『約束』

○第11話○ 誘惑する香気(その6)







 ───・・・久、・・・・・・美久・・・・・・

 遠くから誰かが呼んでいるのが聞こえた。
 とても心地のいい声だ。
 そして、とても優しい・・・、大好きな声。
 その声の人を振り返ると手を伸ばされた。
 こっちへおいでと、そっちに行ってはだめだと。
 私も手を伸ばしてみた。
 けれど、その手には届かず、糸の切れた風船のように流されていく。
 私はどこへ行くんだろう。
 伸ばされた手は見えなくなってしまった。

 ここはどこ? 誰かいないの?

 どこへ流れ着くのか分からなくて、不安で泣いた。
 この手を伸ばし続ければ、何かを掴めるんだろうか・・・・・・───?





「・・・美久、・・・美久、美久!!」

「・・・・・・え・・・?」

 大きく身体を揺さぶられて、唐突に視界が広がる。
 目の前には美濃がいて、何故か蒼白になって叫んでいた。


「・・・・・・美濃・・・ちゃん?」

「そう、そうだよ。私が分かるんだね、良かった・・・良かった!! 今・・・すごいうなされてたから・・・」

「・・・・・・?」

 意味が分からなくて首を傾げながら周囲に視線を移した。


「ここ・・・どこ。・・・・・・レイは・・・・・・」

 つい先ほどまで一緒だったはずだ。

 私、どうしたんだっけ。
 確かレイに組み敷かれて・・・、・・・それから・・・

 なぜか記憶はそこで途切れていた。
 思い出そうとしてもうまくいかない。
 断片的な絵がいくつか頭に浮かぶが、それが現実だったかすら曖昧だった。


「ごめんね・・・、美久だけ部屋を移動させたの。レイは・・・あの部屋にいるよ。・・・今は多摩と巽がついてる」

「・・・・どうして?」

「っ・・・そ、・・・それ、・・・は・・・」

 言い淀む美濃を見上げながら、ふと、窓から入る光に意識が移る。
 すっかり日が昇って、いつのまにか昼になっていた。
 随分寝すぎてしまったみたいだ。


「私、レイとまだちゃんと話せていないから・・・戻らなきゃ・・・」

「い、今はまだ・・・待って」

 ベッドから降りようとすると美濃に止められる。
 怪訝に彼女を見上げると、美濃は困ったように目を伏せた。


「・・美久。・・・あの部屋で・・・レイと何があったか、覚えてる?」

「・・・? ・・・うん、話をしていたの。少しすれ違いがあったから、乾さんにもちゃんと話した方が良いって言われて。・・・・・・だけど、話しているうちにレイの様子が少しずつおかしくなって・・・・・・」

 レイは怯えているようだった。
 ・・・だけど、その後の記憶はやはり曖昧だった。
 考え込んでいると、美濃の手に両手を包み込まれる。


「難しいことは私もよく分からないけど・・・、多摩は美久たちに大きな問題が生じたって言ってた」

「・・・?」

「それで・・・ひとつ確かなのは・・・、レイと美久が一週間眠り続けていたってこと」

「───・・・え?」

「レイは・・・たぶんまだ眠ってる。少なくとも朝見にいった時までは眠ってた」

 にわかに信じ難い話に美久は目を見開く。

 どういうこと?
 一週間? 一週間も眠り続けていたっていうの?


「それから、・・・多摩が、・・・何度か此処に来て美久の頭を・・・、こう・・・何か、確認するように・・・・・・手のひらを紅い光りで覆いながら・・・触ってた」

 そう言うと、美濃は美久の額に自分の手で触れて、多摩がやっていたと思われる動作を再現してみせる。


「ねぇ、美久は、・・・記憶が、・・・ないの?」

「えっ」

「乾がそんなことを言ってた。多摩は何も言わないけど、一週間前大きな音が西の建家から聞こえて・・・。あの時、私は多摩に鍵をかけられて部屋から出してもらえなかったの。だけど、後で聞いても多摩はちゃんと教えてくれなかった。他のみんなも多摩が話さない事は話してくれないし、最初は二人の部屋にも入れてもらえなかった。・・・・ねぇ、本当に二人は話し合ってただけ? ・・・本当にそれだけ?」

「・・・・・・」

 美濃の質問にどう答えて良いか分からない。
 話していたのは本当だ。
 けれどその後の記憶が曖昧で本当に分からないのだ。
 だから今こうして引き離されている理由が分からず、疑心暗鬼になってしまう。
 そもそも美久の記憶が無いことなど、彼らには関係がない話だ。
 頭を触るとはどういう意味だろう。
 しかし、考えたところで美久に分かるわけも無い。
 今はこの状況の方がよほど理解出来ないのだ。


「美濃ちゃん、・・・どうして私はレイと離されたの?」

「・・・それ・・・は」

 美濃は何かを言い淀んでいるように見える。
 一週間も眠り続けていた・・・それが事実なら、レイと自分に何かが起きているということなのだろうか?
 考え込んでいると、コンコン、と扉がノックされ返事を待たずに乾が顔をのぞかせる。


「ああ、起きたか。同時だな」

「え?」

 意味深な台詞に首を傾げる。


「さっき向こうに顔を出したら、レイも目を覚ましたところだった」

「・・・・レイは・・・」

「まだ意識が混濁してるのか、まともな受け答えは出来てない様子だったかな・・・」

「・・・・・・っ」

「あ、ルディに関してはひとまず峠は越したよ・・・完治までは・・・今は分からないとだけ。・・・思いのほか、多摩が柔軟な姿勢を示した・・・というよりも、この件は多摩にとって最初から眼中に無かったんだろう。だから、いつまでも関わるのが面倒だったんだろうな。・・・まぁ、この一週間の変化はそんなところ」

 乾の言葉に美久は僅かに安堵した。
 あれからどんなやり取りが交わされたかは分からないが、言葉通り、乾が動いてくれたとことが分かって安心した。
 しかし、それにしては乾の表情がどこかぎこちないのは気のせいだろうか?


「それはそうと、今から少し話を聞いてくれるか? 一週間前、美久たちがいたあの部屋で俺たちが目撃したこと。それによる推論で多摩が考えたことを・・・」

「・・・は、はい」

「姫さまにも聞いてほしい」

「私も聞いていいの?」

「是非。俺から2人に話すことは多摩の意思でもある」

 何が起こっているのかよく分からないのは美久だけではない。
 いつになく真剣な乾の表情に、美濃は少し緊張している様子だった。
 美濃は美久の手をぎゅっと握ってベッドの上に腰掛け、その様子を見ていた乾も近場の椅子をベッドの前に置いて腰をかける。


「・・・まずは、そうだな。・・・一週間前、レイと美久があの部屋でどういう状態だったのか、そこから順を追って話していく」

 乾の声はとても静かで、敢えて自分の主観を挟まないよう、あくまで客観的な視点から口にしようとする様子が伝わってくる。
 だからこそ、その後に語られた話を聞いた美久は愕然としながらも、自分たちが引き返せない程の深みにはまっていることを理解した。
 そして、風船のようにふわふわと飛んでいく自分を止めたのが誰だったのか・・・それが分かった気がした。
 あれは貴人だ。
 元の場所に戻るよう懸命に手を伸ばし続けた貴人の声だ。

 クラウザーに言われた通り、私は持っているものを随分捨ててしまったみたいだ。
 ここが辿り着いた場所だとしたら、私が伸ばした手はちゃんとレイを掴めたんだろうか?
 それすらも分からない・・・どんどん分からなくなっていく。

 美久は乾の話を聞きながらぼんやりとそんなふうに考えていた。
 自分自身がこんな形で変わっていく事は想像していなかった。
 知らないうちに思わぬ方向に転がっていく不安と未知の恐怖・・・そして、この先自分が何かとんでもない事をしてしまいそうな恐ろしさに指先は冷たくなり、背筋に走る鳥肌が暫く止まらなかった。

 

 

 

▽  ▽  ▽  ▽


 レイの意識が戻ってから既に半時程が経過していた。
 乾の言っていた通り、彼の傍には多摩と巽が付き添っている。
 二人ともレイが反応を見せるまで身動き一つせず、特に会話を交わすことなく沈黙を続けていた。


「・・・・・美久、・・・は・・・どこだ」

 やがてレイは傍らにいる二人に視線を向けて問いかける。
 顔色はそれほど悪くない。
 未だその瞳が金に瞬いていることや、背の羽根が消えて居ない点を除けば、あの全身から感じられた不安定さも鳴りを潜めているように見える。


「・・・答えろ・・・、美久をどこへ隠した」

 片眉を吊り上げてそう問いただす姿は、明らかに自分たちの状況を理解していない。
 多摩はベッドの傍に置かれた椅子に座ってレイを黙って見ていただけだったが、二度目の問いかけにゆっくりと立ち上がった。


「美濃が傍についている」

 答えにならない答えを素っ気なく返し、彼は遠慮なくベッドの上へと腰を降ろした。
 レイの瞳は多摩を睨んだが、多摩は意に返さぬ様子で静かに口を開く。


「・・・・・・今日で一週間になるか。一日以上部屋から出てこないおまえたちを初めに乾が気にかけ、美濃にまでその感情が伝染し酷く騒がれた。仕方なく部屋に踏み込んだのは夜半頃だったか・・・。おまえたちは身体を繋げたまま気を失っていた。あれを眠っていたなどと形容出来る者は恐らく居ないだろう。血に塗れたおまえたちは、なかなか凄惨な様相を呈していた」

「・・・一週間?」

「そうだ。むせ返る程の濃厚な甘い香気に此方の気が狂れそうだった。・・・何があったかは大体察したがな」

「・・・・・・」

「おまえ、俺で試したのだな。あの日、その身を味合わせたのは俺で己の値打ちを測るためか。そして美久に己を差し出したか」

「・・・・・・」

「・・・大した欲だ、こんな方法で縛り付けようとは」

 そう言って多摩は依然黒羽を携えたままのレイの背へ無遠慮に手を伸ばす。
 触れられた黒羽はぴくりと反応したが、特に拒絶する様子は無い。


「とても良い手触りだ。・・・最初はこれに実体があるとは思わなかった」

「・・・?」

「まさか触れられるとはな。力として現れたものが目に見えているだけと思っていた。・・・・・・半分ほどは当たっているようだが」

「・・・何のことだ」

「この制服の生地は少し特殊なのだろう、損傷が殆ど目立たないが、よく見れば羽根が突き抜けた部分は布が裂けている。実体があるからこそ裂けたというわけだ。しかし、この羽根が抜け落ちておまえという本体から離れると・・・」

 黒羽に触れながら産毛のような柔らかな羽根を一枚だけ指で引っぱり、多摩はレイに了承を得る事無く勝手に抜いてしまう。
 そして彼は怪訝そうなレイの眼前でそれをかざしてニヤリと笑みを浮かべる。


「見てみろ」

 黒羽が光りの粒になってきらきらと弾けて消えた。
 それには後ろで見ていた巽も驚き、目を見張っていた。


「・・・おまえから離れると、この羽根は形態を維持することが出来ず、光の粒となって消える。とても不思議だ」

「それくらい知ってる・・・自分のことだ」

「それもそうだな」

 頷きながら多摩はクッと喉の奥で嗤い、僅かに目を細める。
 紅い瞳が心の奥まで覗き見るようにレイを見ていた。


「ならば、別の話をしよう。・・・美久の話だ」

「・・・」

「あの白い男は美久に対して"記憶が奪われている"と言った。だがあれは、"記憶を失った"という意味なのだろう?」

「・・・同じことだ」

「本当にそうなのか? 記憶を奪うという行為があり得るなら、それはどこか別の場所に記憶を移動させたということだ。だが、記憶を失うという状態は、保持されたものが再生出来なくなるだけで存在はし続けるはず・・・。俺たちが何らかの記憶操作をする場合も奪っているわけでは無いからな。まぁ・・・一生分の歴史を丸ごと操作できる者がいるなど、にわかに信じ難い話だが」

 多摩の言葉にレイは怪訝に眉を寄せた。
 謂わんとしている事が全く分からないわけでは無いのだ。
 ただ、失うと奪うとで多少の違いがあったところで、結局は思い出すという行為が出来ない事に変わりはない。
 記憶操作はレイも他の連中も出来る事だが、それは主に人の生き血をいただいた直後に、騒がれることのないよう新たな記憶を植え付ける事で本当にあったことを書き換えてしまう。
 しかし、美久のはその規模が違う。
 消失しているのだ、一生分まるごと。
 おまけに彼女が幼い頃、レイが会いに行った時の記憶までが丁寧に消されている始末だ。
 どんなことをやったらそこまでの大規模な記憶操作が出来るのか、取り戻す事ができるのか、レイには分からなかった。


「じゃあ何だよ、失っただけの状態なら存在は残ってるから再生可能とでも言いたいのか?」

 不毛な話に思え、レイは半ば吐き捨てるように答える。
 だが、多摩はそれを受け流すことはせず、無表情に小さく頷いた。


「俺はそう考えている。散り散りになって再生出来なくなってしまったものを繋ぎ直す事が出来ればの話だが」

「・・・・・・は・・・?」

 レイは眉をひそめ、うんざりした様子でため息を吐いた。
 都合のいい理論で取り戻す事が出来たなら、レイが此処まで葛藤することはなかった。
 そもそも多摩の力とは未来をどうこうするものではないのか。
 一体なにを言いたいのか、したいのか、レイにはさっぱり理解出来ない。
 レイは明らかに多摩の話をまともに聞く気がなさそうだった。
 多摩はそんな彼の様子を見て、ひっそりと笑みを浮かべる。
 

「───そうだったな・・・・・・、確かに目に見えないものはとても不確かだ」

 そう言って酷薄に目を細め・・・彼は片手をゆっくりあげた。
 まるで何かの合図に思えるその動作に不穏な空気を感じ、レイは間合いを取るためにベッドから飛び降りようとする。
 しかし、ふと、今まで黙っているだけだった巽がやけに気になった。
 こんな時に散漫になるのは危険だ。
 分かっていても異様なまでに強い視線を感じ、それを無視出来ない。
 その違和感を確かめるため、一瞬だけのつもりでレイは巽に視線を向けた。


「・・・えっ!?」

 極限にまで開かれた巽の瞳と目が合う。
 その直後、待ち構えていたかのように巽の瞳の奥からは大量の光が放出されたのだった。

 ───何だ・・・?

 驚きながらもその光から逃れようと、レイは後ろに跳ぼうとした。
 しかし、意に反して足が動かず、目も離せない。
 見た事も無いその光にただただ釘付けになってしまうのだ。


「・・・・・・、・・・・・・あ・・・?」

 不意に、何かの映像が目の前を横切った気がした。
 今のは何だったろう。

 ・・・あれは、いつだ?

 横切った映像は一瞬だったのに、やけに動揺している自分が居る。

 今のは何だった。
 見た事がある・・・、確かあれは・・・

 そう思った途端光が弾け、今度は嵐のような何かが己の内部を駆け巡り始めたのだった───









その7へつづく



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