『約束』

○第3話○ 動き出した日(その4)







 レイは美久の部屋で佇み、何をするでもなくぼんやりしていた。
 幼い頃から過ごしてきた彼女の歴史が詰まったこの空間は、それだけで愛しいと思えるものだ。
 考えている内にレイは急激に虚脱感を憶え、そのままベッドに横になる。
 一歩進んだかと思えば、すぐにまた大きな壁に突き当たる。
 どうしてこんな所で立ち止まらなければいけないんだろうと、レイは唇を噛み締めた。
 先ほどの貴人の言葉は美久が何故レイを覚えていないのか、その理由を自白しているようなものだった。
 それは何となく頭に思い浮かべていたことではあったが、答えを確信していたわけではなかった。
 しかしそれが事実と分かってしまった今、レイは本当に始めから美久とやり直さなければならないのだということを理解した。

 ───"昔の記憶"を持ってるのに、アイツはもうオレの知る貴人じゃない。

 レイは小さく息を吐く。
 何もかも最初からやり直さなければならないなら、レイには美久に告げなければいけない真実があった。
 だが・・・それで美久がどんな反応を見せるのか、それを考えるのは恐怖以外の何ものでもない。
 まるで売り言葉に買い言葉だった。
 彼女を抱いたことで意味もなく自信がついてしまったのだろうか。

 今の美久には共有する過去など何処にもないというのに・・・?
 人は変わる。
 変わらない方が不自然なくらい、それが当たり前のように変わってしまう。
 思い出は風化し、いずれ忘却の淵に追いやられるだろう。
 オレのように、縋り付いて生きたりはしない。
 望まない結果を突きつけられた時、オレはその現実とどう向き合うつもりなんだろう。
 ・・・それとも、拒絶される事でこの想いが風化される日がやって来るんだろうか?

 ───コン、コン
 ノックの音に我に返る。
 気怠そうに上体を起こしドアに視線を向けると、美久がひょっこりと顔を出してこちらを窺っていた。


「・・・私の部屋にいたんだ。どうしたの? 眠いの?」

「・・・・・・あぁ・・・いや、・・・・・・そう、かな」

 彼にしては歯切れの悪い受け答えに美久は不思議そうに首を傾げる。
 レイはそれ以上何も答えることなく、もう一度ベッドに横になってしまった。


「レイ? ・・・あの、御飯食べない? 用意したんだけど・・・・・・」

「・・・・・・・・・いらない・・・」

「気分悪い?」

「いや・・・・」

「でも、・・・レイって、少食・・・なの? 食べてるところを殆ど見たことないよ。お昼も私が無理矢理食べさせたエビフライだけだったでしょ? もしかして、遠慮してどこかで食べてるの?」

「・・・・・・」

「レイ?」

 レイはベッドに横になったまま、ずっと天井を見据えていた。
 いつもなら恥ずかしくなるほど見つめてくるのに、今の彼はそうしない。
 まるで視界から自分を外そうとしているかのように思えて、美久は不安になってレイの顔を覗き込んだ。


「・・・・・・っ」

 目の前に突然美久の顔が現れ、レイの顔が強張った。
 その様子に美久は少し表情を曇らせる。

 私・・・何かしちゃったのかな・・・
 そんな気持ちが顔に出ていたのか、彼は幾分表情をやわらかくして美久の頬に手を添えた。


「・・・今日口に入れたのは、あのエビフライだけ。昨日もその前もその前も・・・もうずっと・・・何も食べてないよ」

「えっ」

「欲しくないんだ」

「どう・・・して?」

「・・・美久たちとは食べる周期が違うんだよ。それに、同じものを口に入れても、決して糧にはならない」

「・・・・・・?」


 ───美久・・・・・・たち? 糧?

 美久にはレイの言っている意味が全く理解できなかった。

 食べる周期?
 そんなものに周期なんて・・・

 戸惑う美久を見て、レイは再び上体を起こして彼女を見上げる。


「じゃあ、例えばこんなのはどう? 肉食動物は肉を食べ、草食動物は植物を食べる。鳥類は果物や穀物や虫も食べる。ある昆虫は樹液をすすり、また別の昆虫は葉を囓り、時に別の虫を糧にする種もいる。食物連鎖という種の保存の法則がある限り、食って食われての繰り返し・・・・・・だとしたら、人と同じ形をした生き物が、人間が思い描く食物とは別の何かを欲したとしても、それもまた食物連鎖のひとつだと思わない?」

「・・・・・・・・・う・・・ん? ・・・・・・でも、そんな生き物なんていないよ?」

 レイの口元が弧を描く。
 彼はゆっくりと自分の胸にトン、と人差し指を突き立てた。


「じゃあ、オレは何?」

「・・・・・・・・・?」

「・・・・・・オレたちは・・・・・・なに?」


 オレ、たち。

 レイの言い方がもの凄く引っかかる。
 さっきは『美久たち』で、今度は『オレたち』。
 まるで彼とは違う生き物だと区別されているかのように聞こえた。


「レイは・・・レイでしょう?」

 言葉が見つからなくて、そんな台詞しか出てこなかったのをレイは見透かしたのかも知れない。
 小さく笑って、寂しそうに瞳を揺らめかせた。


「そうだね。でも、本当のオレを知ってもそう言ってくれる?」


 本当の?
 よくわからない。
 ただでさえ、レイの事はわからないことばかりだった。
 本当のレイというなら、今まで見せてきたレイが偽物だったとでも言うのだろうか。
 レイは考え込んでいる美久の手をとり、自分に引き寄せた。


「あっ」

 美久は彼の上にそのまま倒れ込み、強く抱きしめられる。


「レイ、なに・・・っ」

「昼に約束したこと憶えてる?」

「・・・え?」

「昼食の時、美久はオレを拒絶したね。・・・傷ついたなぁ」

「・・・っ」

「・・・約束、おぼえてる?」

「・・・・・・っ」

「美久は自分が悪いと思ったから、オレとあんな約束したんだろう?」

「・・・・・・あれはっ」

 美久は屋上でのことを思い出して困ったように眉を寄せる。
 これは夕子と小田切が見ているにも拘らず、レイが美久の髪に口づけているのを二人に見られ、慌てて拒絶したあとの話だ。
 あんなふうにレイが怒った顔を見せると思わず焦っていたら、それを許すかわりだと言って"ある事"を約束させられたのだ。


「忘れちゃった?」

「おぼえてる・・・よ・・・、今日の話だもの・・・」

「なら、いいよね」

「う・・・でも、今・・・?」

 顔を真っ赤にして聞くと、レイは小さく笑った。
 お昼の会話が美久の頭の中で蘇ってくる。


 ───あー、傷ついた。髪を触ってただけなのに・・・

 ───ごめん、ごめんね

 ───じゃあ、またエッチなことしていい? そしたら今のはナシにしてもいいけど。

 ───え、・・・って、えぇっ!?

 ───・・・何でそんな嫌そうな顔するわけ?

 ───あっ、そ、そういうわけじゃ・・・っ

 ───そう? ならいいんだね

 

「・・・っ、〜〜〜〜っ」

 思い出して美久はますます顔が赤くなる。

 ・・・あああっ、恥ずかしすぎる・・・っっ、何て会話なの・・・・・・っ

 最初の時は突然過ぎたし、まだ色々と心の準備が間に合っていなかった。
 けれど、この先も一緒にいるなら、わざわざ約束なんてしなくても、またそんな日は訪れるかもしれないと思っていたのだ。
 まさかこんなふうに二度目を約束することになろうとは考えもしなかった。
 そして、それはレイも同じように考えていた事でもあった。
 本当は美久が困っている顔が可愛くて苛めてみたくなっただけで、二度目の約束なんてこの瞬間まで頭の隅に追いやっていたくらいだったのだが、今みたいに真っ赤な顔で泣きそうな瞳をして、レイの機嫌に簡単に振り回されてしまうのはとても微笑ましく、すぐにでも彼女を抱きたいという欲求に駆られてしまう。

 ───だが、


「・・・・・いや・・・・・・やっぱり、今日はやめておこうかな。さっきの話の続きもしたいし・・・。・・・だから明日までおあずけにする」

「え・・・いいの?」

「そのかわり、話が終わった後・・・ね?」

「・・・・・・ぅ・・・ん」

 耳まで真っ赤にして俯く様子に眼を細め、レイは美久の身体を出来る限り優しく抱きしめる。
 美久は気づく事がなかったが、彼の表情は苦悶に歪み、閉じられた瞼は僅かに震えていた。










第4話へつづく


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