『約束』

○第11話○ 誘惑する香気(その10)







 美久はベッドに寝転がり、ぼんやりしながら天井を見上げていた。
 昼は傍に寄り添ってくれている美濃も、夕刻以降になると多摩の元へ戻ってしまうので今は一人だ。
 いつのまにか西日が差している窓外に目をやり、今日も呆気なく一日が終わってしまったと溜息を漏らしてうつ伏せになった。
 この三日、色々考えたけれど結局まとも答えは一つも見つかっていない。
 昼間、窓の外でレイの姿を見つけた時、本当はすごく嬉しかったのに、駆け寄るどころか彼の視界から逃げるように隠れてしまった。
 傍に近づくどころか、視界に映ることさえ躊躇するなら、一体何の為に此処にやってきたんだろう。
 だけど自分のやったことさえ憶えていないのに、この先、まともにコントロール出来るようになるんだろうか。
 このまま、傍にいることも出来なくなってしまったらどうしよう。


 ───コツ、・・・

 ふと、窓に何かが当たった音が聞こえた。
 美久はうつ伏せになった身体を捻り、ゆっくりと窓の方へ視線を向ける。
 単に風が強くなって、雪が窓に当たったのだろうかと、最初はそう思っただけだった。


「・・・・・・え」

 しかし、窓外の光景に、美久は目を見開く。


 ───コツ・・・、

 先ほどと同じ音。
 それは、外から窓を指先で小さく叩く音だった。
 柔らかそうな髪が風に揺れているのが見える。
 胸が苦しくなるほど、毎夜夢に見ていた姿だ。


「・・・レイ」

 立ち上がり、引き寄せられるようにふらふらと窓際に近づいていく。
 何の躊躇も無く、美久は窓に手をかけた。
 けれど、そこでハッとして伸ばした手を慌てて引っ込める。
 レイは僅かに眉を寄せて、美久を見上げていた。


「開けてくれないの?」

 三日ぶりに聞いた声、きゅっと胸を掴まれたみたいになる。
 だけど駄目だ。
 開けてしまったら、同じ事を繰り返してしまうかもしれない。


「・・・ひ、ひとつ・・・約束してほしいの」

 美久は声を震わせながら、レイを見つめた。


「・・・・・・何を?」

 これを言ったら怒るだろうか。
 考えても考えても答えは纏まらなかったけれど、これだけは譲れないと思ったことだった。


「私がまたおかしくなったときは、レイから離れてほしい」

「・・・・・・」

「その時の事、ほとんど憶えてないのに、甘い匂いがしたことだけは鮮明に憶えてるの・・・。そんなのレイだけなんだよ。今、此処を開けてまた甘い匂いがしたら、私はまた同じ事を繰り返すかもしれない。無意識のまま際限なく求め続けて、いつかレイの命に危険が及ぶまで欲しがってしまうかもしれない。だからそうなる前に逃げてほしい。・・・それを約束してくれなければ此処を開けられない」

 レイは感情の読めない顔で黙って聞いている。
 もしかしたらこれから先、事態が好転する可能性だってある。
 それでも今はまだ何も分からない。
 こんな事くらいしか思い浮かばないけれど、こんな窓さえ取り払う事が恐ろしい。


「・・・・・・分かった。じゃあ、・・・そうだな。此処を開けたら、まずオレからその甘い匂いがするか確認してみて」

「・・・う、うん」

 思ったより簡単にレイが理解を示した事に安堵しつつも、此処を開けることに緊張が走る。
 どうか何も起こらないでほしい。
 僅かに指先を震わせながら鍵を開け、ゆっくりと窓を開けた。


「どう?」

 レイが首を傾げながら見上げている。
 いつもは見上げるばかりだから彼に見上げられるのはとても不思議な感覚だと思いながら、大きく息を吸い込んでみる。


「うん・・・、・・・大丈夫みたい・・・・・・」

 何故か甘い香りはしなかった。
 どうしてだろう。


「なら、入るよ。・・・・・・少し、話がしたい」

 そう言ってレイは返事を待たずに窓枠に手をかけると、大きくジャンプして部屋の中へと軽々と飛び込んできた。
 先ほどまで見下ろしていたのが一瞬のうちに逆転して今はレイが美久を見下ろしている。
 彼は小さく笑い、美久の頭を柔らかく撫でた。


「血を流してないと匂わないのかもね」

「・・・あ」

 そう言えばこの前はレイが怪我をしていた。
 直ぐに止血したとしても、服に付いてしまったものや周囲に飛び散ったものまでは消しようがない。
 ならば、普通の何でも無い状態のレイなら問題は無いという事だろうか。
 あれこれ考えていると、彼は壁に寄りかかり、じっと美久の様子を見つめていた。
 僅かに首を傾げると、レイは息を漏らしてぽつりと呟く。


「・・・この数日、やけに貴人の言葉を思い出すよ」

「お父さん?」

「ああ、美久に気持ちばかり押し付けていないかって言われた事があるんだ。あの時は何言ってるんだって思うだけだったけど、今になって納得することばかりで・・・。オレが自分に都合よく美久を振り回すことを、貴人は見抜いてたんだろうな」

 そう言ってレイは自嘲気味に笑みを零す。
 しかし、突然そんな事を言う彼に驚き、美久の胸の中には不安が広がっていく。
 そんなふうに思ったことなど一度も無いのにと。


「他にもこれまで聞き流してきた言葉を色々と思い返してた。クラウザーには"脆い"と言われたよな、とか・・・・・・。それを数日前に会ったばかりの多摩にまで指摘されたこととか。化け物呼ばわりは慣れていたけど、そんなふうに言われるのは珍しいから頭の中で引っかかっていたんだ。・・・だけど言われてみればそうだ。オレの心はいつも簡単に揺さぶられる。それで失敗してきた」

「・・・レイ」

「記憶が無いと美久は自分を責めるけど、結局、血を飲ませたのはオレの意志なんだよ。一生オレだけを口にして生きていけばいいって思ってそうしたんだ。・・・・・・自分の事しか考えていなかった」

「・・・・・・」

 自嘲するレイの言葉に心臓が大きく鳴り響く。
 何だか突き放されて、距離を置かれているような気分だった。
 いつも彼は謝罪する、自分が悪いのだと言う。悪くない事まで謝ることだってある。
 その度に疎外感ばかりが膨れ上がっていった。
 まるで自分の問題だから君には関係無いと言われているみたいで・・・・・・。


「いやだ」

 美久はレイの腕を掴んで首を振った。


「美久?」

「離れて行かないで。・・・何されてもいいから、何だってするから」

「・・・え?」

「私がいやになった? 面倒臭いよね・・・、こんなふうになっちゃって、・・・・・・だけど嫌だよ、振り回されたっていいから離れるのだけは」

「待って、どうしてそうなるんだ。オレ、そんなふうに思わせるようなこと言ったつもりは・・・」

「レイを傷つけるのは嫌。だけど、それで離れるのはもっと嫌だよ」

 美久は掴んだ腕にしがみつき、嫌だ嫌だと首を振って拒絶し続ける。
 レイを傷つけるのが嫌だと線を引こうとしたけれど、その所為で彼が離れて行くなんて受け入れられるわけがない。
 だったらどうしたらいいのか、どうすれば正解なのか。


「違うよ美久。・・・何を言い間違ったのかよく分からないけど、離れるなんて言ってないし考えてない。そんな事、言うわけないだろ」

「・・・ほ、ほんとう?」

「ただオレは、もう失敗したくないから」

「失敗?」

「だから・・・つまり、これ以上過去に拘る必要はないって、それを言いたかっただけだよ。散々拘ってたオレが言えた台詞じゃないけど・・・」

「・・・どうして?」

「オレは過去を押し付ける事で美久を縛り付けようとしていたんだと思う。それに気がついて、色々考えているうちに望みなんて本当はすごくシンプルだったってことを思い出したんだ。・・・・・・傍にいてくれたらいい、オレにはこれだけで良かったんだ」

 レイは掴まれた自分の腕を見て瞳を曇らせた。
 彼女が触れている、触れるほど傍にいる・・・この現実がどれほどの奇跡なのか、忘れかけていたのだと。


「・・・ごめんな」

「ど、してレイが謝るの・・・? 私・・・、レイはもっと我が儘になっていいって思ってるのに・・・」

「これ以上? かなり我が儘通してると思うけど」

「うそだよっ、我が儘なんて全然言えてないでしょう? レイはいつも我慢して私に遠慮してるもの。・・・私が本当の私じゃないから思ってる事を言えないんじゃ」

「それは違う。本当の美久じゃないって・・・そんなこと思うわけないだろ? 違うよ、思ってる事をどう言葉にしていいのか、よく分からないだけだ。オレの心の中なんて浅ましい考えばかりで・・・」

「・・・・・・」

「美久、甘やかし過ぎだよ。一体どれだけオレが美久から奪った? 他愛無い日常、生まれた世界、貴人、・・・これって全部だろ」

「それじゃ足りないから駄目なの・・・・・・。私がレイとの過去を忘れたから、欠けてるんだよ」

「・・・どうしてそんな・・・。足りないって、欠けてるって何だよ・・・、ずっと・・・そんなふうに思ってたのか?」

「だって・・・私は・・・」

 レイに問われて、美久は言葉に詰まる。
 どうして彼が拘らないと言ってくれたものを拘ってしまうんだろう。
 ずっと足りないと思っていた。
 何かが欠けているとも思っていた。
 レイと共有したはずの思い出を、一切忘れてしまったからだと・・・・・・。

 だけど・・・本当にそれが私の本心なんだろうか?

 彼は過去を見る、その傷を引きずって生きている。
 今までも、これからもそれはきっと変わらないだろう。
 傍にいるだけでいいと言われて、それを素直に受け止める事に違和感を憶える。
 少しも気持ちが軽くならないのだ。
 だってそれは・・・・・・


「───知らない誰かをレイが好きなのが嫌・・・」

「え?」


 ・・・・・・あぁ、そうか。

 そうだったんだ。
 頭で考えるより先に、口から出たこの言葉が真実だと思えた・・・。
 今まで漠然としていた焦燥の答えはきっとこれだったのかもしれない。


「レイが私を通してその人を重ねて見て、想ってるのが嫌で堪らない。だって、それが私だって言われてもよく分からないよ。レイだってずっと拘ってたじゃない。今さらもういいなんて言われても分からない・・・っ。今のままじゃ、私はレイの半分を知らない人に取られてるみたいで・・・・・・だから突き放されると、たった一人で放り出されたみたいになるよ。いつまで経ってもふわふわ彷徨ってて、一向にレイの手を掴める気がしない。まだ足りない。私が足りないからこんなふうに考えちゃうんだって・・・。・・・だけど、私は本当にレイの好きな私なのかな・・・? レイが好きな人はもうどこかに行っちゃって、身体に入ってる私は違う誰かなのかもしれないよ」

「美久、何でそんなこと」

「こんなに遠くに来ても、分からないことばかりが起こるんだもの。怖いよ、足元が崩れて、立っていられるのがやっとなのに・・・っ」

「美久・・・っ」

「教えて・・・、私はちゃんとレイの見てる私で合ってる?」

「合ってるよ、当然だろう。どうして間違うんだよ、入れ物が同じってだけならオレが美久に気づく事なんて出来ないんだから」

 美久の瞳は不安定に揺れている。
 レイがどうして自分の傍にいてくれるのか、それすら分からなくなってしまいそうだった。
 小さな傷口を広げたら、際限なく広がっていく。
 この手を離されてしまったらどうしよう。
 自分が本当はレイの好きな美久とは違ったのならどうしよう。
 何の根拠があってレイが自分をその人と断定しているのかが分からない。
 言葉にしたら全て間違っているような気がしてとても恐ろしい。


「・・・・・・オレは美久がどこにいても探せる。自分でもどうしてそんな事が出来るのかよく分からない。けど、たぶん・・・オレは“此処”にいる美久に引き寄せられてるんだよ」

 そう言ってレイは美久の胸を指差し、『わかる?』と首を傾げた。
 入れ物じゃない、中にいる君だよ、そう念を押されている気がして唇を震わせた。
 間違ってないんだろうか、自分で合っているんだろうか。


「ほんとう?」

「“此処”には美久しかいないよ。別の誰かなんて最初からいない。・・・・・・だけど、美久はそう思ったんだな・・・、オレが他の誰かを見てるって。それって、オレの方がよっぽど酷い事してるじゃないか・・・」

「・・・ち、ちがう・・・っ、だって私・・・」

「・・・・・・美久は思い出したいって、本当に思ってるのか?」

「・・・うん」

「本当に?」

「だって、そうしたらレイの見てる誰かが分かるから・・・」

「オレが見てるのは美久だよ」

「レイは嫌なの? 私が思い出したら嬉しくない?」

「それよりも美久が心配だよ。だってオレの中の記憶を美久に見せることで、もしかしたら思い出せるかもしれないっていう何の確証もない話なんだ。・・・思い出せなかったら美久はただ見せられただけで、また嫌な想いを味あわせるだけになる。・・・・・・それって意味があるのか?」

「・・・」

「それに、巽はこの件に随分自信がなさそうだった。安易に話に乗るのが正しいのかよく分からない」

 レイは考え込むように視線を落とす。
 その表情は本当に美久が思い出す事よりもリスクの方を危険視しているように見えた。
 何となくそれにホッとしている自分が居る。
 気持ちを優先してくれている・・・、それが分かって力が抜けそうだった。


 ───と、
 不意にレイが顔を上げる。
 そのまま視線を扉に向け、とても嫌そうな顔をして彼はぽつりと呟いた。


「・・・来たか」

 意味が分からず首を傾げていると、レイは扉に向かって歩き出す。
 そして、廊下に出てから『おいで』と手招きされて美久は彼を追いかけ、その視線の先に目を向けた。


「あ・・・」

 白装束を着た長身が此方に向かって一人で歩いてくる。
 レイの視線を受けて、僅かに口端しがつり上がったのが分かった。


「・・・・・・結局、おまえ一人で決めなかったか」

「ああ」

「・・・それで結論は出たのか」

 多摩は抑揚の無い低い声でレイに問いかけた後、美久に視線を移す。
 まだこの紅い瞳に恐怖を感じた。
 けれど、怖じ気づいている場合ではないと、大きく息を吸い込んだ。


「私は・・・巽さんの力を借りたいです」

「・・・美久っ!?」

「たとえそれで思い出せる事が何もなくても、レイの中にある強い想いの始まりがどこからやってきたものなのか・・・それが分かるだけでもいい」

「・・・・・・だけど」

「何だ・・・、最初はレイの願いだったはずが、今は美久がそれを願い、レイが反対しているのか。おかしな二人だ」

 多摩は揶揄するように言い、それを聞いたレイは小さく舌打ちをする。


「・・・・・・オレはこの件に関して自分の意見を通す気はない」

「ほう、ならば巽の力を借りるというのが結論か」

「そうだな・・・」

「では神託についてはどうだ。これこそおまえ一人で出す結論だ」

「・・・・・・」

 レイは沈黙し、多摩をじっと見ている。
 美久が不思議そうな顔で見上げていたが、今はこの男との駆け引きに集中すべきだろうと、視線はそのままに美久の手だけを握りしめた。


「その前に一つだけ確認したい」

「なんだ」

「・・・授けられた神託が外れるということはあり得るか?」

 レイの言葉に多摩の目が僅かに見開かれる。
 しかし、直ぐに表情は元に戻り、彼はゆっくりと窓の外を見上げた。


「記憶している限りでは一度も無いが、あり得ないとは言わぬ」

「どういうことだ」

「とっくに捩じ曲げられているはずのおまえが、今ももがき続けているからだ」

 多摩はもう一度レイに視線を向け、ニヤリと嗤ってそう答えた。
 どうやら彼はレイが何を聞きたいか既に分かっているらしい・・・それが分かったレイは喉の奥で笑いをかみ殺し、長めの前髪をくしゃくしゃとかき流した。


「・・・・・・やはりクラークの神託をやったってのは本当なのか。アイツは一体何を・・・いや、聞くまでもないことか」

「分かるのか」

「クラークの望みでオレの未来が捩じ曲げられるとするなら、それはいつもアイツがオレに望んでいたことしかあり得ない。バアルを継げとな。・・・・・・だとしても、お前がオレの神託をやろうなんて突然言い出したのが意味不明だが。・・・それって、オレが此処でお前たちと係わりを持った事が関係しているのか?」

「・・・・・・」

「まさか自分でやった神託に巻き込まれそうだとか言わないよな。それでオレの神託をやって、どんな未来を歩むのか見てみようという腹だとするなら、これほど笑える話も無い。そんな未来も予測出来ないほど神託とはあやふやなものなのか?」

「・・・・・・」

「何故答えない、反論一つしないつもりか?」

「反論はしない。・・・ただ、全てが想定外だっただけだ」

「どういう意味だ」

「捩じ曲げた相手が此処までの化け物に育つとは思わなかったからな。神託すらあがなおうとする者がいるなど、誰が想像するものか。・・・おかげで、巻き込まれる相手が増える一方だ」

「知った事かよ。少なくとも自分がやったことが発端なら自分が巻き込まれる分くらいお前自身でなんとかすればいい。・・・・・・兎に角、今のオレが完全にアイツの自由にされてるわけじゃないなら、この話は終わりだ。神託なんてオレには必要ない。クラークと同じ方法を取るなんて冗談じゃないからな」

「ならばどうする。おまえはただもがき続けるだけか?」

「これからはもっと大きくもがいてやるよ。クラークの思い通りに生きなくて済むように」

「・・・・・・そうか」

 小さく頷き、多摩は静かにレイを見つめる。
 そして、数歩前に進んで顔を近づけると、唇を歪めて笑みを浮かべた。


「おまえ、数日前の弱々しさが嘘のようだ。・・・・・・何か違う流れを引き寄せたか。あの黒い影も・・・」

「・・・っ!?」

 どうやらあの黒い影は多摩にも見えていたらしい。
 あれが何なのかはレイにも確証はないが、違う流れになったのは間違いない。
 多摩にはあれが何なのか分かるのだろうか。


「おまえたちの考えは理解した。巽にも準備をしておくよう伝えておく。決行は明日だ」

 多摩はそれだけ言うと、背を向けてまた来た道を戻って行く。
 自分から神託の話をし始めた割に、随分あっさりと退いたのに違和感を憶えたが、不意に美久が繋いだままの手に少しだけ力を入れたのに気付き、ハッと我に返った。


「レイは未来に興味がないの?」

 不思議そうに美久は首を傾げている。
 レイはくすりと笑い、既に誰の姿も見えなくなった廊下の向こうにもう一度視線を向ける。
 本当は興味がないわけではない。
 しかし、そんなものに頼って、どうしても看過出来ない未来が見えてしまったとき、変えてほしいと思う欲求に勝てるとは到底思えない。
 そして変えた未来を歩き、全てが思い通りになったとして、それでは過去に歩んで来た自分は一体どこへ行ってしまうというのだろう。
 今の自分は苦しんでもがいて、そうやって美久に手を伸ばした挙げ句に彼女をこんなふうにしてしまって、それでもまだもがこうとしている。
 全て無意味だ、違う方法があると道を切り開かれることは、これまでの自分を否定されるようなものだ。


「先を見てしまうと楽しみが半減するだろう?」

「・・・ああ、そっか。・・・ホントだね」

「こうして美久に触れられている今がオレは好きだよ」

「・・・・・・うん」

 美久の手を自分に引き寄せ、その指先に口づける。
 過去に思いを馳せる事で、彼女を傷つけてしまうことがあるなんて考えもしなかった。
 だが、言われてみればそれは当然の心理だったのではないだろうか。
 憶えの無い話をされて、それが自分だとどうしたら自覚できる?
 行き過ぎればそれは強要以外の何ものでもない。
 美久は懸命にそれを自分のことだと消化しようとしていたのだろう。
 それでもどうしても自覚出来ない、次第に思い出せないのは人違いだからではと思い始めてしまう。
 彼女にそう思わせてしまうほど、追いつめてしまったのだ。


「美久、・・・明日何を見ても、それを見てどう感じても、望んでいるのは過去じゃないってことを間違えないで欲しいんだ」

「・・・・・・」

「他の誰かなんて見ているわけが無い。・・・オレはちゃんと今の美久を見続けて来た。生まれたときから知ってるよ」

「・・・えっ」

 美久はとても驚いた顔をしている。
 それはそうだろう。
 自分が生まれて来たときから見ていたと言われて、驚かないわけがない。
 成長する彼女をずっと見ていた。
 とても幸せだった。
 同じ世界で息を吸っていることだけで嬉しかった。
 そんな些細なことが幸福だと思っていたのに、本当に贅沢になってしまった。
 もっとその気持ちを大切にしなければならなかったのだ。
 美久に会いたいと、それだけを願って待ち続けて来たのだから───








第12話へつづく



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