○第10話○ 深紅の瞳と歪んだ命数(その7)
「はぁ〜〜ッ、やっと帰れたぁ・・・」
静まり返る宮殿に帰還して第一声、乾は脱力した様子で深いため息を吐きだした。
外は完全に日が落ち、ランプの灯りひとつ点いていない宮殿の中は、月光が照らされた外の光景とは比べようも無いほどの闇に包まれている。
乾は肩をゴリゴリ回し、大きなあくびをしながら後ろに立つ巽を振り返った。
「悪いけど、もー寝るわ。とりあえず話は明日・・・って言っても、聞く事もそれほど無いだろうけど、・・・いいよな?」
「ああ」
巽の返事にひらひらと手を振り、乾は『おやすみ』と言いながら疲れた様子で奥の通路へと消えていく。
彼にとって、ひたすら駆け回り振り回された5日間だったはずだ。
足下が少しふらついているところからも、その疲労が色濃く滲んでいるのがよく分かる。
そんな乾の背中を見送りながら、巽は宮殿内の方々に意識を巡らせていく。
特に殺気立った雰囲気もなければ過剰な緊張感もない、いつもとそう変わりない空気を感じる。
これも全て多摩の思惑があっての事なのだろうと思い、一抹の不安は拭えないながらも彼もまた己の部屋へ戻ろうと踵を返した。
・・・が、
「───遅かったな」
中央に構える大階段から掛かった声に、巽は足を止める。
見上げると、上の階で静かに佇む白装束が目に映った。
「・・・起きておいででしたか」
白装束という風変わりな衣裳を身に着ける者など多摩を於いて他にいるはずもない。
先述の通り宮殿の中はとても暗く、視覚はあまり頼りにならない。
そのうえ、多摩は自分の気配を殆ど感じさせないくらい消してしまうのが常で、声をかけられなければ気づけないこともよくあるのだ。
まさか、ずっと其処で自分たちが戻るのを待っていたのだろうか?
こういう状況だ、何か内密に話しておきたい事があるのかもしれない。
そう思い、巽は上階で自分を見下ろす多摩に問いかけた。
「乾を連れ戻しますか」
「・・・その必要はない。少し考え事をしていただけだ」
「は、」
ということは、用件があるから待っていた・・・というわけではないのか。
ただ単にこんな場所で一人何をするでも無く考え事を?
再び訪れる沈黙。
巽は冷静な頭の中で今日の出来事をひとつひとつ思い返していた。
そして、どこかいつもと様子の違う多摩に、ひとつだけ疑問を投げかけてみようと考える。
「・・・神子殿は、彼らをどうされるつもりですか?」
巽の言葉に、一瞬だけ多摩の身体が揺らいだような気がした。
神子という言葉が気に入らず反応しただけなのか、それともこの問いかけ自体に反応したものなのか。
「気になるのか」
「・・・、少し胸騒ぎが致します。不穏な空気を運ぶ使者でなければ良いと・・・」
「おまえらしい考え方だな。・・・・・・だが、あまりつまらぬ事を考えるな。あの男が此処に足を踏み入れた時点でそれはもう必然でしかなかったのだ」
「・・・は」
「おまえはあの者を見ても何も感じぬのか? あのような異形、奇跡でも起こらねば目にすることすら叶わぬ。・・・一体何に赦されたというのか。しかも興味深いのは姿形よりもむしろ・・・・・・、いや、これは直接あの男に投げかけるべき命題か。・・・・・・まったく、おもしろいものに遭遇したものだ」
いつになく機嫌がいいのか、多摩は喉の奥で笑いながら身を翻して大階段を悠々と上っていく。
白装束がふわりと揺れるのがスローモーションのように見えたのが不思議だった。
「神子殿・・・」
「俺はもう休む。・・・巽、おまえも休め」
そう言い残し、階上へ消える多摩の姿を巽は黙って目で追いかける。
多摩は感情を表に出すことが滅多に無い。
にも拘らず、見るからに上機嫌な様子は自分たちにとっては驚くべきことだ。
巽にはまだ理解ができないが、それほどまでに興味を向ける何かが彼らにはあるということなのか。
確かに常人ではないのだろう、それは分かる。
だからこそ、平穏が崩れるのではないかと危惧するのだ。
・・・神子殿の目には一体何が見えているんだ───?
巽はしばしその場に棒立ちになったまま、多摩の姿が見えなくなっても暫くは階上を見上げたまま、微動だにもしなかった。
▽ ▽ ▽ ▽
朝焼けの光がカーテンの隙間から差し込んで、とても眩しい。
部屋の中に散らばる何枚もの衣服はその瞬間の性急さを物語り、濃密な空気が未だ漂う室内は穏やかな朝陽とは正反対で、それだけで外気との温度差がかなりあるように思えた。
そんな中、部屋の中央に置かれた大きなベッドでぐったりとした肢体を投げ出し、切なげな表情で美久の瞼がぴくりと反応する。
「・・・・・・っ、・・・は、・・・・ぁっ・・・・・」
熱い吐息が美久の首筋にかかり、同時に身体の奥に精が吐き出されたのを感じ、唇を震わせた。
後ろから抱きしめられて拘束された身体は、もうずっとレイの思うままにされ続けている。
もしかしたら、このまま終らないのではと思えてくる程果てしない彼の精力は、やはり人間とは根本的に違うのだろうと思わざるを得ないものだった。
しかし、そうされている美久の身体も、どこかおかしくなっていた。
自由に動かないくらい疲弊しきっているのに、彼の行為をこの身体は受け入れ続け、一向に熱が引く気配がない。
途中何度か意識を失ったけれど、すぐに現実に引き戻されてレイが与える甘い熱に身も心も溶かされてしまう。
この終らない行為に声も嗄れ果て、それでもこの腕から逃れたいとは思わなかった。
「・・・・・・もう夜が開けたのか。朝までなんて言わなきゃ良かった・・・。・・・・・・まだ全然足りない・・・」
背中に熱い唇を這わせながらレイが艶かしく吐息を漏らす。
想像を超える言葉にぴくんと震えて驚きを示すが、全く動かなくなったこの身体では、もはや何の抵抗も出来ないだろう。
「・・・うそだよ」
「・・・っ」
内心を見透かされたのか、レイが耳元でいたずらっぽく笑う。
そして、昨日から一時も繋がりを解こうとしなかった彼自身を漸くゆっくりと抜き去り、同時に中に放たれた精が逆流してきて、思わず美久はぶる・・・と肌を粟立て息をのんだ。
「・・・ん、・・・っっ」
何とも言えない感覚に身悶えていると、レイの唇が美久の頬に触れる。
まだ熱を持った唇・・・、見上げると彼の瞳もまだ少し潤んでいて、情事の名残を色濃く残していた。
「このまま暫く眠っておいで」
「・・・・・・っ、・・・・・・」
レイは? ・・・言おうとしたけれど、もう声が出てこない。
手も指先も、動かせなくなっていた。
レイだって寝てない。
ずっと起きてたのに、レイは平気なの?
私が眠ったらレイは?
言おうとしても声にならない。
おねがい、もうどこにも行かないで・・・
「大丈夫、・・・・・・泣かなくても傍にいる」
想いを汲み取ったのか、それとも溢れた涙で察したのか、レイの眼差しはどこまでも優しい。
大きな手のひらが何度も頬を撫でて、耳元で『大丈夫』と繰り返してはキスを落とす。
そうしているうちに、彼の与えるぬくもりがあまりに気持ちよすぎて、一気に意識が薄れていく。
出来ればもう少しだけレイに触れられているのを感じていたい・・・そんな事を考えながら、とても深いところまで意識が沈んでいくのに逆らう事は出来ず、重い瞼がゆっくりと閉じられた。
「・・・・・・、・・・・・・・・・」
程なくして寝息を立て始めた美久の頬を撫でながら、レイは足下でぐちゃぐちゃになっていた上掛けを手に取り、それを肩まで掛けてやる。
すっかり疲弊しきってしまって、暫くは目が覚めないかもしれない。
彼は美久の寝顔を眺めながらベッドから降りて、床に放り投げて散らばった己の衣服を取り上げ、腕を通していく。
そうして、昨夜からの極端な自分の行動を思い返し、自重気味に咳払いをひとつする。
美久が男たちに乱暴されかけてからはまだ日が浅い。
あんな出来事を思い出させたくはないからと、近づきすぎないようにしようなどと言っておきながら結局はこれだ。
今となってはあんなものは白々しい虚勢としか思えず、自分の理性が呆気なく脆く崩れ去っていくのをまざまざと感じた夜だった。
優しくしたい、壊れ物を扱うように大切にしたい・・・そう思う一方で、触れたい衝動にはどうしても勝てない。
あんな風に一途な眼差しで告白されてはひとたまりも無かった。
・・・何だかいろんな事が一気に進みすぎて、現実にあったことなのか分からなくなりそうだ。
今にもこの現実が壊れてしまうんじゃないかと疑ってしまうのは不幸体質なんだろうか。
そんな自分の考えを否定出来ずに、寝息を立てる美久をもう一度確認し、改めて現実なのかと自問自答する。
───コン、コン・・・
部屋の向こうの方で扉をノックする音がして我に返る。
レイは床に落ちたベストと上着を拾ってそれを身につけながら寝室を出て、続きになっている大広間の入り口へと足を向ける。
扉の向こうの気配はふたつ。
多少の警戒を持ちながらその扉を静かに開け放った。
「おはよー!!」
美濃の良い明るい声が元気に響く。
彼女は扉の向こうの相手が美久ではないと直ぐに気づいたようだが、臆する事無くレイに笑顔を向ける。
「・・・・・・おはよう」
静かに挨拶を返し、たったそれだけの事に美濃は嬉しそうにもう一度『おはよー!』と繰り返している。
その様子を横目にレイは彼女の隣に立つ人物に視線をずらす。
視線に気づいたその人物もまた、美濃に負けず劣らずの人懐こい笑みを浮かべた。
「よろしく! 俺は乾、好きに呼んでくれよ。あんたは?」
「・・・・・・レイ」
勝手に手を取られてぶんぶんと腕を振り回されながら握手をさせられる。
かなり強引なタイプに感じた。
だが、そうされるのは特に不快ではなく、今のところあまり害は無さそうな男に思えた。
そんな雑な分析をしていると、突然美濃が頬を膨らませる。
「乾ずるい! 私だって自己紹介まだなのにー」
「こーゆーのは早い者勝ち」
「もーっ、・・・あっ、えっと・・・昨日はバタバタしてて挨拶出来なかったの思い出して・・・、それで・・・私、美濃っていうの、仲良くしてね」
「・・・」
どう返答していいのか分からずレイは沈黙してしまう。
美濃は返答待ちなのか、やや緊張気味にソワソワしてどこか落ち着きが無い。
乾は2人の様子を交互に眺めてニヤニヤするばかり・・・。
一体何なんだ? とは思ったが、色々面倒になってきたので適当に相づちだけうっておく事にした。
「・・・あぁ、よろしく」
だが、僅かに頷いた途端、美濃はパーっとお花が咲いたような満面の笑顔になり、嬉しそうに乾の腕にしがみついている。
乾も『よかったよかった』などと言って、相変わらず人なつこい笑みを浮かべて、レイと目が合うとニヤニヤと含んだ笑いを向けてきた。
「姫さまはね、友達が出来たって喜んでるんだよ」
「やだー、言っちゃダメ!!」
「・・・姫・・・?」
「そーそー、そんで俺はお付きの従者ってとこ。昨日会ってると思うけど、巽って男も似たようなもんだよ」
「・・・・・・なら、あの男は何だ」
「あの男? 多摩か?」
「・・・多摩」
「あいつは俺たちの主だよ」
「・・・・・・」
レイは沈黙し、昨日の多摩とのやりとりを思い出す。
何だかすごく妙な男だった。
対峙していても敵意を向けられるでもなく、不躾なまでに興味を持った目で此方の動きを窺っているような。
あれがベリアルの主なのか・・・
「・・・本当に生き残りがいたんだな」
その言葉に突然美濃の笑顔が凍り付き、目に見えてテンションが下がっていくのが見て取れる。
実際絶滅とまで言われていたくらいだから、壮絶な何かがあっただろうということは聞かなくても想像できることだ。
ただ、それらに首を突っ込む気も更々無いので、レイにしてみれば漠然とした感想が口をついて出てきただけなのだが、当人にしてみれば容易に片付けられる問題ではないのだろう。
何となくそんなふうに思い、レイは僅かに居心地が悪くなった。
しかし、美濃が気にしたのはそう言うことではなかったらしい。
しょんぼりした様子で彼女はレイを見上げて言う。
「レイも、私たちの事、きらい?」
「・・・?」
「知ってるもん、みんな、『同族食い』って呼んで私たちを嫌ってる・・・、レイも、きらい?」
ああ、なるほど・・・とレイは漸く理解する。
彼女にとっては生き残り云々というよりも、同族食いと呼ばれている事の方がコンプレックスになっているらしい。
「オレは見た事も無い相手を嫌う程、想像力が逞しくない。・・・だから、好きとか嫌いの先入観も特には持っていない」
「ほんと?」
「ああ、・・・美久が随分あんたを気に入ってるし、嫌いになる理由も今はないけど」
「ほ、ほんとに?」
「ああ」
「うわぁっ、嬉しい!!! ねぇ、美久は? 美久に会いたい!」
「・・・・・・いや、・・・・・・今は・・・・・・」
「駄目なの? どうして?」
「少し疲れてるから・・・夕方までは起きないと思う」
「慣れない場所で疲れちゃったのかなあ」
「・・・そうかもな」
そう言ってばつが悪そうに目をそらすレイを見て、乾が何を察知したのかニヤニヤといやらしい笑いを浮かべる。
如何にも気づいちゃいました、という顔をされ、レイは想像力の逞しい男だと嘆息した。
そして扉の傍に立たせたままの2人の肩に手をかけ、そのまま彼らを外へと押し出す。
「・・・とりあえず、美久は寝てるから伝言なら聞いておく」
「あっ、そうだった。多摩に2人を呼んでくるように言われてたんだ!」
そこで自分たちがやってきた目的を思い出したらしく、美濃が声を上げる。
レイは若干脱力しながらも話が逸れた事に安堵して、そんなレイの背中をポンと押しながら乾が楽しそうに顔を覗き込んできた。
「ま、そんなわけで、我が主が待つ部屋まで来てくれないか?」
「・・・・・・わかった」
特に警戒を見せるでもなくレイは素直に頷く。
一瞬だけ乾は意外そうな顔を見せたが、『じゃ、行きますか』と軽い号令をかけると先導役となって前を歩き始める。
その様子からはレイに対する負の感情を感じ取る事は出来ないが、その歩き方や端々に見せる隙のない動きは完全に軍人のものだった。
別段隠すつもりもないのだろうが、対峙すれば面倒な相手になるのかもしれない。
レイは乾の後ろ姿を視界に留めつつ、広い廊下から窓の外の風景にも意識を向けながら、今のこの状況について少しだけ思考を巡らせていく。
───この場所がオレたちにとって吉か凶かは、それほど興味はない。
美久をこの手に取り戻すことを優先しただけで、たとえ美久が彼らに好意を見せているとしても、真意の掴めない得体の知れない場所にいつまでも置いておくつもりもない。
話とやらに興味はあるが、もしも面倒な腹の探り合いをして取引めいた事を要求されるなら、リスクを侵してでも此処を出るべきだろう。
レイは顔を引き締め、広い廊下の先をじっと見据えながら沈黙を続けた。
そして、そんなレイの様子を不思議そうに見上げた美濃は、外の光を浴びる度に青や緑に美しく変化する彼の瞳にすっかり魅入られてしまい、目的の部屋に着くまでの間、ひとりで頬を真っ赤にしながら顔を輝かせて喜んでいた。
前を歩く乾に至っては2人の対照的な様子に笑いを堪え、微妙に肩が揺れていたが、それが気づく者はこの場に一人もいなかった。
▽ ▽ ▽ ▽
通されたのは巨大なドーナツ状の円卓が置かれた大きな広間で、そこは昨日美久が案内されたのと同じ部屋だった。
何脚もの椅子が規則正しく揃えられ、その一番奥の中央席には既に多摩が座り、付き従うように背後に屹立する巽の姿もある。
レイは誘導されるままに多摩の向かい側に腰掛けた。
「・・・あの娘はどうした」
抑揚のあまり無い低い声がレイに話しかける。
だが、それに返答したのはレイではなく、何故かレイの隣に座り込んだ美濃だった。
「美久は夕方まで眠ってるんだよ、だからレイだけなの」
「・・・・・・美濃・・・、おまえは此処へ来い」
「やだ、今日は美久の代わりだもん。昨日は役たたずだったけど、今日の私は違うんだから」
「・・・・」
は・・・と、若干うんざりした様子で息を吐く多摩。
レイにはそのやりとりが昨日の延長線上にあることが分からないが、どうやら美濃は此方側につくつもりらしいということを何となく知り、一体この短期間で美久とどれだけ仲良くなったのかと内心驚いていた。
とはいえ、彼女を見ていると頼りになるかどうかは疑わしく、取りあえず只座っているだけに留まる可能性の方が強いだろう。
・・・などと、かなり失礼な事を考えつつ、レイは長い足をゆったりと組んで口を開いた。
「話ならオレが聞く。・・・だが、美久がいる必要があるというなら話は後にして欲しい」
そう言うと、多摩は少しの沈黙を置き、静かに頷いた。
「どちらか一方が聞けば事足りる、問題は無い」
「・・・なら本題に移る前にひとつ聞いておきたい。あんたとオレたちの間に接点なんてあったか? 思い当たる事がまるでないんだが」
レイの問いに多摩の口元が僅かながら綻ぶ。
何もかも見透かすようなこの表情を、レイは少し苦手に感じた。
「簡単な話だ、おまえたちと俺たちに接点が発生しただけの事」
「・・・?」
いぶかしげにレイは眉をひそめる。
多摩は凭れた椅子に肘を掛け、じっとレイを見ながら口を開いた。
「ところでおまえは、自分が他とは違うことを自覚しているか?」
「・・・・・・は?」
突然の不躾な質問に、レイは不快そうな声を上げた。
だが、その反応も想定内なのか、そもそも他人の反応などどうでもいいのか、多摩は平然とした様子で言葉を続ける。
「異端という意味では、俺とおまえは誰よりも共鳴しうる存在かもしれないのだ」
「・・・・・・?」
突然そんな事を言われ、レイはぽかんとする。
異端とか他と違うとか、そもそもほぼ初対面の相手に言う話ではないが、自覚している事を前提に話を進められているのがどうにも納得がいかない。
もちろん普通だとは言えないくらい自分がそうじゃないことくらいは知っているつもりだ。
だからと言ってこの男と自分が共鳴するなど、何をおかしな事を言いだすのかという感想しか出てこなかった。
「俺は、おまえの変化する姿形や瞳の色や特異な力よりも、その魂の位置が少し俺に近いということに興味を持っている」
「・・・・・・?」
「それが何を意味するのか、自分が何者なのか、おまえは何も知らないようだがな」
「・・・・・・オレが何者か?」
「そうだ、考えた事くらいあるだろう」
「考える事に何の意味があるんだ?」
「そんなものはおまえ次第、思考停止するかどうかは別の話だ」
「・・・・・・」
レイは押し黙る。
内心、話とは美久の事ではないのか? と、考えていたのだ。
自分が何者か、そんなことを考えることが今さら何になるのかと、彼にはこれが意味のある会話とは思えなかった。
勿論、その手の事を考える機会など、山ほどあった。
ただ、それを考えることはやはり意味の無いものでしかなかった。
何故羽根を持つのか、瞳の色が変化するのか、異常なまでの力を持つのか、答えが見つかるわけがないだろう。
どういうわけかこういう自分が生まれてしまった・・・それが結論だ。
しかし、多摩の物言いの中に含まれるある一定の同調は一体何なのだろうか。
共通点など昨日今日会ったような男に見出せる程レイの観察眼は鋭くない。
魂の位置と言われても確認しようの無いものに頷けるはずもないだろう。
だからこそ、今の段階でレイが耳を傾けようと興味を示すとすれば、自分の事よりも専ら美久がこの話のどこに絡むのかという一点に尽きる。
───この男はオレたちと接点が発生した、と言った。
それは暗に美久も含まれると言う意味だ。
オレだけならまだしも、どうして美久も含まれるんだ?
この時点では、それくらいの疑問しか持てなかった。
多摩が語ろうとしているものが何れ程の重さを持つのか、知らなかったからこそ平然といられたのだ。
「だったら聞くけど、オレは何なんだ? あんたには分かるっていうのか?」
その物怖じしない態度に多摩は目を細めた。
そして、うっすらと笑みを浮かべた多摩は、低く通るその声で静かに語り始めた。
「世の理(ことわり)から外れた歪(いびつ)な魂、・・・極稀に、そういう者が気まぐれに生を受ける時がある」
「・・・それが、オレだって言いたいのか?」
「それ以外誰がいるというのだ? ・・・おまえが何故この世に生を受けたのか、赦されたのか、それは俺には分からぬ。おまえを望んだ者がいた、それだけのことかも知れぬ。・・・今わかるのはおまえの魂には阻む壁というものが無いという事だけだ。だから人の娘に身も心も捧げる程焦がれる。しかし驚くべきは、魂どころか肉体までも壁が無いという事だ。壁が無いからどこにでも転がり、相手はその影響を否応にも受けざるを得なくなる。・・・その結果、娘は俺たちに最も近くなった。同族食いと忌避されるベリアルの民にだ」
「・・・? ・・・あんたの言葉はやけに抽象的だな。・・・・・・確かにオレが彼女を追いかけ続けて、こんな場所まで来させてしまった。その意味では影響と代償は計り知れないのかもしれないが、美久があんた達と近いっていうのは流石にぶっ飛びすぎてて意味が分からない」
「・・・それほど難しい話をしているつもりはないのだがな。しかし、此処にいる誰もがおまえと同じような顔をしているのを見ると、それが普通の反応なのか」
そう呟いた多摩は周りを見渡しながら、レイだけでなく此処にいる皆が一様に似たような表情をしてることに溜息を漏らす。
皆、多摩の謂わんとしている事がよく理解出来ないのだ。
それを多摩自身も気づいたからこそ今の台詞が出て来たのだろうが、先ほどからの彼の言葉を聞いていると、伝えるためではなく、彼にしか見えていないものを淡々と語っているだけのように感じられる。
多摩は少し難しい顔をして天井を見上げている。
そして、ふと、思いついたように『ああ・・・そうか』と小さく呟いた。
「あの娘・・・、美久と言ったか。・・・あの娘の身体が既にこちら側に転んでいると言えば分かる筈だ」
「・・・・・・?」
「あれは俺たちのはじまりの形だ。俺たちという種を産み落としたはじまりは、人間の女だった」
「・・・は・・・? なに言って・・・」
「まだ分からぬか。・・・・・・おまえは、あの娘を抱いたはずだと言っている」
「・・・っ!?」
「普通の者が人の女を犯したところで何も起きはしない。だが、娘の相手はおまえだ。あの娘は既に種としての壁から転げ落ちている。それも、"此方側"にだ」
「・・・は・・」
「俺たちのはじまりは、それほどの奇妙な奇跡が組み合わされた神の悪戯のような結果だ。おまえのような異端は同種ではなく、異種をほしがる傾向なのか、それは俺には分からない。もしかすると、歪な魂を埋める存在が常に人なのかもしれぬ。本当におかしな話だ」
「・・・・・・・・・」
「そして、誰よりも俺がおまえと共鳴しうると言ったのは、根拠が無い話ではない。俺はかつて都として栄えたこの場所ではなく、極めて閉鎖的な土地で閉鎖的な慣習によって世に生まれ落ちた。それは、繰り返し狭い空間で交わり続ければ、いずれ最も祖に近い者を生み出せるだろうと始められたもので、稀に奇異な能力を備えた者が出現した事を根拠として、いずれはその閉鎖的な土地から国を支配する者を排出させるのが真の目的であった。・・・だが、その当初の野望も、俺が生まれた頃にはすっかり退廃し慣習だけが残っているに過ぎなかったがな」
多摩は矢継ぎ早に言葉を繋いだ。
彼はこんな事をこれまで誰かに話した事は無く、今レイを目の前にして初めて語る内容ばかりだった。
当然ながらここにいる誰もが知らない話に、皆一様に驚きの表情を浮かべている。
「国が滅ぶまで、俺は神子と呼ばれていた。神子とは先を見通す力を持ち、悪しき未来を望む方向へ転換する力を持つ者の事を言う。力の大小はあれど、そのような力を持つ者は極めて稀少であり、かつての王族の未来を見通す神託・・・すなわち託宣のことだが、それは神子のなすべき役割だった。俺は神子を作る為の土地で生まれた最後の神子だ。それは我らが祖に最も近い形を求めた結果に過ぎないが、俺は今、俺たちを最初に作った存在に誰よりも近いと言えるのだ。人の女を求め我らを作った存在にな。・・・・・・ただ、壁はある、俺は種を飛び越えて欲しがったりはしない。・・・おまえにはその壁が無いからあの娘を欲する。俺とおまえの決定的な違いだ」
「・・・・は・・・、なんだそれ・・・」
髪をかきあげ、顔を引きつらせながらレイが口を開く。
閉鎖的な土地の中だけで敢えて交わり続ける・・・それはつまり、その土地の者は皆辿れば血縁関係ということだろうか?
何故そうまでして先祖返りを望んでいるのか分からない、そうして生まれたのがこの男・・・?
オレとこの男が近い? ・・・美久が種としての壁から転げ落ちた・・・? なんだそれは。
「そんな陰謀論めいた話、簡単に信じられるかよ。大体、美久がそっち側に零れ落ちたって、そんなのあり得ない話をされても」
「・・・どう解釈しようとおまえの自由だ。・・・だが、簡単な証明なら出来るはずだ」
「簡単だと?」
「ああ、とても簡単だ。おまえの美久は俺たちと同じものを口にしたからな」
「っ!?」
「信じられぬというなら今度試してみればいい。昨日の話だ、そうだろう、美濃よ」
多摩はレイの隣に座る美濃に突然話を振り、同意を求めた。
驚きと共に美濃を振り返るレイを見て、彼女は申し訳無さそうに肩を竦めて小さく頷く。
「・・・う・・・ん。・・・美久、・・・小瓶に一杯、飲み干してたよ。・・・・・・私、美久が自分と違うって思わなくて」
「・・・そんな・・・」
「ごめんね、ごめんね」
「・・・・・・っ」
レイは己の口元を押さえ、沈黙した。
そんな事があり得るのか?
だが・・・・・・もしも、この一連の話が真実だというなら・・・、
そうなら・・・・・・
ゾク・・・背筋に妙な感覚が走る。
それは、この状況に於いて、明らかに相応しくないものだった。
「・・・・・・・・っ、・・・・・・・・・・・・」
にわかに信じがたいこの男の話。
だが、その全てを否定する気にもなれないのは、あの国に於いて、確かにレイは生まれてはいけない存在だったからだ。
今日に至るまで、彼の存在がまともに受け入れられた事は殆ど無い。
今更バアルに戻ったところで何の意味があるのだろう。
ナディアに疎まれ、彼女の勢力に暗殺されかけ、クラークには傀儡のように扱われて悉く自由が奪われる。
男ばかりの兄弟だからこそ権力欲に取り付かれやすく、彼らは再び現れたレイを潰そうと新たな画策をはじめるだろう。
堂々巡りどころか、事態は悪化するいっぽうだ。
だいたい国の民どころか宮殿内の兵士ですら彼の顔を知らない輩ばかりなのは、今に始まった事ではない。
とても狭い世界だった。
あの頃のレイは宮殿すら出る事を赦されず、拷問のような日々に部屋から出る事も滅多に無くなり、あの場所が世界の全てに成り果てていた。
・・・オレがこの話を半信半疑ながらも聞いてしまうのは、目の前にいる彼らが、オレと美久の未来だと言われているような気にさせるからだ。
同族食いと忌み嫌われ、恐れられた彼らが、喩え何に変わってもオレたちの遠い未来であると・・・───
レイが口元を手で隠したのは只絶句したからではなかった。
浮かべた表情は明らかに焦燥や困惑ではない。
どちらかと言えばその対極に限りなく近く、それは限りなく彼の本心を表したものだったのだ。