄く開いた彼女の唇をじっと見つめ、ゆっくりと自分の唇を寄せた。


「え、あ・・・っ、わっ」

 彼の吐息を間近に感じて、漸く自分の状況に気づいた美久は、顔を背けてガチガチに身を固くして目を瞑る。
 当然の反応だ。ここまで大人しく着いてきたのは混乱によるものが大きく、彼女が此処にいる自体がなにかの間違いのようなものだ。
 大体、殆ど初対面と言っていい相手とのキスをそう易々受け入れられることの方があり得ない。
 レイは堅く目を閉じて固まってしまった美久の姿に、それ以上近づくことは断念したのか表情を崩して笑った。


「ははっ、ごめん、今日はもうやめといた方がよさそうだね」

 その言葉に、思わずホッと胸を撫で下ろす。
 けれど、笑った顔がどことなく哀しげで、ほんの少しだけ胸が痛くなった。


「美久」

「な、なに?」

「・・・・・オレを好きになってよ」

「・・・え?」

「オレが美久を想う気持ちの半分でいい。・・・オレを好きになって」

「・・・・・・」

 美久にはよく分からなかった。
 どうして彼がこんな事を言うのか、その瞳に映っているのがなぜ自分なのか。
 けれど・・・・・・、その寂しそうな瞳が美久の胸をどうしようもなく苦しくさせる。


「レイは、ひとりぼっち・・・なの? ・・・だから、そんな目をするの?」

 びくん、とレイの身体がふるえた。


「レイのことは、正直にいってよく分からない。・・・でも・・・なんだか・・・そんな顔されると・・・ほっとけない」

「・・・・・・それはどういう意味?」

「・・・言葉通り・・・ほっとけないって意味だけど・・・」

「本当にそれだけ?」

 自分でも、よくわからなかった。
 何が言いたいのか、何を伝えたいのか。
 寂しそうなんていう理由だけで、普通はこんなふうに思ったりしない。
 これまでレイとは何の接点も無かった。
 なのに、こんな些細な事で、どうしようもなく感情が揺れ動くのは何なのだろう。
 こんな自分は知らない。まるで彼に会って、止まっていたものが一斉に動き出したみたいで落ち着かないのだ。
 そして、ふと、美久の頭の中に、幼い頃の記憶が過った。

 ───『美久(みく)・・・もう二度と思い出してはいけない。忘れなさい、いいね? その方がきっと幸せだよ』

 それは悲しげに呟く、今よりも若い父の姿だった。
 美久は時折、その姿が頭に過ることがある。
 けれど、それが現実だったのか夢だったのかは曖昧で、考えているうちにいつもその時の父の言葉は遠ざかってしまう。

 何で今こんなことを思い出すんだろう?

 最近では頭に過ることすらなくなっていたというのに、このタイミングはあまりに唐突だった。
 おかしい、・・・今日はずっと変なままだ。


「・・・・・・私・・・お昼からずっと変なの。自分じゃないみたい。・・・・・・これは、なんなの? レイにはわかる・・・?」

 彼は美久の言葉に目を見開いている。
 蒼く輝く瞳がゆらめき、それがとても綺麗で胸が苦しい。


「・・・さぁ、・・・オレにはよく分からない。・・・だけど・・・気のせいかな。なんだか期待しても良いって言われてるみたいに聞こえる」

 そう言って静かに微笑む眼差しはとても柔らかくて思わず息を飲む。
 不意に伸ばされた腕に強く抱きしめられ、一瞬緊張が走って美久は身を捩ろうとしたが、またしても感じる不思議な感覚に囚われて無意識のまま抵抗を止めた。
 美久はレイの顔を見ようと視線をあげる。
 けれど、彼は美久の肩に顔を埋めてしまい、今どんな顔をしているのか窺い知る事は出来なかった。


「・・・・・・まいったな。・・・本当は・・・・・迷惑なら消えてもよかった。美久が幸せなら、それで良いと思ってたんだ・・・」

 彼は掠れる声で小さく呟く。
 どうしてそんなに哀しいことを言うのだろう。
 告白をしているのはレイの方なのに、その言葉からは躊躇いさえ感じさせるのが不思議だった。
 美久はこのまま本当に消えてなくなってしまいそうな哀しい言霊に胸が痛くなり、自然と彼に腕を伸ばしていた。


「・・・・・・・・・・レイの傍に・・・此処にいてもいいの・・・?」

 美久はなぜか全く違和感を抱くこと無く彼の耳元でそう囁いた。
 自分でも何故そんなことを言ったのかわからなかったけれど、レイはビクリと身体をふるわせて顔を上げ、宝石のような輝く瞳を静かに揺らめかせる。
 彼の表情一つだけで、どうしてこんなに苦しくなるんだろう。
 屋上での会話を思い出す。
 ずっと待っていたとレイは言った。
 その言葉はとても気になるものだったが、やはりよく分からず、どこか懐かしいその腕の温もりに美久は目を閉じ、それ以上考えを追いかけることはしなかった。











第2話へつづく


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