『約束』

○第2話○ 予想外の出来事(その1)







 ───『牧口レイ』という生徒は、良くも悪くも目立つ生徒だった。
 授業中に居眠りばかりしてノートもまともに取らず、明らかに問題を感じさせる要素を充分に持った生徒だったが、成績が首席から外れた事がなかった為に、教師達も強く注意を促せず彼の扱いには困っている様子だった。
 運動に於いても、『手を抜いている』顔をしながら、どの競技をやらせても平均を大きく越えた能力を見せるものだから、否が応にも注目を集めてしまう。
 何よりも彼自身の容姿が人の目を惹きつける一番の要因と言って良いほど、ただそこにいるだけで目を引く、そんな印象の生徒だった。
 しかし、当の本人には自分に関わろうとする全てが煩わしいらしく、彼の雰囲気は常に周囲に対して線をひいているようで、誰ともまともに関わろうとはしなかった。

 ただ、例外はある。
 全身から放たれている他者を受け入れない壁は、彼が『奥田美久』を目で追っている時だけは違うものに変化していた。
 レイが熱心に何かを見つめている時、その視線の先にはいつも決まった女生徒がいた。
 柔らかい表情で誰かを見つめるレイの姿は度々目撃され、彼が誰を想っているのかはその視線の先を辿れば大抵の者が予想できただろう。
 だからこそ、朝、登校してきた彼の隣に美久が並んでいる姿は、周囲に納得と驚愕という、全く違った反応をもたらしたのだ。


「じゃあ、次の休み時間にまた来る」

「・・・う、うん」

 HRまで時間が無く、レイは美久の教室の前で立ち止まる。
 昨日の帰りに引き続き二人の姿を目にした生徒達の視線が一斉に集まって、教室の喧噪が嘘みたいに静まりかえった。
 レイは困ったように俯く彼女を見つめ、美久の長い髪に少しだけ触れると『またね』と言って小さく手を振り自分のクラスへ向かう。
 彼女の教室からレイが離れた途端、波を打ったようにどよめきがあがったのが聞こえてきた。
 それをうっすらと背中で感じながら、レイは三つ離れた自分のクラスに足を踏み入れる。

 ・・・・・・まるでままごとみたいだな。

 自分の机に粗雑にバッグを投げて、レイはその上で頬杖をしながら小さく息を吐いた。


「なぁ、牧口〜、奥田さんと登校したんだろ? 向こうの方、凄い騒ぎになってんな」

 不意に隣から冷やかすような声が降ってきた。
 視線をずらすと、隣の男がニヤニヤしながら顔をのぞき込んでいる。
 クラスメートの名前も顔もまともに憶えていなかったレイは、失礼にも隣の男の顔を今初めて知った。
 しかも、その表情は好奇心に満ちた非常に下世話なものだったので、誰にも分からないほど小さく眉を寄せ、すぐに視線を自分の机に戻した。


「なぁなぁ、つき合ってんだろ〜、どうやって彼女にしたんだよぉ」

「・・・・・・」

「もしかして告った? それとも告られた!? あ〜あっ、世の中不公平だよ、牧口なら何もしなくても女の方から寄ってくるんだろうなぁ!」

「・・・・・・」

「それはそうと、彼女ってさ、細そうに見えて結構胸がでかくね? あ、知ってる? わはははっ!」


 ・・・なんなんだ。

 何一つ会話になってないのに勝手にひとりで盛り上がっている。
 ここぞとばかりにヘラヘラと話を続ける隣の男は、苛立つレイの表情の変化に気づかないようだ。


「てかマジでこの間奥田さんが体操着でいる時に気づいちゃったんだよね〜、歩く度に揺れてんだもん」

「・・・・・・おまえ、・・・五月蠅い・・・」

「・・・へ?」

 レイが何か呟いた気がして顔をあげ、隣の男は漸くその表情の変化に気づいた。
 刃のように鋭い視線に射抜かれ、それはまるで肉食獣の射程圏に入ってしまったかのよう・・・隣の男はハッと息を呑み、一瞬で押し黙った。
 そして弾かれたように顔を上げ、背中がピンと伸ばされて厭らしい笑いも一気に凍り付いている。
 その変化はある意味滑稽でもあった。


「・・・・・・・・・っ・・・・・ぁ・・・・いや、・・・わりぃッ」

 眼を逸らす事も出来ず、彼はひたすら謝罪する。
 レイは何もしていないというのに、彼の身体は僅かに震えているようだった。
 恐らく何故自分がそうなっているのかすら彼には分かっていないのだろう。


「・・・・・・つきあい始めたばかりだし、・・・そう言う事、あまり詮索してほしくないんだけど」

 噛み殺されるのでは、と恐怖を抱かせる危険な輝きを瞳の奥に潜め、レイは薄く微笑む。
 隣の彼は何度も上下に首を振って頷くだけで、それ以上の言葉を発する事は出来ないようだった。
 レイは再び視線を前に戻し、つまらなそうに頬杖をつく。
 既に隣の男など意識から外している。
 代わりに今の自分の言葉に、彼は内心酷く苛立っていた。

 "つきあい始めたばかり"

 そもそもそんな意識が彼女にあるのか疑わしいほどの幼い関係だ。
 その現状に、レイは酷い憤りを感じていた。
 レイは教室の喧噪から逃れるように、机の上にうつ伏せになって目を閉じる。
 もどかしさで息が詰まる。
 美久と話していると現実を突きつけられるばかりで、苛々が募って仕方ないのだ。
 しかし、そんな事は彼にとって、この学校に入ってから嫌と言うほど思い知らされて来た事だった。

 ───分かってる。
 美久にとってはこれが始まったばかりだってことくらい。
 だけど未だに何が起こってるのかオレにはよく分からないんだよ。
 こんな関係は、オレが想像していたものとはあまりに違いすぎて途方に暮れる。
 恋人ごっこをする為に此処にいるわけじゃないのに。

 レイは閉じた瞼を震わせ、血がにじむほど唇を噛み締めた。
 高校に入ってからの二年は声も掛けられず、呆然と美久を見つめていただけで終わった。
 どうしようもなく気持ちが焦る。
 昨日、屋上で話した時は初対面だという顔で見られ、それすら彼を傷つけたことを美久は分からない様子だった。

 だってこんなのあんまりだ。
 この学校に入学したのは、美久と逢うためだったんだ。
 再会したらどれだけの笑顔を見せてくれるだろうと期待に胸を膨らませて、何一つ疑っていなかった。

 

『レイ、ひさしぶりだね』

『君があとすこし大きくなったら迎えに行くから』

『まってる』


 それはまだ幼かった君に会いに行った時の短い会話だ。
 君は笑ってオレにそう言った。
 オレを見て懐かしそうな眼をしたんだ。
 それなのに、どうして今、知らない目でオレを見るんだ・・・?
 どうしてこんな事になった。
 再会した君は、どうしてオレを憶えていないんだ?
 それとも、拒絶されていない現状を喜べばいいのか?
 傍にいてもいいのかと聞いた彼女の言葉に縋れば先がひらけるのか?

 あと、どれだけ待てばいい。
 待てば・・・君は思い出すんだろうか・・・?
 まるで悪夢を見ているみたいだ───








▽  ▽  ▽  ▽


 二人がつき合っている、という噂は瞬く間に周知されることとなった。
 休み時間に放課後、とにかく自由になる時間帯には必ずレイが美久に会いに来る。
 そのうえ、いつも無愛想な彼が美久の前では笑みを零し、誰が見ても一途な眼差しで彼女を見つめる。
 美久も恥ずかしそうにしながら彼の視線を受け止めているようで、そんな二人の様子はとても初々しかった。
 そんなことが一週間も繰り返されれば嫌が応にも周囲の目も慣れていく。
 暇さえあれば美久の傍に寄り添うレイの姿を見ているうちに、あれこれ詮索する者はいつの間にかいなくなっていた。

 これはレイの努力の賜と言えただろう。
 彼には周りの目などどうでも良いことだったが、初日にいきなり質問責めにされて困り果てている美久を見て、そんな事に振り回される時間ほど無意味なものはないと感じ、ならば多少目立つくらい二人でいれば、すぐに彼らの目も慣れていくだろうと考えての事だった。
 勿論、少しでも美久との距離を縮めたいという想いが前提にあった。
 ただ彼女との距離にほとんど変化が見られないことに関しては、多少なりともレイを落胆させていた。

 

「レイ、すこし顔色悪いみたい」

「え?」

 帰宅途中の道のりで、突然美久が心配そうに見上げてそう言った。
 一瞬、レイは何を言われているのか分からなかったが、らしくない連日のマメな行動で多少の気疲れを感じていた事を思い至り、何となく納得する。


「気のせいだよ」

 他愛もない変化を汲んで貰える事は嬉しいが、これしきの事で心配されるほど病弱ではないと笑みを浮かべる。
 美久はその顔に少し頬を染めていたが、すぐにハッとしてレイの制服の袖を握り締めた。


「・・・レイのそれ、ずるいと思う」

「え?」

 拗ねた口調にレイは僅かに戸惑った。
 彼女が何を言いたいのか分からず、レイは首を傾げる。


「そうやって微笑まれちゃうと、色々な事、誤魔化されそうだよ」

 レイの目が僅かに見開かれる。
 常日頃から何事も適当に流してしまう自分の行動を指摘されたみたいで、一瞬ドキッとしたのだ。
 実際、他人の視線も感情も面倒で適当にかわしてしまう事は多い。
 そうやって日々を適当に過ごしてきた自分の行動を今更否定するつもりはないが、それはあくまでもその他大勢に対する考え方であり、彼女に対して同じように接しているつもりはなかった。


「誤魔化してないよ、何で怒ってるの?」

「怒ってないけど・・・っ」

 顔を真っ赤にして、彼女は明らかに怒っているような拗ねているような表情を見せている。
 それを見て、レイは思わず口元を綻ばせた。
 こんな小さな事で怒って拗ねてみせるなんて、まるで自分に特別な感情を向けられているように感じてしまう。
 だから、必要以上に期待してしまいそうな、そんな自分の思考を慌てて訂正する。

 ・・・そんなこと考えるな。
 『傍にいてもいいの?』とか、確かにそんな事を問いかけられはしたが・・・あの言葉は、そこまでの想いがあって出た言葉じゃない。
 迂闊に期待すると痛い目に遭うに決まっている。


「・・・ごめん」

 とりあえずこのままではいられないと、レイは謝罪を試みる事にした。
 だが、意味も分からず謝罪するという行為そのものが間違っていたらしく、美久は眼を丸くした後、小さく首を横に振って悲しそうに俯いてしまった。


「どうして謝るの・・・?」

「・・・え・・・?」

 当然の疑問に彼が答えられる筈もなく、美久の表情はどんどん曇っていく。
 そして、その頬に涙がぽろりと零れ落ちたのを目にして、レイはギョッとして身を強張らせた。

 ・・・・・・な、泣いてる・・・・オレ、何やったんだ・・・・・・?


「・・・・えっ、・・・・・・・、ご、・・・ごめん。・・・あ、いや・・・その・・・謝っちゃだめなのか? ・・・あの、・・・何でもするから・・・・・泣くなよ・・・」

 話の流れからすると少なくとも謝罪が間違いだったと推測出来るのだが、この後慰めればいいのか否定すればいいのか、一体全体どうすれば彼女が泣きやむのか、そもそもどうして泣いているのかレイにはサッパリ分からない。
 ならばせめてもうちょっと気の利いた台詞は無いだろうかと頭の中で必死に別の言葉を探し続けるも、考えるほど頭の中は真っ白になっていしまい、そんな自分にまた焦る。
 結局気の利いた単語ひとつはじき出す事が出来ない彼は、自分の不甲斐なさにがっくりと肩を落とした。
 その途方に暮れた姿があまりに分かりやすかった所為だろうか。
 美久は泣くのも忘れ、その叱られた子供のような表情に思わずポカンとレイを見上げていた。


「・・・あ、・・・笑った?」

 知らずに顔が笑ってしまったらしく、レイはその一瞬を見逃さず、美久の顔を覗き込みながら心底安堵したように胸を撫で下ろしている。


「笑ってる方がいいよ」

「・・・恥ずかしいこと言わないで」

「どうして? 可愛いよ」

 当たり前のように言われ、美久は真っ赤になって俯く。
 同時に、こうして彼を困らせてしまう自分の言動が美久には自分でもよく分からず、内心戸惑っていた。

 私・・・何やってるんだろう。
 レイが謝ったのは怒ってるように見えたからで、そんなふうに感情を見せた私にも原因が有るのに・・・

 何だか最近、些細なことで自分の感情に振り回されてしまう。
 レイといると、そういう想いが日々強くなる一方で、持て余した感情をどう処理していけばいいのかわからず途方に暮れる。
 もっと近づきたいと思うのに、レイは口べたみたいで自分のことを殆ど語ろうとしない。
 何を見て、何を思って、どう感じているのか・・・何が好きで何が嫌いなのか、小さな事でも知りたいのに、知ろうと思うほど感情的になって彼にぶつけてしまいそうになる。
 最初に屋上で話した時はあんなに強引だったのに、今は精々手を握る程度だ。
 もっと傍に来てその頭の中で何を考えているのか教えてほしい。
 最近では毎日そんな事ばかりが頭の中を占めていた。
 そのくせレイには自分のそんな考えを伝えられず、日々自分の中のもどかしさとにらめっこを繰り返すだけで終わってしまう。


「・・・美久?」

 どうしてだろう。
 今までと同じ景色が、レイといると違う色に見えてくるのが不思議で仕方ない。
 知り合って間もないくせにと笑われそうな事を、馬鹿みたいに毎日考える。
 暇を見つけてはレイが頻繁に会いに来てくれたり、登下校を一緒に過ごすことに今では戸惑いはなく、むしろ彼が来るのを心待ちにしている自分がいた。
 けれど、レイの傍にいるだけで胸が苦しくなったり、少しでも彼を知りたいと考えているうちにわけが分からなくなってくる。
 この感情は、見ているだけで充分だったあの時のものとは全然違っていた。
 今の美久はそれだけでは嫌なのだ。
 相手の全てを欲しいかと問われてもよく分からないままだが、他の誰かと肩を並べて歩くレイの姿は想像したくなかった。
 レイに他の誰かを好きだと告げられたら・・・、そう考えただけで胸が潰れそうになる。
 彼を独り占めしたい、気づけばそんな事まで考えるようになっていた。


「・・・どうしたの? まだ怒ってる?」

 困ったように覗きこむレイの制服の袖口をギュッと掴み、美久は勇気を振り絞って彼に向き直った。

 これはたぶん・・・独占欲というものだ。
 誰かの事をこんなふうに想うのも色々と考えすぎてしまうのも初めてのことで、最初は戸惑うばかりでよく分からなかった。
 だけど、今は何となく分かる。
 これがどんな感情から来ているものか、真っ直ぐに見つめてくるレイの眼差しにどんな想いが込められているのか。
 自分が彼に向けているものと重ね合わせれば、答えは簡単だった。


「・・・私・・・・・・レイが・・・好きだよ・・・」

 小さくそう告げると、美久は顔を真っ赤にして俯いた。
 感情に任せて出た言葉だとは思わない。
 今の気持ちを表すのにその言葉しか見つからなかっただけだ。











その2へつづく


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