『約束』

○第11話○ 誘惑する香気(その9)







「美久、どうしたの?」

 隣を歩いていたはずの美久が急に立ち止まり、息をひそめて窓の外を見ているのを不思議に思い、美濃は声をかけた。
 美久は敢えて窓際に寄っているのか、まるで何かから隠れているみたいだ。
 けれど、彼女の目はしっかりと何かを捉えていて、手にはキーケースが握られていた。
 視線を追いかけた美濃は窓外を眺め、レイがいることに気付く。
 驚いたのは、背に生えていた羽根が消えていたことだ。
 ならばもうすぐ彼は美久に会いにくるはず・・・、乾からそう聞いていた美濃は、窓際にそっと近づいた。


「・・・・・・美久、・・・レイが来たらちゃんと会うんだよ」

「・・・っ」

 美濃に言われ、美久はビクッと身を震わせた。
 迷うように視線を彷徨わせ、キーケースに額を押し付けると、掠れた声が廊下に小さく響く。


「・・・・・・会いたいよ。・・・・・・けど、・・・・・・・・」

「・・・美久」

「私の頭の中・・・大切な事ほど忘れてしまうみたい・・・。過去の事だってそう、何にも憶えてない。・・・・・・そのうえ、今度はレイの血を欲しがった事が思い出せないなんて・・・。知らない間に、自分が何をするか分からなくてすごく怖いの。・・・・・・いつか・・・レイを襲うのかな・・・。それすら忘れちゃうのかもしれない・・・・・・」

 カタカタと身体を震わせて、その顔は青ざめていた。
 それでも窓の向こうに見えるレイから目が離せないでいる。
 自分だけは彼を傷つけたくないと思っていた。
 それなのに、その反対の道を進もうとしている・・・。
 会いたい一心で追いかけて、こんな現実が待っているなんてあんまりだ。


「悪い事ばかりじゃないよ。過去の事は巽が何とかしてくれるって言ってたもの。だから、そんな顔しないで。・・・ね?」

 励まそうと明るく振る舞いながら、美濃は美久の肩に手を置く。
 少しぎこちない笑顔だったけれど、彼女の気持ちは充分伝わってくるから、美久はそれ以上はぐっと言葉を飲み込んだ。
 けれど、心の中は少しも晴れる事無く、不安ばかりが増大して押しつぶされてしまいそうだった。

 ・・・・・・レイは気絶してたんだよ。
 私が欲しがったから、好きなだけ与えようとして気絶したんだ。
 それって、気絶させるほど欲しがったって事なんだよ。

 自分が意識をなくしていた理由も聞いたが、そんなものはどうでもよかった。
 レイの血を欲しがって、彼が気絶してしまうほど欲しがって、いつかその血を一滴残らず飲み干してしまうのではないか。
 いつか彼を殺してしまうんじゃ・・・そう思うと身がすくむ。
 前を進むのが恐ろしく思えた。

 レイを傷つけるのだけはいやだ、それだけはいやだ・・・っ。
 クラウザーのように、彼を傷つける他の多くの人々と同じになってしまう。
 それよりもっと酷いことになってしまう。
 だって、レイから香った甘い香りが・・・それだけはやけに鮮明に憶えてる・・・・・・。
 そんな自分が怖くてたまらない───









▽  ▽  ▽  ▽


 一方その頃、レイと正門で別れた乾は、その足である場所へと向かっていた。
 最初は早足程度の速度だったが、次第に全速力で廊下を駆け抜け、その心中がどれほど乱れているか分かるような動きだった。


「ヤバい事に気がついちまった!!」

 乾は声を上げながら書庫に駆け込む。
 何気ないふりをしてレイと別れたものの、思い浮かんでしまった“ある考え”を確かめるため、彼はこの場所に直行したのだ。
 しかし、ずらりと並ぶ本棚の列を見て、乾は固まる。
 普段から本になじみが無い乾にとっては迷宮に迷い込んだ気分になってしまい、この中のどこに目的のものがあるのかと途方に暮れ、いきなり戦意喪失して顔を引きつらせていた。


「・・・何がそんなにヤバいんだ?」

 不意に、ずらりと並ぶ本棚の列の隙間から巽が顔を覗かせた。
 既に先客がいたことを知り、乾は目を丸くする。


「あー、いや・・・。・・・・・・ちょっとな。・・・・・・ていうか、巽は・・・読書か?」

 冷静な声で聞き返されたのが何だか気恥ずかしく、乾は誤摩化すようにその辺りの本に手を伸ばしながら答える。


「・・・・・・レイ殿を監視するのにまだ口出しをするなと言われ、少し暇を持て余してな。こうして空いた時間で時々調べものをしている」

「そ、そうか・・・。手伝おうか?」

「此処に用があって来たんじゃないのか?」

「それはそうだが、あまりに本が多くてこれじゃ直ぐに探せそうも無い。・・・取りあえずこの中がどうなってるのか把握してからと思って・・・」

 若干困り顔で乾は肩をすくめる。
 それを見た巽はくすっと笑い、持っていた本を脇に抱えると乾の方に近づいて来た。


「書庫に入るのは初めてか? どんなものを探しているのか言ってくれれば、おおよその場所は分かるぞ」

「え、ホントか? ・・・・・・なら、・・・・・・これまでの神託を記された本を・・・」

「・・・!?」

「前に言ってたろ。そういうのがあるって」

「・・・・・・ああ」

 巽は小さく頷くと、少しの間、乾の表情を探るように見ていた。
 しかし、やがて身を翻すと着いてくるように視線で促し、乾を奥へと誘導する。
 後を追う乾は広い書庫の最奥に更なる扉が有ることを知り、その扉を開けて中へ入って行く巽の後を黙って着いていく。


「この部屋には禁書扱いの書が主に並んでいる」

 そう言って、勝手知ったる足取りで中ほどまで進み、ずらりと並ぶ本を指差しながら振り返った。


「この辺りが全てそうだが、いつ頃の神託が知りたいんだ?」

「え、・・・って、こんなにあんのかよ・・・・・・」

 乾は呆然と指差された場所を見上げる。
 同じ装丁と思われる分厚い書が十冊ほど並んでいた。
 文字を見ると眠くなる体質の為、ついぞ読書などしたことが無いが、いきなりこれは骨が折れそうだ。
 だが、巽がわざわざ"いつ頃"と問いかけたのが気になり、乾はもしやと思いながら聞いてみる。


「まさかこれを全部読んだのか?」

「いや、背表紙に年代が書かれているようだからそれで大体分かるかと思ったんだが」

「あ、ナルホド。じゃあ、後は自分で調べるよ。ありがとな、助かった!」

 笑顔を向けて礼を言うと、乾はそのまま端に置かれた書を手に取る。
 迷いなく選び取ったそれは一番新しいものだ。


「・・・・・・神子殿の神託か」

 目次を見て難しい顔をしながらパラパラとページを捲る乾の指先を見ていた巽は小さく呟いた。
 その言葉に僅かに顔を上げた乾はへらっと笑い、思わぬ事を口にする。


「恐らく記載されていないだろうがな」

「記載されていない?」

「なぁ、巽は神託についてどれだけ知ってる? 未来が見れるとかそういうの抜かして」

「そこを抜かすと・・・分からない事の方が多いんじゃないか」

「やっぱ巽もか。・・・・・・俺も精々思い出せるのって姫さまの神託と・・・後は神託が王族だけの特権ではなく、主に国の有力者にも授けることが許されていたってことくらいか。だけど俺はこのずらっと並んだ分厚い書を見てピンときたね。そんで、この書をちょっと見ただけでも王族の神託だけが記載されたものではないと分かって確信したよ。つまり、こういった書が宮殿に存在するってことは、王が神託の決定権を持って管理していたってことだ。考えてみれば当然だが、神子の力は使い道によっては国を脅かすものになりかねない。独断での決定を許せば、万が一に神子が反旗を翻した場合に太刀打ちが出来なくなるからな。流れとしてはこうだ。神子の里、もしくは王を通して有力者が神託を依頼する、王が判断の上決定を下す、神託を授ける、そして、この書に記載・・・・・・」

「その流れを無視して行われた神託があると?」

「ああ。王の判断という部分をすっ飛ばせば書には記載されない。つまり、神子の里に直接依頼されたものの中にそれはあったはずだ」

「乾がそう考える根拠は何だ?」

 巽は険しい顔で乾の顔をじっと見ている。
 それを見て、乾はニヤリと不敵な笑みを浮かべた。


「思い出せよ、バアルとの密約を成立させるため最初に話を持ちかけたのは俺たちだ。あの交渉で神子の話が出た際にクラーク王は何と言っていた? 多摩が子供の頃に、バアルで神託を授けたことがあると言ったんだ」

「・・・・・・ああ。クラーク王は確かにそんなことを言っていたな。だが、どうして異国の彼らが神子を知っていたのか、何故彼らに神託がなされたのか、色々と経緯のよく分からない話だった」

「そうなんだよ。だがな、問題にすべきは神託が行われた頃のバアルとこの国がどんな関係だったかという点なんだ。答えは簡単、明確な敵対関係だった。俺らもよく前線に狩り出されてたしな、その辺は分かってる。・・・その敵国に神託? ありえないだろ。バアルにとって都合の良い未来を授けるんだぞ、当時の王がそれを赦すわけがない」

「・・・ならば何の為に? それこそ神子たちにとっても利がないだろう。リスクが高すぎる」

「リスクを冒してでも得られるものが大きいと判断されたなら?」

「・・・・・・」

「そこで、もうひとつ考えるべきことがある。当時、神託には報酬があったことは割と知られた話だが、それが何であったかということだ。神子の里が辺鄙な場所にあっても成り立っていられた理由は、その報酬に依るものと考えて間違い無いだろう。その報酬の詳細は何故か明らかにされていない。・・・が、俺が考えるにそれは食糧だったんじゃないかと思うんだ。神託が王に管理されていたことを考えると、通常の流れでは報酬は王政側から受け取る仕組みだったのかもしれない。生命線を握っておけば、驚異となる可能性のある神子の力も、遠く離れた都から操作が出来る」

「では、バアルは自らの民を犠牲にして、神託の報酬である食糧を神子に与えたと・・・?」

「恐らくな。・・・勿論、神子たちがどんなつもりでバアルの話を受けたかは分からない。報酬に釣られただけかもしれないし、王政の管理から抜け出て反旗を翻す気だったのかもしれない。今となってはその真相は闇の中だ。ただ、神子の里を俺はこの目で見て知っているから断言するが、あそこの連中は自分たちに都合のいい話であれば、多少危険を冒してもやるんじゃないかと思う程度には腐敗していた。・・・・・・しかも、その危険を冒すのは多摩だ。あの頃の多摩は白い牢獄に閉じ込められ、まともな知識を与えられていない。自分の意志すら何一つ持たなかった。ただ神託をやれと言われれば、素直に従うだけだったろう」

 神子の里に対する理解度という点に於いては、圧倒的に巽よりも乾の方が勝っている。
 何故なら、彼は里が崩壊する直前までそこで生活をしていたからだ。
 その乾が知る神子の里の真実も一部ではあったが、知りえた話がどれも腐りきっていたというのは事実だった。
 そして、生まれたときから閉じ込められて育ったあの頃の多摩は、誰とも深く関わる事無く、神託の際だけ外に出ることが赦され、ただ淡々と言われた事をこなす都合のいい人形だった。


「・・・・・・乾。・・・・・・今日のお前は、やけに冴えているが・・・・・・、要はバアルで行われた神託の内容が書に記載されているかどうかで、その推論を確かめられるというわけだな?」

「そういうこと。・・・ただ、本当に知りたいのは、バアル王が望んだ未来が予定通りのものなのか、違うものを望んだのかって部分だけどな。・・・さっき、レイと話してて急に気になったんだよ。アイツ、俺に無い発想持ってて面白いんだよ。見えた未来が望まないものだとして、それを変えた場合、とばっちりを受ける奴が出るって言うんだ。なるほどって思ったね。そんで、もしバアル王が見えたものと違う未来を望んだのなら、とばっちりを受ける者の中にレイがいたって不思議じゃないよなーと」

「・・・っ!!」

「しかもだ。もしレイが運命って奴を変えられたのなら、それは多摩が授けた神託の所為という見方も出来てしまう。・・・・・・でさ、この地には実際に今、レイがいる。多摩と出会っちまった。その意味を考えるとな・・・ゾクゾクしないか? 俺たちもヤバいかもって。巻き込まれちゃう気がすんの」

「・・・・・・っ」

 巽はハッとして先ほどの多摩との会話を思い出す。
 多摩はそれらしきことを確かに言っていたのだ。
 レイと自分たちが無関係ではないと。
 それが過去に行った自分の神託に依るものと理解しての言葉なら・・・


「・・・乾、・・・時々お前は本当に凄いと思うが、今日ほどそれを思った事は無かった・・・」

「時々は余計だろーが。まぁ、滅多に頭は使わないけどな。・・・ところで、巽の調べものは? 俺のは直ぐに終わりそうだし、手伝うぞ」

「俺の方は後でも良い」

「そうなのか?」

「ああ、神子殿の話を聞いているうちに気になったことがあってな。お前とは反対に、神子を遡っていたんだ。自分たちの始祖に一番近いのが初代の神子、もしくはそれこそが始祖本人だったかもしれないとな。そこから何かが見えてくるかもしれないと考えたんだ。始祖がどこからやってきた誰だったのかが・・・・・・」

「へぇ、それも面白そうな話だな」

「レイ殿を見れば、彼が特別な存在だというのがよく分かる。力、姿、あらゆる面で、それは人々の噂に上るほどのものだ。・・・・・・ならば、俺たちの始祖も名の知られた誰かだった可能性もあるだろうと・・・。だから、主に神子の成り立ちのようなものが記載された書を漁っていたんだ」

「よし、じゃあそれはこっちが片付いたらにしようぜ」

「ああ。まずはその書を調べ、神子殿に真相を聞こう。・・・答えるかは分からないがな」

 二人は目を合わせ大きく頷く。
 乾は書をぺらぺらと捲りながら一つ一つの神託を事細かに確認し、傍らでは巽もそれを目で追いかけた。
 しかし、その書の中にはやはり、バアルで行われたという神託を記したものはどこにも見当たらなかったのだ。
 緊張した面持ちで二人とも立ち上がり、後はもう何も言葉を交わす事無く書庫を出ていく。
 無人になった書庫では、少しの間、彼らの足音が微かに廊下から響いていたが、やがてそれも遠ざかり室内は静寂にのまれた。



 ───ところが、その静寂の中、書庫ではひとつの変化が起きていた。

 突如、"黒い影"が此処にも現れたのだ。
 その影は今まで彼らがいた場所まですっと動き、ずらりと並ぶ歴代の神子の神託が記された書の前を浮遊し始める。
 そして、不意に“初期の神託”が記された書が徐々にせり出すと、やがてその一冊が宙に浮いてゆっくりとページが開かれた。
 影がいつからこの場所に潜んでいたのかは分からない。
 静かな書庫の中を、ただページを捲る音だけが時折響く・・・、それは誰に気づかれる事もないまま、日が落ちる頃まで続いた。








その10へつづく



<<BACK  HOME  NEXT>>




Copyright 2013 桜井さくや. All rights reserved. Never reproduce or republicate without written permission.