『約束』

○第3話○ 動き出した日(その3)







 午後の授業が始まり皆が教室に戻った頃、レイは再び屋上に一人で足を踏み入れていた。
 先ほどまで4人で昼食を摂っていた一角を一瞥し、ゆったりとした緩慢な動作で近場の柵にもたれ掛かる。
 やわらかな風を感じ、静かに後ろを振り返って空を見上げた。


「・・・見てないで、そろそろ出てこいよ」

 彼は何もない空に向かい、憎悪を込めた鋭い眼光でそう言った。
 その後に待つものは沈黙しか存在しない。
 だが、次の瞬間だった。
 レイの言葉に応えるかのように、空がグニャリと歪んだのだ。
 その歪みから飛び出したのは、二つの"手"だった。
 大きく長い指と爪を持つその両手は、真っすぐにレイの首へと向かう。
 それは迷うことなく彼の首を締め上げ、レイは一瞬眉を顰めて眼前を睨みつけた。
 しかし、やはりそこには何もなく、誰のものかもわからない両手だけが浮かび、それがレイの首を締めている。
 とても有り得ない光景だった。


『クックック・・・』

 不意に喉の奥を鳴らすような笑い声が辺りに響き、両手の先が徐々に浮かび上がっていく。
 レイにはそれらが最初から見えていたのか、見えていなくとも知っていたのか・・・彼が睨みつけていた先には、愉しそうに嗤う男が姿を現した。
 透き通るような乳白色の肌に背中まである美しい銀髪、薄く開いた唇は赤い紅を差したかのように湿り気を帯びて邪悪に口角が上がり、目の覚めるようなエメラルドの瞳の輝きはあまりに鋭い。


「レイ・・・望まれぬ子。・・・いっそのこと、このまま死んでみるか? 私の手で殺してやろうか?」

「お前に出来るのかよ」

「相変わらず怖い目をする。久々に会った"兄"に挨拶もないのか?」

「いきなり首を絞めるような奴に何を言うっていうんだ」

 そう言うと、目の前の男は『それもそうだ』と、実に愉快そうに嗤う。
 両の手を漸く首から外し、今度はレイの頬をやわらかく包みこむ。


「父上が捜している。一度帰ってみてはどうだ?」

「誰があんな所・・・」

「そうか」

「・・・それより、いつオレの存在を嗅ぎ付けたんだよ」

 レイの問いかけに男は目を細め、彼の耳元に唇を寄せてわざとらしく妖しげに囁いた。


「さて、いつだったか・・・。どのみち久しく暇を持て余して飽き飽きしていた所だ。少しくらい楽しませてくれると良いのだが・・・」

「・・・・・・どういうことだ?」

「鈍いところは相変わらずか」

 吸い込まれそうなエメラルドの瞳が冷酷に光る。
 レイは不快そうに眉を寄せた。


「佐藤夕子」

「・・・ッ!」

「あの女、なかなか面白いじゃないか。ほんの少し心に囁きかけただけで簡単に動いたぞ」

「・・・・・、・・・そういうことかよ」

「あの女は闇を抱えているようだ。そういう者を突くと色んなものを見せてくれる。特に女の嫉妬は女に向き、相手を貶める為に容易く動く」

「・・・・・・」

 レイが忌々しそうに顔をゆがめると、男は目を細め邪悪に笑った。


「おまえの愛しい娘が歪んだ闇に呑み込まれても、か弱い人間のフリを続けられるのかと思ってな・・・」

「・・・っ」

「可哀相な子だ。私は敵でも味方でもないというのに・・・・ただ、おまえの苦しみ怒りに満ちた姿を見ると、つい虐めたくなってしまうだけなんだよ」

 男はそれだけ言い置くと、レイから離れた。
 現れた時と同様に不自然に空が歪み、その歪みが消えた頃、男の姿も消えていた。
 レイは怒りに震えていたが、自身を落ち着かせるため息を漏らし、柵に手をかけた。
 しかし、触れた途端鉄の柵は硬さを失いグニャリとひしゃげてしまい、液化してから地面に滴り落ち、ジュウと音を立て煙を出すだけで怒りを静める役にも立たなかった。


「・・・・・また・・・邪魔をするのかよ、・・・・クラウザー」

 低く、呻く。
 クラウザー、それが、憎い兄の名だった。











▽  ▽  ▽  ▽


 その日、美久もレイも学校が終わってすぐに家へ戻った。
 だから別段帰宅が遅かったわけではなかったのだが、二人が帰ると既に貴人が家でビールを飲んでいて美久は目を丸くする。


「お父さん、会社どうしたの?」

 驚いてそう問いかけると、貴人は「早く終わったんだ」などと有り得ない事を口にする。


「そんなわけないでしょ!? 6時までって決まってるんだからっ、どうして早退なんて・・・」

「ちょっと身体に悪寒が走ったもんだから・・・うっ、寒い!」

「ビール飲んでる人が何言ってるの! どうしてそんな嘘ついてサボったりするの!?」

 美久の追求をのらりくらりとかわし、貴人はビール缶を飲み干してしまうとリビングのソファに腰掛けて欠伸を一つした。


「なぁ、美久〜」

「なにっ」

「飯にしてくれ〜、腹が減って死にそうだ」

「・・・・・・っ、もうっ!」

 彼女は怒りながらもこれ以上の追求が不毛に終わることを悟り、不満気に台所へ消えていった。
 すぐに規則正しい包丁の音が聞こえだすと、貴人はゴホンと咳払いを一つして、レイをちらりと横目で見ながら鼻の頭をポリポリと掻いた。


「・・・美久は変わったよ。・・・あの子は自覚してるんだろうか」

「・・・・・・」

「あんなふうに感情を表に出す子じゃなかったんだ。・・・まるで小さい頃の美久に戻ったみたいだなぁ」

「どういう意味だ?」

「・・・君は薄々感づいていると思ったんだが。・・・・・・僕が美久に何をしたのか、美久がどうして君を憶えていないのか」

「・・・・・・」

「僕はただ、君と関わる事で、あの子が呼び寄せる不幸を遠ざけたかっただけだよ」

 レイは黙って貴人を見ているだけだったが、彼はその視線に堪えられずに目を逸らした。


「だから君の存在なんて忘れてしまえばいいってね・・・、そんなふうに考えたんだ」

 貴人はぽつりぽつりと呟きながら、再びレイに視線を戻す。


「・・・・・・だから僕は、・・・・・、・・・ッ、・・・・・・なぁ、レイ・・・その首筋の痕はなんだ?」

 何かを言いかけた貴人は突然いぶかしげな顔をして言葉を飲み込み、もう殆ど消えかかっていた首筋の痕を指差す。
 レイはハッとしてそれを手で隠した。
 これはクラウザーに首を絞められたときに出来た痣だった。
 しかし、既に見えるか見えないかという程度に薄くなっていて、貴人よりずっと傍にいた美久ですら気づかなかったものだ。


「それはなんだ? 凄く嫌な感じがする。誰にやられたんだ? 美久もいずれそう言う目に遭うのか?」

「ちがう、これはわざとやらせたんだ。美久には指一本触れさせない」

「そんな言葉を信用出来るわけがないだろう!?」

 詰め寄る貴人にレイは視線を落とし、唇を噛み締めた。


「・・・貴人は・・・変わったな・・・・それとも皆、生まれ変わればそうやってリセットしてしまうものなのか?」

「・・・・・なにが言いたい?」

 貴人は、レイの言葉に内心ギクリとしていた。
 それだけではない、その瞳にも、表情にも・・・、何も変わらない彼の全てが貴人を追いつめていく。


「オレにかけた言葉も、あの時限りのものだったのか?」

「・・・・・・・・・っ」

 貴人はハッとして息を殺す。
 彼はその目が何を責めているのか、何を言いたいのかを分かっていた。
 レイが言う『言葉』は覚えがあるものだ。
 ・・・ただし、"今ではない遠い昔の自分が言った言葉"だったが。


「・・・・・・そんな事・・・もう忘れたよ」

 声を震わせ、逃げるように目を逸らす。
 レイが射すような目で此方を睨んでいるだろうことは容易に想像できたが、これ以上はとても目を合わすことなど出来ない。


「そうかよ」

 貴人が彼の視線に堪え続けるのが苦痛となった頃、レイは諦めたように息を吐いて静かにソファから立ち上がる。


「なぁ、貴人。あんたの望みを叶えてやるよ。・・・オレは美久に真実を伝える。・・・それで恐怖して拒絶するか、それとも受け入れるか、確かにそれで全てが決まるからな。・・・あんたの望みは前者のようだけど」

「・・・レイ?」

 貴人は部屋を出ていこうとするレイを引き留めるかのように立ち上がって彼を呼び止めた。
 だが、一度だけ振り向いたレイの目に感情は無く、それきり何も言わずに立ち去る後ろ姿は貴人を拒絶していて、何一つ声をかける事は出来なかった。
 貴人はもう一度ソファにどっかりと腰掛け、大きく息を吐いて天井を見上げる。
 間違った事はしていないと思う一方、彼を傷つけたことに後ろめたさを感じる自分が居た。


「あれ? お父さん、レイは?」

 食事の用意が出来たと伝えに来た美久が顔を出して、レイの姿がないことに気づいてきょろきょろしている。


「・・・・・・あ、あぁ、今出ていったけど会わなかったのか?」

「うん」

「じゃあ、部屋に戻ったんじゃないかな」

「・・・食事どうするのかな。・・・ねぇお父さん、レイって、いつ食べてるんだろう・・・一度もまともに御飯食べてるの見たことないんだよね。聞いても要らないっていつも言うの」

「それは身体によくないなぁ」

「うん、顔色は普通だし、身体の具合も悪そうじゃないんだけど。・・・それとも、どこかで食べてるのかな。ウチで食べるの遠慮してるとか」

「遠慮する性格じゃないよ。彼の好きにさせたらいい」

 美久の疑問に適当に相づちを打ちながら、内心で彼がどうして食事を必要としないのか・・・その理由を知っている貴人は何とも言えない気持ちに陥っていた。


「・・・私、一応呼んでくる」

「あ、・・・・・・あ、あぁ」

 今美久がレイの所へ行けば、彼は自分の正体を明かすんだろうか。
 貴人はもう一度大きな息を漏らして俯く。

 レイの言う通り、僕は受け入れない方を・・・ずっとそれだけを望んできた。
 遠い過去まで引きずって生きるわけにはいかない。
 そんなものは今の自分達とは無関係だからと、一切の関わりを断ちたかった。
 だけど僕の望みが叶えば、レイはどうなるんだ?

 今になって何故それを考えるのだろう。
 そんな自分はあまりに残酷だと思い、貴人は自嘲するように浅く嗤った。











その4へつづく


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