○第10話○ 深紅の瞳と歪んだ命数(その1)
───心の底まで見透かすような真紅の瞳が、どこへ逃げても追いかけてくる。
深い深い沼のような闇の中に沈み、美久は凍えながらひたすらあの紅い瞳に怯え続けていた。
ところが、いつしかそれが全く違うものへと形を変えていく。
あれほど凍えた寒さが、嘘のように消えてしまったのだ。
なんだろう・・・すごく、あたたかい・・・・・・
美久はうっすらとした意識の向こうで、ふわふわと宙に身体が浮くような心地に、何故か深い安堵のようなものを感じていた。
温かく柔らかな手が美久を包み、その手で頬をひたすら優しく撫でさすっているような、とても不思議な感覚だった。
この何とも言えない温もりに全身から力が抜け落ち、あまりの心地よさにうっとりしてしまう。
優しさと温もりの全てが此処に詰まっている・・・そんな感覚がもう何時間も続いているのだ。
もしかしたら、この感覚は母親の胎内に近いのかも知れないと少しだけ考えた。
あぁ、だけど・・・それなら、たぶんこれは夢に違いない・・・
だって、母親に焦がれるほど、私はその存在を知らないもの───
「・・・あ、目が覚めた? ・・・よかったぁ」
「・・・・・・」
目の前で知らない少女が微笑んでいる。
ぼぅっとした頭の中はうまく動かなくて、聞かれた言葉にただ小さく頷いた。
・・・何だろう、これも夢?
夢か現か目の前の光景に区別がつかず、じっと少女を見上げる。
「私、美濃(みの)。あなたは?」
「・・・・・・・・・美久・・・」
「わぁ、似てるね!」
彼女は頬を紅潮させて嬉しそうに笑っている。
・・・似てるのかな、そうかもしれない・・・。よく分からない・・・
そんな事を思いながら、彼女の顔を尚も見つめる。
笑顔がとても愛らしい。
幼い子供のように屈託無く笑う様子は、他意を感じさせるものではないように思えた。
美久は何度か頭を振り、身体を起こす。
これは夢ではない、それだけは何とか理解出来るくらい意識がはっきりしてきたのだが、自分の置かれている状況が分からない。
周囲を見回すもとても薄暗く、ベッドの傍の小さな台に置かれたランプの灯りが無ければ足下も見えないだろう。
美久は自分が眠っていたベッドに触れて、夢の中で気持ちがいいと思ったのはこれだったのだろうかと少し考え込んだ。
「・・・・・・っ!!」
しかし、不意にハッとして青ざめる。
手にしっかりと持っていた筈のキーケースが無いのだ。
どこかに落としたのかもしれないが、全く思い出せない。
この部屋のどこかに落ちているのでは・・・そう考えた美久は眼を細めながら薄暗い部屋の中に目を凝らした。
そうしているうちに少し思考がハッキリしてきて、漸く当たり前の疑問が頭に浮かび、目の前の美濃と名乗った彼女を見上げて眉をひそめる。
・・・・・・・ここ、・・・・・・どこ・・・?
ひとり静かに混乱していると、不意にツンと袖を引かれた。
何故か彼女・・・美濃は隣に寄り添うようにくっついてベッドに腰掛けている。
ふと、腕に触れるその柔らかな感触に、美久は何となく既視感を憶えた気がした。
この感覚・・・さっきの夢と同じだ・・・・・・
夢の中の温もりが、漠然と美濃の柔らかさと重なっていく。
「ね、喉、渇かない?」
「・・・え?」
美濃に顔を覗き込まれ、美久は吃驚して一気に現実に引き戻される。
どうもまだ頭がぼぅっとしているみたいだ。
小さく息を漏らし、自分の喉に触れる。
そういえばずっと水も飲んでない・・・、言われてみると、すごく渇いているみたいだ。
小さく頷くと美濃はパッと笑顔になってベッドの傍の台に置かれた小瓶を手にとり、それを美久の口元へと近づける。
水のような液体が小瓶の中で波打ち、少しだけ美久の口に注がれたところで、彼女がそれをわざわざ飲ませようとしてくれていることに気がついた。
「・・・んっ、・・・ふぁ・・・っ、・・・あ、あの・・・自分で・・・」
「このまま飲んでいいよ?」
「・・・う・・・、・・・んっ、・・・・・・っ」
真っすぐな瞳で言われると何となく断りづらくなって、言われるままに小瓶の中身を少しずつ飲み下す。
「・・・・・・ん、・・・・・・、・・・・・・・・・?」
───あれ?
これ・・・なんだろう・・・
何となく甘い・・・? 水とは少し違うような。
けれど、水も場所によって種類が様々だし、知らないだけで甘い水もあるのかも・・・
そんな事をつらつらと考えながら、美久はあまりの美味しさに、その飲み物をごくごくと一気に飲み干してしまう。
「・・・っん、ん・・・・・・、ごく、・・・、・・・・・・・・・はぁー・・・」
「あのね、美久ってばね、此処に来る前と合わせると2日近く寝てたんだよ。あ、でも・・・もしかして、まだ寝足りない? それとも眠るの飽きちゃった?」
美濃はすっかり空になった瓶を台に置くなり矢継ぎ早に問いかけてくる。
人懐こく顔を覗き込んで、キラキラとした真っすぐな瞳からは悪意というものを全く感じさせない。
美久は少しだけ自分の肩の力が抜けていくのを感じた。
そして、眠くないという意味で首を横に振ると、美濃は嬉々とした表情を浮かべてこれまでの状況を説明し始めたのである。
「ビックリしたんだよ! だってね、此処に来たときの美久の身体は氷みたいに冷たくなってたんだから! なのに、連れてきた本人・・・えっと、多摩っていうんだけどね、全く悪びれない顔で『何か問題あるのか?』って平然としてるの。そのうえ巽(たつみ)に湯浴みを手伝わせるって言い出すし・・・っ!! ・・・あ、巽っていうのは男の人だよ、信じられないよね!? でね、相手は女の子なのに無神経すぎるって強引に私が一緒に入ったの。それから少しずつ身体の熱が感じられるようになってきたんだけど意識は戻らないし、とりあえず眠らせておくって聞いて、目が醒めるまでは心配だから傍にくっついてたんだ。美久の身体ふわふわで気持ちいいね、なでなでしたら笑うし、ぎゅって抱きしめたら擦り寄ってくるの。胸がきゅんきゅんしちゃった♪」
一気に喋って嬉しそうに美濃は笑う。
釣られて少しだけ笑みを浮かべた美久だったが、すぐに素面になって黙りこむ。
彼女の話に出てくる登場人物は補足説明無しでは理解するのはちょっと難しいけれど、恐らく嵐の中で突然現れた2人の男のうちのどちらか・・・もしくはあの2人が今の話に出てきた多摩や巽なのではないかと思った。
そのうえで彼女の言葉を考えていくと、湯浴みというのがお風呂に入るという意味なら、美濃がいなければ知らない男に裸を見られていた可能性があったことになる。
ゾッとする一方で、まともにそういう気遣いをしてくれる人がいてよかったとホッと息を吐いた美久は、同時に随分彼女に触れられながら眠っていたらしいことを知り、眠りから覚める前の感覚をもう一度思い出した。
やっぱりあの温もりは彼女だったんだ・・・
まさか擦り寄るほど甘えてしまったなんて思いもよらず、顔が紅潮する。
「どうしたの?」
美濃が顔を覗き込んでくる。
くるくると変わる表情はどれをとっても無邪気な子供のようで、好意を寄せられているような気分になってしまう。
だけど・・・すぐに信じたら駄目なんだ・・・しっかりしなきゃ・・・
助けてくれたと言っても、彼女はあの男達の仲間だ。
ルディを傷つけたあの2人の・・・・・・
「・・・・・・、私の他にもう一人連れてこられた人は・・・」
「え? ・・・ううん、美久だけだよ? 他にもう一人いるの?」
そう言って首を傾げる美濃は嘘を吐いているようには見えない。
彼女は本当に知らないのかもしれない。
美久は僅かに俯き、青ざめて沈黙した。
最後に見たルディの姿が頭の中に鮮明に蘇る。
あれから二日と美濃は言った・・・、ルディは今もあの場所で倒れたままなんだろうか。
「あ、でもまだ乾(いぬい)が戻ってないから、乾が連れてるのかも」
「えっ」
思い出したように話す美濃の言葉に、美久は弾かれたように顔をあげる。
ということは、あの時遭遇した二人のうちの一人はまだ戻っていないということか。
一人がまだ戻らないというなら、ルディを連れている可能性はある。
だけどあの出血の量は・・・
「美久? どうしたの? どうして泣くの?」
突然涙を浮かべて小さく震えだしたからか、心配そうな顔をした美濃に抱きしめられる。
あれは恐怖以外の何ものでもなかった。
知らない男2人が侵入してきた恐怖よりも、揺すっても叫んでもルディがピクリとも動かなかった事が怖かった。
だって、ぬるっと滑った手についたあれは・・・ルディの血液だった。
ルディに何が起こったのかは分からない。
けれど、あのタイミングで彼らがルディを担いできたという事実だけで、あの2人がルディを傷つけたとしか考えられない。
───コン、コン
その時、いきなり鳴った扉をノックする音に驚いて美久はビクッと震える。
美濃は宥めるようにもう一度美久を抱きしめ、『誰?』と静かな声で扉の外に声を掛けた。
「・・・美濃さま、入っても宜しいでしょうか」
「巽? ・・・いいよ」
入室を許可する美濃の言葉に美久の身体が大きく震える。
それに気づいてか『大丈夫、巽は優しいから怖いことはしないよ』と、美久の耳元に囁きかけた。
「あぁ、よかった。目覚められたのですね」
「うん、今起きたばかりなの。美久って名前なんだよ」
「美濃さまと少し似ていますね」
「そうなの!」
美濃は嬉しそうに笑い、それとは対照的に穏やかに話す低い声・・・それが巽と呼ばれた男だった。
そういえば先ほどの美濃の話にも出てきたと、美久は頭をフル回転させる。
───『巽に湯浴み手伝わせるなんて言い出すし・・・』
あぁ、そうだ。
下手をすればこの人にお風呂に入れられていたかもしれないのか・・・
美久は恐る恐る彼の顔を見上げる。
目が合うと少し長めの前髪から覗く瞳が穏やかに微笑み、ドキッとした。
美濃が言う通り、すごく優しそうな男の人だった。
「随分怖がらせてしまったようですね・・・」
ベッドの傍に片膝をつき、彼は心配そうに美久を見つめる。
「我が主の無礼、かわって謝罪いたします」
巽はゆっくりとした所作で美久に頭を下げる。
予想外の対応に、思わずきょとんとしてしまう。
まさかここで謝罪されるなんて考えもしない事だった。
しかし、この予想外の巽の対応がきっかけとなって、漸く当たり前とも思える疑問を口にすることが出来た。
「あの・・・聞いてもいいですか」
「はい」
「此処は・・・どこですか? どうして私は此処に連れてこられたんですか?」
そう問いかけると、巽は少しだけ目を伏せて口を閉ざしてしまう。
謝罪はしても質問には答えられないという意味だろうか・・・美久は言いようのない不安に再び胸が潰されそうになる。
しかし、どうやらそうつもりではなく、暫くの空白を置いたあと、彼は自らが作った沈黙を破り、ひとつひとつ言葉を選びながら口を開いた。
「まず前者のご質問ですが・・・此処はかつて国としての体を成しておりましたが、訳あって崩壊し、今は生き残った5名で慎ましく暮らしている名もなき土地です。人によっては此処をベリアルと呼ぶ者たちもいたようですが・・・・・・。・・・それから、後者のご質問に関しては・・・残念ながら私は答えを持っておりません」
「・・・・・・え?」
「美久様を連れ帰った者は我らの主、多摩(たま)という男です。どのような考えでこのような行動に出たのか・・・答えは直接聞かれた方が宜しいかと」
美久は巽の言葉に驚き、思わず美濃に顔を向ける。
彼女もまた困ったように小さく頷いていた。
・・・どういうことだろう?
私が連れてこられた理由を、此処にいる誰もが知らないっていうこと?
困惑して黙り込むと、美久の手を包み込むように美濃が手を伸ばしてきた。
彼女は本当にすまなそうに目を伏せ、それからまだ少しだけ震える美久の身体を抱きしめる。
「5日前・・・多摩が突然此処を飛び出したの。本当に何があったのか聞く間もないくらい突然で・・・咄嗟にそれを追いかけたのが乾だった。たぶん様子のおかしい多摩が心配だったんだと思う。さっきも言ったけど、その乾はまだ帰ってないんだ。・・・それで多摩が言うには、行きは乾の足にあわせたから3日もかかったけど、帰りは自分のペースで帰ったから1日で済んだって・・・。だけど、それ以上は何も答えてくれないの。眠いから寝るって部屋に戻ったきり・・・」
「・・・美濃さま、それに関しては先ほど・・・」
「起きたの?」
「はい・・・、今はお二人をお待ちです」
巽の台詞に美久は身を固くする。
そんな美久に気づいて、美濃がまた強く抱きしめた。
美久はその腕の中でぐるぐると思考を巡らせながら、懸命に考えを纏めようと必死だった。
多摩という人が突然此処を飛び出したのが5日前・・・
最初の3日は私たちがいたあの家に向かうだけに費やされ、1日は私を連れてこの場所に戻る為に費やされた。
残る1日は、この場所で過ごした分。
だけど、よりによって何で5日前なんだろう。
確か・・・レイのマンションの一番奥の部屋からこの場所にやってきたのがちょうどそれくらい前だったはず。
まさかそれが何か関係してるんだろうか?
突然領地に侵入した私たちの存在に気づいて、とか?
「美久・・・、多摩の所に行こうよ。此処に閉じこもっても多摩はあんまり気が長くないから自分で来ちゃうと思う。それにわざわざ美久を連れてきたって事は、何か意味があるのかもしれないし」
「・・・でも・・・」
「大丈夫、私がついてるから! もし多摩が意地悪な事言ったら私が言い返してあげる」
「・・・・・・」
にっこり笑う美濃が不思議だった。
自分達の主という存在に、彼女はどうしてこんなに強気なのだろう。
それに、この巽という男性は美濃に対して一歩下がっているというか・・・会話や仕草だけを見ても目上の存在として美濃を位置づけているように思える。
「美濃さまは我らの主にとって特別な方なのです」
美久の疑問に気づいてか、巽が静かに微笑みながら言う。
特別とは、例えば恋人や兄妹などのそういう特別という意味だろうか。
「ね、美久。・・・一緒に行こうよ」
言われながら、次第に美久の頭の中が冷静になっていく。
あぁ、そうだ・・・
確かに考えてても意味がない。
ルディの事も確かめたいし、何よりもレイを追いかけるなら、この場に留まっている場合ではないのだ。
あの恐怖はまだ付きまとうけれど、このままでは何も前に進まない。
一度でも立ち止まったら終わり・・・自分はそういう場所に立っている。
怖い事なんてもうどれだけ続いているか分からない。
その度に自分の無力さを突きつけられて、挫けそうになってばかりだ。
だけど、レイを追いかけなくちゃと逸る気持ちを、どうしても押し込める事が出来ない。
もしも彼に要らないと言われても、もう二度とこの気持ちを無くしたくないと思う自分の心からは絶対に逃げたくない。
だいじょうぶ・・・絶対負けない。
美久は小さく息を吐き、決心したように自らの意志でベッドから降り立つ。
「・・・連れて行ってくれますか」
そう言った瞳に迷いはなく、美濃も巽も少なからず彼女の変化に驚いている様子だった。
しかし直ぐに美久の言葉に応えるように2人は頷き、静かに立ち上がる。
そうして、彼らの主の元へと美久が連れて行かれることになったのは、既に日が西に傾きかける頃だった。